グッバイサマー


※モブの女の子目線

 今年は例年より早くに夏も過ぎ去り、あっという間に秋が訪れたらしい。真っ青だった空はほんのわずかに彩度が落ちて、大きな積乱雲はほどけて薄い巻積雲となって浮いている。暑さも和らぎ、穏やかで過ごしやすい気候と言えるだろう。

「はい、夏油くん。今週の分です」
「ん、ありがとう」

 廊下の先にある十五畳ほどの洋室に足を踏み入れ、わたしはまとめた書類を彼に手渡した。手続きや支援資金を受け取る際に必要な書類、また名簿などがまとめられたものだ。受け取った彼──夏油くんはファイリングされたそれをパラパラと捲って確認すると、「ありがとう。今日はもう戻っていいよ」とわたしを見上げ、書類を書斎机の引き出しに仕舞った。
 彼の教祖活動は週末が最も忙しい。呪霊を集めるために行う集会。面談や取引。その他事務作業。後者はわたしや真奈美さんなど、事務仕事の出来る者で分担しているけれど、呪霊を取り込むのは彼にしか出来ないので必然的にその仕事量は多くなる。現に今も、集会を終えてそのまま書斎までやって来たのだろう。袈裟のまま机に向かう姿はなんとも違和感があった。

 わたしは幼いころから恐ろしいモノが見え、それを理由に周りからちょっとしたいじめを受けていた。挙動が不自然であったり、独り言が多かったり。頭のおかしい子だと言われ続けていた。わたしからすれば見えない方がおかしいのではないかと思っていたけれど、どれだけ真実を言おうとこの世は多数決で全てが決まってしまう。わたしは同級生から有罪を言い渡され、いじめを受けた。あの場所では周りと同じようにいられないことは罪にあたるのだった。
 それが一八〇度変わったのは、目の前にいる夏油くんのお陰であった。学校でいじめられ塞ぎ込んでいたわたしを、同じくわたしをおかしいと責め立てた両親が彼の元へ連れて行ったのだ。「このままだと娘は大学に行くどころか高校を卒業することさえ出来ない」「昔から娘には何かが取り憑いている」「病院やお祓いは当てにならない」もう夏油くんしか頼れる存在はいなかったのだろう。散々喚き散らした。彼の前にそびえ立っていた、達磨のような得体の知れないモノに。その状況は今思い返すだけでも恐ろしい。得体の知れないモノへではない。それに気付かず捲し立てるように騒いでいた、両親にへだ。思わず逃げるように後ずさったわたしに、必死な両親は気付かなかった。唯一気付いたのは、その奥で冷めた目をしていた夏油くんだけであった。

「どうかした?」

 なかなか書斎から退室しないわたしを不思議に思ったのか、夏油くんは書類に書き込んでいた手を止めてわたしを見やった。今週は特に忙しかったからか、目の下には薄らと隈が浮かんでいる。

「ああ、いや、その」
「……なにかあった?」

 ペンを置くと、くるりと椅子を九〇度回転させてわたしに向かい合う。そうして顔を覗き込んで、わたしの指先をそっと握った。

「私たちは家族なんだ。遠慮なく言っていい」

 あのときと同じ台詞を夏油くんは言った。わたしが彼に出会い、救われたときと同じことを。彼はこのようにして、わたしたちに寄り添ってくれる。出会ったときからずっと。そしてきっとこの先も。

「ううん、本当に違うの。ただいつもよりも疲れている様子だったから、なにか手伝えることがあるかな、と思って……」

 夏油くんは目をほんの少しだけ見開いて、まばたきを二回ほど繰り返した。きょとんとした顔は普段よりも幼く、年相応の青年に見えた。

「……そんなに出てた?」
「ちょっとだけ」

 おそるおそる言うと、夏油くんは「上手く隠せてると思ったんだけどな」と降参するように笑った。ギ、と背もたれに寄りかかり、眉間の皺をほぐすように親指と人差し指が添えられる。彼がこんなふうに疲れた様子を見せるのは珍しいと思う。普段じゃまず見ることがない。理由はそれほどまで疲労しているか。家族の中で彼と一番歳が近いのがわたしだからか。後者であればいいと、わたしは淡い期待を抱いている。

「わたしはまだ大丈夫だから。それ、代わるよ」
「いや、平気だよ。そんなに心配しなくていい」
「わたしじゃなくて、あの子たちがきっと心配する」

 あの子たちとは、美々子ちゃんと菜々子ちゃんのことだ。二人の名前を出すと、夏油くんは途端に躊躇う様子を見せた。もしかしたらなにか言われたことがあったのかもしれない。わたしは仕事を奪うように、半ば強引に書類を抜き取った。

