炎ゆ


 これはありきたりな夏の話だ。けれどもそんなありきたり日々も、過去になれば、二度と手に入れられないものになれば、かけがえのない宝物のような時間になる。そうしてそれはいつだって、あとになってから気付くのだ。


一、

 その年は梅雨が異常に長く、太陽はいつも厚い雲に覆われたまま、はっきりとしない天気が続いた。春の任務を終えてから、どこか居心地の悪い空気が蔓延っているような気がして、まるでそれが移ってしまったのか、はたまた拍車をかけるように世界がそうしたのかはわからないけれど、とにかくいつも湿っぽくどんよりとした空気が肌にまとわりついていた。そうして長いこと頭痛に悩まされながら過ごし、七月を終えるころ、ようやく梅雨も開けた。
 梅雨が開けると一気に夏らしくなって、毎日が真夏日となった。鋭い日差しと、それにより熱されたアスファルトから噎せ返るような熱気。天地からの灼熱地獄に耐えながら、わたしは任務に励んだ。そうでもしないと、梅雨の間にまとわりついたじめじめとした空気を祓えないと思ったからだ。

 その日は任務が長引いて、高専に着いたのが夜の九時を過ぎたころだった。同行者は傑で、わたしたちは帰りの車のなかで寄り添って眠り、高専に着いてからそのまま寮へと戻った。眠りにつく前、報告書は明日にしようと話していたからだ。わたしはほんの少しだけ名残惜しかったけれど、昼間の暑さと任務の疲労で眠気はピークに達していたので、余計なことは言わずそのまま女子寮の方へ向かった。
 夜とは言えど昼間の日差しのせいで室温も高くなり、思わず姿勢が歪みそうなほどぬるい空気が廊下に漂っていた。寒いのは我慢出来るけれど、暑いのは耐えられないわたしには少々辛かった。早く部屋に戻ってシャワーを浴びたいと思った。そうしてようやく自室の前までたどり着いたとき、わたしは突然その場に縫い付けられたように足が動かなくなった。なぜなら見えしまったからだ。なにがって、夏によく出るあれが。あの黒いあれが、見えてしまったからだ(夏の風物詩とは絶対に言わせない)。ああもう最悪だ、とわたしは任務中ですら言わない言葉をぽつりと零した。
 わたしは急いで制服のポケットに手を突っ込んで、携帯電話を探り当てた。未だ足は動かない。呪霊は祓えるけれど、こいつは退治出来ないのだ。全然笑えない話である。微動だにしない目の前のそれを睨みつけながら、わたしは一切携帯電話の画面を見ずに、とある人に電話をかけた。着信履歴の一番上にいつも名前があるから、見なくてもかけることが出来た。ツツ、と電信音が鼓膜を揺らす。向こうもちょうど部屋に着いたころだろうから余程のことがない限り(たとえば走って部屋に戻りその足でシャワーを浴びにいくとか)出てくれるだろうが、このときばかりはやけに着信音が長く感じられた。

「ん、もしもし? どうしたの?」

 予想通り傑はすぐに電話に出てくれて、穏やかな声で「なにか忘れてたことでもあった?」と付け足した。わたしは恐怖と安堵がごちゃまぜになり、半分泣きそうな声で彼の名前を呼んだ。

「え、なに? 本当にどうしたの?」
「でた……」
「出たって、なにが」
「あれが……っ、お願い助けて」

 情けない声を出したからか、彼は疑問に思いながらもわたしの言葉に文句も言わず「部屋にいるの?」と言った。わたしは「部屋の前」とだけ告げる。すると睨みつけていた黒いあれがほんの少し動いたので、悲鳴に近い変な声を上げた。本当に気持ちが悪かったので許してほしい。けれども傑はその悲鳴で、なんとなくわたしがなにに怯えているのか理解した様子だった。

