恋の氷が溶けるころ

 朝を告げる音が鳴る前に目が覚めた時、薄いカーテンの隙間から覗く淡い光と、それに反射して煌めく金色が視界に飛び込んだ。昨夜には見えなかったはずの眩い光は、驚きと共に喜びをわたしに与える。今日一日が幸福であることを約束された瞬間であった。



 暗殺部隊ヴァリアーに所属してから、もう何年もの時が経つ。それこそ、隣で眠る彼よりも長い年月だ。ボスが戻り、そして活気も戻ってきたこの城の中は、それまで眠り続けていたのではと勘違いをしてしまいそうなほど騒がしかった。それはただ単に彼らが城の中で暴れ回っているという意味でもあるのだが、毎日の業務に関しても多忙を極めていた。今日はそんな目まぐるしい日々にようやく訪れた休日であった。
 わたしが目覚めたことに気がついたのか、はたまた初めから起きていたのかは、隠れた前髪のせいではっきりとはわからなかったが、隣で眠っていたように見えたベルは少しだけ身じろいだあと「早くね? 今日休みっしょ?」と、普段よりも掠れた声で呟いた。

「うん。でもなんだか、目が覚めちゃって」

「歳じゃね?」

「それは随分失礼じゃない? ベルと五つも変わらないんだけど」

 ベルは「はいはい、じゃあオレともう一眠りしよ。オネーサン」とわざとらしく言うと、ぐるりとわたしの背に腕を回して抱き込んだ。それだけで、目が覚めたはずのわたしの脳や体は再びゆるりと微睡み始めるのだから、わたしはわたしが思っている以上に彼に惚れ込んでいるのだと、次第に沈んでいく意識の中で実感し、そして理解した。

 次に目が覚めた時はもう既に部屋の中に影が見られないほど明るく……いやむしろ明るすぎると言っても過言ではないほど太陽が高くまで登っている時間であった。わたしが目覚めた時には既にベルは起きていて「どんだけ寝んだよ」と、朝方とは対照的な言葉を告げた。

「ベルのせいだよ」

「なにそれ、オレが一緒だとそんなに安心して眠れるの?」

「…………」

「ししっ。墓穴掘ったのは自分だぜ。かんわいー」

「……ちょっと、うるさい」

 揶揄うようにベルがわたしの髪に触れる。わたしは火照る頬を隠すように顔を背け、「準備しなくちゃ」と体にかかっていた寝具を捲った。「どっか行くの?」背後からベルが尋ねる。

「最近忙しかったから色々買い物に行きたくて……」

「ふうん」

「ベルも行く?」

「行ってやんないこともないけど」

 彼は未だわたしの髪に触れたままだ。

「うん、一緒に行こ」

 ベルはしばらく黙り込んだままであったが、そのあとなにも言わずにゆっくり起き上がるとトップスを脱ぎながら浴室へと向かった。そうしてシャワーの音がした頃、わたしもようやくベッドから起き上がり準備を始めた。

 遅めのランチを食べて、わたしたちはグレーの石畳の上を歩いていた。ベルは普段見る隊服姿とは違った、シンプルで、しかしひとつひとつにしっかりと存在感のある服装であった。その中でも、見慣れた白いブーツとは真逆の色をした黒色の、これまたシンプルな革靴を履いてこつりと音を鳴らして歩く様は、普段の彼を一瞬忘れてしまいそうなほどに格好良かった。口にすれば、王子なんだから当たり前じゃん、と言われそうなので思うだけであるが。
 それほど広くない道に立ち並ぶファッションブランドは今回買う目的の無かったものばかりであり、それぞれの入り口付近には狭いスペースに緑が植えられている。その中でも一際目を奪われた鮮やかな花が咲く店の中に、ベルは構わず入っていった。

「ベルも買うの?」

「は? ちげーよ」

 しかし入ってしまえば数名のスタッフと目が合う。ベルは本当に自分のものは買わないつもりのようでそのあとはわたしの隣にいるだけだ。誘われるように奥へと進み、レディースファッションを眺める。本格的に夏が始まるためか、並ぶ服も鮮やかな色のものが多かった。

「可愛いた……! けど普段はあんまり着れないんだよね」

「なんで?」

「なんでって、最近忙しいし、あんまり目立つ色を着る習慣もないし」

 それは自身が所属する場所ゆえの習慣であった。もちろんファッションは好きであるし、ベルの隣を歩くなら綺麗な姿でいたいとも思っている。しかし目の前に並ぶ服は些か手を出しづらいものであるのは間違いなかった。

「これ?」

「そう、だけど……ってベル?」

 彼はその目の前に並んだワンピースを手に取ると、軽く持ち上げてそのまま近くにいるスタッフに手渡した。「あとこれも、あれも、」と、続けるように指定した服はどれも普段自分では選ばないようなものばかりで、しかしどれもわたしの好みに合っているものであった。「ご試着は」と続けられたスタッフの言葉にベルはサイズを確認したあと、「いや、これでいい」とわたしに視線を送ることなく答える。目の前で交わされる会話に、わたしだけがついていくことが出来ず、パチパチと目を瞬かせその様子を見つめていた。

 ヴァリアー邸を出る前、絶対に持ちたくないと言っていたベルは自ら宣言したその言葉を簡単に破って、わたしの服が入ったショッピングバッグを手に持って歩いていた。またもや見慣れぬ姿に、今度は不思議な気持ちになる。彼はいつからこれほどわたしに甘くなったのだろうか。しかし思い返してみても、はっきりといつからとはわからなかった。
 透明なガラス越しに見える大空が、見慣れた橙色に染まってきていた。洗練され落ち着いた店内の中で、薄いベージュのテーブルを挟んで座るわたしたち。その間には、カップがひとつと、透明で赤い色をした液体が入ったグラス。そしてにほろ苦い粉を纏ったティラミスがひとつ、そのテーブルの上に並んでいた。

「なんか、ありがとう」

「なにが?」

「結局色々買ってもらって」

「余るほどあるから別に構わねーけど」

 ベルは目の前に置かれていたカップに口をつけた。そうして流れるような動作で頬杖をつき、白くて長い指先をわたしの方に向ける。

「別に、オレの前で着ればそれで良くね?」

「え?」

「普段着れねーとかさ、関係ないじゃん」

 なんてことないように告げられたその言葉に、わたしは数瞬遅れてようやく意味を理解した。ベルの瞳は相変わらず見えないけれど、その涼やかな宝石は真っ直ぐとわたしを射抜いているような気がする。宙を浮いていた白い指先がわたしの手の甲をなぞった。思わず手を引き込めたくなってしまったけれど、ベルの纏う雰囲気がそれを許さない。外よりも遥かに過ごしやすい温度であるはずなのに、体温がぐんぐん上昇していった。

「な?」

「う、ん」

 真っ赤なクランベリージュースの中に浮かべられた氷が、からん、と音を立てた。


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