ウィスタリアの夜更け

 春の匂いがする。

 この空気に喜びを感じるのか、はたまた悲しみを感じるのか、それは人の心境によって感じ方は変わってくるものだと思う。春はとくに、ゆらぎのある空気が蔓延っている。

 ピンヒールを脱いで、こもった空気を逃がすように窓を開ければ、少しだけ冷たい空気が隙間から入りこんだ。わたしをすり抜けるように流れていくそれは、体の中にあった淀んだなにかも共に連れ去って、春の夜更けに紛れて消えるよう。
 ずっしりと、心と体が酷く重い。窓に背を向けて、全然好みじゃない冷たくて重いピアスを取り外せば、ころりと、投げるようにローテーブルへと転がした。今のわたしの姿は全身嘘だらけ。どれだけ美しいもので身を装おうと、心が満たされることはない。
 するともう片方のピアスに手をかけたとき、背後から先ほどよりも強く風が入り込んだ。
 ふわりと揺れる髪。そして部屋中に漂った、妙な緊張感。
 わたしはおそるおそる、背後を振り返った。そしてそこに見えたのは怪しい黒い影と、月明かりに照らされてきらきらと瞬く金色。

「ベ、ル……」

「なにその顔」

「だって、その、久々……だったから」

 最後にここに来たのは一体どれくらい前だっただろう。もう、わたしのことなんか、忘れてしまったのだと思っていたのに。そうでなくちゃ、こうして好きでもないピアスをつけてなどいない。
 ベルの視線が、わたしの全身にくまなく注がれたような気がした。途端に後ろめたい気持ちが、むくむくと膨らみあがる。そんなに真っ直ぐ、今のわたしを見ないで欲しい。

「随分決めてんね」

 かっと、顔が熱くなった。視線を逸らすように俯けば、ベルは一歩一歩、わたしを追い詰めるように距離を縮めてくる。無意識に、彼から逃れるようにわたしも一歩ずつ後ずされば、がたりと、踵がソファの脚にぶつかった。

「香水、変えた?」

「……この間、変えた」

「ふうん」

 ベルの指が、そっとわたしの耳に触れる。
 片方だけ取り残されたピアス。すると彼はするりとそれを取り外すと、「これは?」と言って、見せつけるように顔の前でゆらゆらと揺らした。

「そ、れは……」

「早く言えって」

「もらって……」

「誰に?」

「…………」

 思わず俯いた。悪いことは、していないはずだ。なぜなら、わたしたちの関係に名前など、一度だって付いたことはなかったのだから。それなのにどうしてだか、居心地の悪さに息がつまりそうになる。
 ベルはしばらく黙り込むと、大きく一歩、わたしとの距離を詰めた。しかし逃れようとしても、既に背後にはソファがある。逃げ場なんてものはどこにもなく、彼はそのまま押し倒すようにそっとわたしの肩に触れると、簡単にわたしの体は傾いて、ソファへと沈んだ。

「なまえ」

 ギシ、と少しだけソファが軋む音がした。ベルの膝がわたしの足の隙間に入り込み、片方の手はわたしの顔の横に添えられて、まるで逃げ道を塞ぐよう。

「オレこの匂い嫌い」

 不機嫌そうにベルは言った。そうして先ほど取り外したピアスを床に放り投げると、もう片方の手もわたしの顔の横に添えられる。
 もう一度、ソファが軋む音が響いた。吐息が交わってしまいそうなほど彼の顔が近づけば、金色の隙間から彼の瞳が微かに見える。その瞳はどんなものよりも美しく、それでいて穢れのない宝石のようであった。

「お前、本当にこれ似合ってると思ってんの?」

「ベルには、関係ない……」

 彼はしばらく黙り込んだ。怒られる、だろうか。そもそも、怒られる理由なんてないけれど。
 沈黙が苦しい。しかしベルの口から零れた言葉は、想像とは違ったものだった。

「お前がアホだってこと、すっかり忘れてた」

「急に、なに」

「そもそも、手放したつもりないんだけど」

「そんなの、だって……全然来ないから、もう、忘れられたのかと」

 ベルはわざとらしく、はあ、とため息をついた。思わずびくりと、肩を震わせる。今度こそ怒られるかと思ったが、彼は下から覗き込むように顔を近づけると、不機嫌そうに顔を顰めた。

「他の男がいいわけ?」

 ぎゅ、と。心臓がしめつけられるような気持ちになった。不機嫌そうな、けれど寂しそうな声が、「なまえ」とわたしの名前を呼ぶ。少しだけ口を尖らせたその表情は、まるで幼子のよう。

「答えろって」

「ベルが……いい」

「ん、いい子」

 ちゅう、と子供が遊びでするような口付けだった。それなのに、何度もぱちぱちと瞬きをしてしまう。目を合わせられなくて、けれど離れてほしくなくて。たくさんの矛盾がわたしの中で生まれて、動けなくなる。

「……ベル」

「ん?」

「もっとたくさん会いたいって言ったら、きらいになる?」

 じっと、彼の顔を見つめた。するとベルはわたしの髪にそっと触れると、「ほんとお前アホだな」と呟いた。

「むしろもっと好きになるかも」

 そう言って、ベルはそっとわたしに口付けを落とした。今度はゆっくり蕩けるような、甘い口付け。

 あれだけ淀んでいた気持ちが、春の夜更けに溶けて消えるよう。いつの間にか蔓延る春の空気が、ゆらゆらと淡い空気に変わっていた。


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