「……ああなんかわかった気がする。待ってて、今行くから」

 傑は言葉通り、すぐにわたしの元へ駆けつけてくれた。そうしてわたしが睨みつける先を見やって「やっぱり」とほんの少しだけ笑った。左手にはしっかりと殺虫剤が握られていて、上着は部屋に置いてきたのかワイシャツ姿だった。

「叩くのは嫌なんだろう?」
「だめ、絶対だめ」
「数時間前にはこれより酷いやつ祓ったのに」

 怯えるわたしに傑は、ぽんとわたしの頭にそっと触れてから一歩前へと出た。そうしてそのまま躊躇なく向かっていき、シューッと簡単に殺虫剤を振りかける。彼の大きな背中に隠れたお陰で、わたしはようやく足を動かすことが出来た。そっと息を吐き出す。しかしまだ心臓は早鐘を打ったまま。すると傑はくるりとこちらを振り返ると、「ティッシュもらうよ」と言って鍵を奪い、わたしの部屋へと入っていく。遠くに見えたそれは、ひっくり返ってぴくりとも動かなくなっていた。
 怖いけれど目が離せなくなるのは、もしかしたらいつかまた動き出すのではないかと疑っているからだろう。わたしはそのまま黒いそれがティッシュに包まれるまで、ひたすら監視していた。部屋のごみ箱に入れるのは怖いので、わざわざ遠くのごみ箱まで捨ててもらった。傑は低級呪霊を祓うように、あっさりと作業を終えた。

「ありがとう。助かりました……」
「ん、どういたしまして。森のなかだからやっぱり多いね」
「……早く夏終わってほしい」
「まだ始まったばかりだよ」

 緊張のせいで嫌な汗をかいてしまっていた。窓は所々開いてはいたが、それでも廊下は涼しいとは言えなくて、傑もひっそりと汗をかいている。なんとなく、ありがとうじゃあね、とは言い出せなくて、わたしは少しだけ皺になった彼のワイシャツをじっと見つめた。

「着替え、持っておいでよ」

 頭上から降ってきた言葉にわたしは顔を上げた。どんな顔をしていたか自分にはわからなかったけれど、目が合うと彼は満足そうな表情をして「こんなあとに一人で寝たくないだろう?」と、最もらしくわたしにやさしい理由をくれた。

 本当はいけないことだけれど、傑の部屋で眠ることはときどきあった。わざわざ眠りに行くこともあったし、気が付いたら朝になっていたということもあった。わたしは着替え、化粧水、乳液、ボディークリーム、コンタクトの洗浄・保存液とケースを急いで部屋から持ち出して、傑の後ろにちょこんと着いて行った。歯ブラシだけは向こうの部屋に置きっぱなしだったので、持っていく必要がなかった。
 帰ってすぐに冷房を付けたのか、傑の部屋は廊下よりも幾らか涼しく、滲んだ汗が引いていくようだった。相変わらず大抵のものが決められた場所に配置されていて、ローテーブルの上だけがリモコンや本、漫画、それから悟が置いていったであろうソーダ味のグミの袋が雑に散りばめられていた。傑の香水と、彼自身の匂いが混ざった、どこか擽ったさも感じる心地の良い空気が肺、体を満たしていく。傑はベッドの上に横たわっていた上着を取り上げ、ハンガーにかけた。

