灯光

 偽物のように感じられた世界の中で、初めて光が灯った瞬間だった。決して眩しいとは言えない、微かな光ではあったけれど、一度灯ったそれが少しずつ広がっていくように、見えなかった色が、ものが、次第に見えてくるようになった。
 白蘭の心を救ったのは一人の少女──ユニだ。しかしきっかけは、自らが創造した悪夢の中でも心が死ななかったのは、未来のあの瞬間、寄り添うように共に消えていった女──なまえのお陰だった。その時なまえは特に白蘭に向けて愛情などは抱いていなかったし、もちろん救うつもりもなかったけれど、結果的にあの時の行動は空虚と孤独に襲われた白蘭を支えることになったのだ。

 白蘭が敗北を知る前のこと。初めて自身の能力に気付いた時、白蘭はどの世界でもなまえが必ず側にいることに心底驚いた。それは友人として恋人として様々ではあったが、なまえと出会わないという世界が一つも見当たらなかったのだ。そしてその時知った、女の能力。白蘭が世界征服を行うにあたって、その能力はとても意義のあるものだった。
 全てを知った上で白蘭はこう考えた。女の存在は言わば偽りの世界──ゲーム上──で己に付属された力であり、またこれから始める世界征服のために生まれてきたものであるのだと。傍から見ればその思考はあまりにも横暴なのだが、この時の白蘭はそれを信じて疑わなかった。
 しかしもう白蘭はあの時の白蘭ではない。元通りとは言えないが、マーレリングの力を失ったことで白蘭はただの男──と言っても白蘭自身の能力は残されているが──に戻ったのだ。
 目の前で己を見つめるなまえの頬にそっと指を滑らせる。すると女は驚いたように目を見開いてパチパチと瞬きを繰り返した。

「どうしたの? 白蘭」
「んーん、なんでもない」
「最近そればっかりね」

 なまえには、未来での出来事の記憶がない。当たり前だ。あれはユニが沢田綱吉達の仲間に向けて送ったものであり、なまえは彼らとの面識はほとんどないのだから。それこそ、白蘭があの世界から去る瞬間に初めて顔を合わせたに近い。ユニだけは初めから女の存在を知っていたようであるが。
 しかしもし未来での記憶がなまえに送られたとしても、女に待つのは地獄だけだ。白蘭の行いは、もはや元に戻すことも叶わないほどなまえを酷く傷付けた。そして、二人の出会いは十年以上前になる。それまで友人として接していた白蘭から、決して許されぬほど傷付けられた未来が現実にあったのだと知れば、たとえその行いが消滅されていたとしても二人は今までと同じように過ごすことは確実に無理であろうし、再びなまえを傷付けることにもなる。

「なまえチャン」
「なあに?」
「もし君が、この先の未来なにか苦しいことがあったり嫌なことがあったりしたら、絶対に僕を呼んで」
「なに……本当に、どうしたの。この間しばらく会えなかった時に、なにかあった?」
「ううん、そうじゃないよ」

 二人によって再生した白蘭に芽生えたのは、二人への感謝と愛だった。詳しく言えば二人へのその感情は全く同じではないのだが、大切に思う気持ちには変わりない。ただ、なまえには未来と同じようにずっと側にいて欲しいと願った。そして今度はなまえを守りたいと誓った。
 未来での記憶があろうがなかろうが、白蘭にとっては寂しくてもどかしい。しかしこの選択は、間違いなくユニが正しかった。
 一度知ってしまえば、途端になまえが愛おしいと思った。変わりなく己に笑みを浮かべ、心から己を心配する。はたして未来では、いつからこのような表情を見ていなかっただろうか。そもそもなまえは初めからこうであっただろうか。それまで見ていた景色とはまるで違う女の様子に白蘭は驚き、そして自分と世界の変化に戸惑っていた。

「なまえ」
「もう……なあに?」

 柔らかな視線で見つめられる度に、白蘭は泣きたくなった。未来での行いを猛省し悔やんでいるわけではないが、それでもなまえに対しなにも思わないわけじゃない。
 なまえの手のひらが白蘭の頬に触れる。そうして目の下の模様をなぞるようにゆっくりと親指の腹を滑らせると、胸の内を語るように瞼を閉じた。

「最近ね、たまに、白蘭の夢を見るの」

 どっ、と、白蘭の心臓が大きく脈打つのを感じた。それは絶望なのか期待なのか白蘭自身もよくわからなかったが、どうかその瞳に恐怖が宿らないで欲しいと、この瞬間切に願った。

「……それは、どんな夢?」
「色々あるんだけど……この間は、そう。なにもない空間に、白蘭がポツンと一人でいてね。嬉しいとか、悲しいとか、なんにも感じていないように一人でいるの。白蘭自身はわからないけど、わたしはそれが寂しいって思って、切なくなって。側に行きたいのに、全然行けないのがもどかしくて。それがなんだか、最近白蘭の様子が違うのと関係あるのかと思っちゃったの……そんなこと、あるわけないのにね」
「……」
「ごめん、急に。ただの夢だから」

 気が付いたら勝手に体が動いていた。なまえの腕を限りなく優しく掴んで、己の胸に寄せて、壊れぬようにそっと抱きしめる。腕の中でなまえは驚いたように声を上げたけれど、決して拒むようなことはしなかった。それが、白蘭にとっては酷く安心した。

「びゃく、らん……?」
「ごめん。少しだけ、こうさせて」
「……うん」
「他には……他にはなにか夢を見た?」
「……見てないよ」

 おそらくはっきりと未来の記憶を見たわけではないのだろう。しかし白蘭にはなまえのその答えが嘘であるとすぐにわかった。昔から、そして未来でも、女は嘘が苦手だったから。

「お願いがあるんだ」
「お願い?」
「僕はなにがあっても君を裏切らない。けどもし、もし僕が怖いと思ったら、我慢せずこの手を離して欲しい。僕は、なまえチャンが嫌がることはしたくないから」

 これからも未来での出来事を白蘭の口から言うことはない。言えるわけがなかった。今の白蘭は、なによりもなまえの心を守りたいのだから。その相手がたとえ、既に失った未来の自分であったとしても。


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