「すまない。お言葉に甘えて少しだけ休ませてもらうよ。三十分くらいで戻ってくるから」
「もっと休んでもいいと思うけど……」
「二人が待ってるからね」

 彼の住まいはここからほど近い場所にあって、美々子ちゃん菜々子ちゃんと一緒に住んでいる。二人とはわたしと出会う一年ほど前に出会ったそうだ。ちょうど今時期の、夏の終わりだったらしい。教祖活動と両立して彼女たちの世話をし、ともに生きる。それは言葉で言うのは簡単だけれど、遥かに困難なことだと思う。
 正直なところ、事務仕事は明日でも構わないのだ。わざわざ休憩を取ってまで作業を続ける必要などない。しかしそうしないのは、週明けの月曜日は美々子ちゃん菜々子ちゃんと過ごす日と決めているからだそうだ。
 じゃあ少しだけお願い。そう言って夏油くんは小さく伸びをしてから書斎をあとにした。

 夏油くんが書斎を抜けてから四十五分が経過していた。休めるときに休むべきだとは思う。しかし彼は仕事を早く終わらせて家に戻りたいだろうとも思った。
 きっと上の階にある彼専用の和室にいるのだろう。迎えに行くべきか迷うのは、彼がその部屋に近付いて欲しくないように見えたからだ。それはわたしだけでなく、みんなそう感じていると思う。事実彼がその部屋に籠るときは、大抵みなそこには近付かないからだ。だからその中がどうなっているのかも、なにをしているのかも、きっと誰一人知らない。多忙な身だ。一人きりになれる場所は大切だと思う。
 しばらく悩んだところで、彼から奪った仕事が終了した。わたしは部屋へ向かうことにした。そこは階段を上がった先の長い廊下の行き止まりにあって、彼以外はほとんど寄り付かない。足音で彼が気付くかとも思ったがそれもなく、奥からはなんの音もしなかった。

「夏油くん……?」

 半分後ろめたさ、もう半分は好奇心がわたしを満たしていた。襖越しに声をかけて、三十秒ほど待ってから手をかける。
 中は拍子抜けするほど家具もなにもなかった。しかしその生活感のなさが彼らしいとも思った。一番奥に見える障子は少し開いていて、そこから外を眺めるように彼は肘を付いて凭れかかっていた。どうやら眠っているようであった。彼にもこんなふうに寝過ごしてしまうこともあるのか。人間なのだから絶対なんてないのに、わたしはひどく驚いた。
 そうして近付いて、またしても驚いた。少しだけ魘されているように見えたからだ。今日は涼やかな気候であるのに額には薄らと汗が滲んでいて、苦しげに顔を歪めている。ひどい焦燥感に駆られた。わたしは慌てて彼の肩を叩き揺すり、無性に泣きたくなってしまったのを声を張り上げることで誤魔化した。

「夏油くん、起きて……!」
「っ、ぁ、なまえ?」

 ひゅ、と息をのんだ。と同時に心臓がすうっと冷たく苦しくなった。彼が呼んだのはわたしではない。もちろんわたしたち家族の誰でもない。知らない女の子の名前だ。そしてその子を呼ぶ夏油くんの声も、知らない声であった。
 わたしが当たり前に高校に通っていたように、彼もまた学校に通っていたのだと聞いた。呪術高専という、その名の通り呪術を学ぶ高等専門学校だそうだ。詳しくは知らない。ただ五条悟という人物だけは、他のみんなから聞いたことがあった。夏油くんの同級生で、呪術を扱う者ならばほとんどの人間が知っているという。しかしもちろん夏油くんの仲間や友人はそれだけではなかっただろう。同級生先輩後輩。ここで言う家族になれる条件の人々がそこには揃っている。
 夏油くんが頼りなく縋るように囁いたその名前の子も、そこにいたのだろうか。それともそれ以前の友人、彼女、本当の家族の誰か。実際のところはわからない。けれども意識が朧気であっても口にするほどだ。彼にとってその子がどんな存在であったか、考えたくはないけれどわかってしまう。わたしたちには決して見せることのない、彼の弱くて脆くて人間らしい部分。つい先ほどまで見たかったはずなのに、実際に見てしまえばこんなにも苦しい。
 ハッとした様子で夏油くんは目を瞬かせた。そうして口元を大きな手のひらで覆い、瞼を閉じる。

「……すまない。どれくらい寝てた?」
「今でちょうど、一時間くらいかな」
「流石に寝過ぎたな。起こしてくれてありがとう」
「ううん。どういたしまして」

 見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさ。知りたくなかった胸の痛み。わたしは半分逃げるようにして背を向けた。恋愛感情とかそういうのではない。ただわたしが彼に救われたように、寄り添ってくれるように、一体彼の傍に寄り添ってあげられる人は誰なんだろうと考えたとき、それが家族の誰でもないことが辛かった。

「私、なにか変なこと言ってなかった?」

 和室を出る直前、夏油くんが問うた。ほんの少しだけ振り返る。「なにも言ってなかったと思うけど……」そう答えると、彼はわずかに安堵した表情を浮かべた。
 わたしはそれ以上なにも言えなくなって足早に和室を抜けた。背後から流れてくる秋の風は髪を揺らし頬をなぞって、わたしを寂しさへと追い込んだ。



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