「先入っておいで」
「でも汗かいただろうし、あとでいいよ」
「それは君も一緒だろう。私は少し片付けたいものがあるから」

 丁寧に新しいタオルを渡されたので、わたしは言われた通りに脱衣所へ向かった(共同のお風呂とは別に、自室に簡単なシャワールームが設置されている)。そうして扉を閉めて傑が見えなくなったところで、わたしはこっそりタオルに顔を近付けて呼吸をした。傑の服から香る柔軟剤の匂いがした。彼の部屋に来るたび、わたしはいつもこれをやってしまう。シャワー上がりに体を拭うときも、頭からすっぽり被ってぎゅうっとタオルごと抱き込んでしまうのもいつものことだった。傑の知らないところで傑に包まれている感覚が、妙にどきどきしてしまうからだ。
 出来れば水を浴びたい気分だったけれど、実際にやれば確実に風邪を引きそうだったので可能な限り水を混ぜ温度を下げたお湯を頭から被った。絶え間なく流れ続けるシャワーを浴び、頭のてっぺんから少しずつ体の温度が下がっていく感覚に身を委ね、しばし目を瞑った。今日の任務は少々、いやかなり大変だった。傑がいなければ、もしかすればわたしは死んでいたかもしれない。任務中、彼に助けられた瞬間を思い出す。呪霊だけでも間に合ったはずなのに、彼はとどめを刺す瞬間、抑えきれぬように拳を使ってわたしに立ちはだかった呪霊を祓った。それは怒っているようにも見えた。不謹慎だけれど、わたしはその瞬間少し胸が高鳴った。
 ぬるま湯に打たれながら彼のことを考え、そしてそっと目を開けた。目の前を線のように水が落ちている。すると数日前ここで傑と交わったときのことを思い出してしまったので、わたしは慌てて髪を洗い体を洗った。

 コットンで出来た半袖ショートパンツのパジャマを着て、部屋へと戻る。少しくすんだ、落ち着いた青色のパジャマだ。ちなみに部屋で一人きりのときは、どうでもいいティーシャツとハーフパンツやショートパンツを履いている。傑はわたしを見やると、睨みつけるように目を細めた。

「まさか共同風呂に行くときもそんな格好してるだなんて言わないよね?」
「してないよ、今日は暑いから」
「昨日も暑かったし、明日も明後日も明明後日も暑い予報だけど」
「……向こう使うときは長いやつ履く」
「つまり昨日までは短いのを履いていたということだ」

 そっと様子を伺うように見上げると、傑は不貞腐れたように眉を顰め、わたしの額にデコピンをした。本人にとってはとても軽くやったつもりなんだろうが、元の力が強いのでまあまあ痛かった。ぶつかった部分を摩りもう一度見上げると、彼は表情を変えぬままそのままシャワールームの方へ向かっていった。わたしが思っていたよりも拗ねてしまったようだった。

 傑がシャワーを浴びている間に、わたしは髪をドライヤーで乾かすことにした。するとちょうど乾ききったころに彼が脱衣所から出てきて、備え付けの小さな冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出し、ふたつの透明なグラスに注いでローテーブルの上に置いた。ソーダ味のグミは一番端っこに追いやられた。

「あれから一年か。早いな」
「その節はありがとうございました……それに今日も……」

 ちょうど一年前、わたしは今日と同じ理由で傑に助けを求めたことがあった。あれのお陰、などとは言いたくないけれど、その日がきっかけで交際を始めたと言っても決して間違いではないと思う。一年前の彼は、今日と同じように文句も言わずに退治し、それから一時間ほどわたしの部屋でたわいない話をしてから自室へと戻った。それまでも会話をしたことはあったけれど、あの日は自分の苦手なものを露呈したからか、普段より素直に話せたような気がした。

「いいえ。正直なことを言うと、あれに怯えてるなまえ見てるのちょっと面白いからいいんだ」
「それはちょっと酷い」
「助けてあげたからいいだろう?」

 傑はグラスに入った麦茶を一気に飲み干した。肩にタオルをかけてはいるが、十分に水気が拭い取られていないのか彼の毛先からはぽたりと雫が落ちていく。わたしはドライヤーを持って膝立ちになった。

「髪、乾かしてあげる」

 返事を待たずに、わたしは電源を入れて傑の黒い髪に熱風を当てた。冷房はだいぶ効き始めていて、ドライヤーを使ってもそれほど暑くなかった。彼は最初わたしになにかを言おうとしていたけれど、受け入れたのか諦めたのか、わたしに委ねるように背を向けた。彼の髪を手櫛で梳きながら、なびかせる。そっと後ろから覗くと、彼は小さく欠伸をして眠たそうに目を瞑っていた。

「疲れた?」
「少しだけ」
「暑かったもんね」
「なまえは? 疲れてない?」
「最後のが一番しんどかったかもしれない」
「あはは」

 はいおわり、と言ってわたしはドライヤーの電源を切った。すると傑はくるりと体の向きを変えて、わたしの腰に手を回すと、胡座をかいた自身の上に座らせるようにして抱き寄せた。大きな体のなかにわたしの体はすっぽりと収まって、シャワーで汗などが流れた綺麗な顔が目前まで迫ってくる。さらりと流れた彼の黒髪が、わたしの頬や肩にかかった。

「す、すぐ、」「しー……」

 ちゅう、とくちびるが合わさった。それだけかと思いきや傑はそのまま何度もくちびるを重ね、隙間から舌を滑り込ませた。手のひらはわたしの太ももの上を何度も往復していた。反対の手は裾から侵入し、腰の一番細いウエスト部分をなぞる。ぞくぞくと鳥肌が立つような刺激に震えながら、わたしは彼にもたれかかった。大きな手のひらはとても熱く、触れた部分から溶けてしまいそうだった。

「っ、あ……す、するの……?」
「うん、したい」
「疲れてるって、言ってたのに」
「疲れたら余計にしたくなった」
「全然わかんない……」
「わかんなくていいよ」


二、

 また別の夏の日。その日もわたしと傑は二人で任務へと向かい、今度は円滑に終了した。時刻は午後の二時。一番暑いタイミングだったため少々嫌気がさしたけれど、このあとの自由時間を彼と過ごせると思えば耐えられそうだった。熱を吸収する真っ黒な制服を脱いで、シャツの袖を何度も折る。隣にいた傑も同じようにシャツの袖をまくって、襟元をぱたぱたと扇いだ。

「次のバス……うわ、三十分もある」
「流石にここで待つのは辛いな……あっちのコンビニ行く?」
「そうしよ……アイス食べたい」
「ギリギリになったら向かおうか」

 今日に限って移動手段が交通機関だったため、わたしたちは次のバスが来るまで近くのコンビニエンスストアで時間を潰すことにした。築年数が経っているためか、エアコンのフィルターのせいなのか、なかは少し埃っぽい匂いがしたけれど、外の暑さと比べたら天国とも言えるほど涼しく快適な空間だった。

「あ、花火ある。買ったらみんなやってくれるかな?」
「夜だったらみんな戻ってるだろうし大丈夫じゃない? 悟も今日は早めに帰れそうって言ってたし」
「じゃあ買っちゃおう。後輩くんたちも来てくれるかなあ」
「七海じゃなくて先に灰原に言っておけば大丈夫だと思うよ」

 陳列された花火を片っ端からカゴに入れるわたしを見て、傑は少々呆れた顔をしていたけれど止めることはしなかった。わたしたちはそのまま冷たい飲み物を選び、店内をぐるりと一周したあと、最後にアイスをそれぞれひとつずつカゴのなかに入れてレジへと向かった。わたしはみかん味、傑はソーダ味のアイスキャンディーを選んだ。そうして最後に出入口に並んでいた、旅行会社の広告うちわをひとつだけ取ってコンビニエンスストアを出た。

「あつ!」
「一度涼むと余計に暑く感じるな」
「でもあと十分くらいで来るよ」
「アイス食べて向かったらちょうどいいかもね」

 わたしたちはコンビニエンスストア前の日陰で、それぞれ選んだアイスを食べた。時折風が吹くたびに、出入口にかけられた風鈴が小さく涼やかな音を奏でるので幾らか心は穏やかになった。しゃくしゃくと氷菓を食べ進めながら、なんとなく空を見上げる。広い水色の空に真っ白で大きな壁のような入道雲が山の奥に見えた。

「どうかした?」
「夏だな、と思って」
「早く終わってほしい?」
「うーん……でも今この瞬間は悪くないかもって思った」

 傑が少しだけ目を細めた。わたしはそれに目が釘付けになって、惹き込まれるように彼を見つめた。とても儚いように見えたからだ。けれども余所見をしているうちに氷菓は溶けてしまい、手のひらにぽたりと雫が落ちたことですぐさまわたしは手元に視線をやった。わーわーと騒いでいると傑は仕方がないといった様子でポケットからハンカチを取り出し、手についたみかん味の水滴を拭った。

「早く食べないと全部溶けちゃうよ」
「……いっぺんに食べたら頭がキンってする」

 気がつけば傑は既にソーダ味のアイスキャンディーを食べ終えていた。わたしはというと、まだ半分以上あって、彼の言う通り急いで食べないと崩れそうな気配すらあった。

「ねえ、ちょっと溶けかけてるけど食べない?」
「ちょっとというかだいぶね」
「はい、ごめんなさい」

 傑は軽く笑うと、わたしの手首を掴み、屈んで口元までそれを持っていった。もはやしゃく、とも音がしないほど溶け始めたそれは、傑の大きな口のなかへ大半が消えていった。頭痛くならないのかな、と少々心配になったけれど、彼は平然とした様子でそれを嚥下した。「久々にこれ食べたな」と呟いた傑のくちびるは、わたしのアイスキャンディーのせいでつやりと濡れていた。多分今キスをしたら、みかん味のキスになるんだと思う。

 帰りのバスで、わたしは海に行きたいと言った。深い理由は特になくて、なんとなく夏らしいことをしておきたいと思ったからだ。傑は少し意外そうな反応をしていたけれど、最後には「じゃあ次の休みに行こうか」と言った。バスのなかにはわたしたち以外誰もおらず、夏の木漏れ日の下をガタガタと揺られながら抜けていった。コンビニエンスストアで貰ってきたうちわは、ほとんどわたしに向けて傑が扇いでくれた。どうやら涼しいところにいると、爛々と照り付ける日差しや蝉の鳴き声も、夏らしくて素敵だななんて思えるらしい。途中、灰原から「花火やりたいです! 絶対七海も連れて行きます!」とメールの返信が届いていた。


三、

 次の休みは台風の影響で海に行くのは断念せざるを得なくなり、また次の休みは傑が任務、それから先も予定の合わない日が続いたため、結局海に行けることになったのは八月の最終日にまで延びてしまった。
 延びてしまった分、わたしは期待に期待を重ね、浮かれて夏らしい白いワンピースまで購入してしまったほどだ。普段であれば恥ずかしくて着られないけれど、この日のわたしは見事に羞恥心に打ち勝った。いつも黒い制服で隠されていた腕は、一瞬不健康にも見えるほど色が白く、世界から浮いているようにも見えた。

「こんなに楽しみにしていたなんて、ちょっと意外だな」
「変……?」
「ううん、そんなことない。可愛いよ」

 照れ隠しにひと睨みしてから、わたしは深めに麦わら帽子を被ってバッグを引っ掴んだ。そんなことさえも傑にはお見通しなんだろうけれど、ありがとうと言えるほどわたしは素直ではないし可愛くもなかった。
 ひとたび外に出ると、熱い日差しがじりじりと肌を焦がした。移動は主に電車だ。海は駅から少し歩けばすぐに見えるらしい。すでに汗が滲み始めるほど暑い日であるのに、傑はわたしの手を取って駅へと向かった。

 夏休み最終日であったが、それほど大きな浜辺ではないためか想像よりも人は少なかった。少し先に大きな海水浴場があるため、皆そちらに行ったのかもしれない。海に入るつもりはないので水着などは持ってきていなかったが、海水浴を楽しむ人々を見るとやはり持ってくればよかったと、ほんの少しだけ後悔した。
 雲ひとつない晴天のなか、青い海が太陽の光を反射させ、きらきらと瞬いている。波は絶えず、けれど不定に押し寄せては引いてを繰り返し、泡を生み出していた。それは水色の空に浮かぶ白い雲のようにも見えた。

「やっぱり水着持ってくればよかったって思った?」
「なんでわかったの?」
「顔がそう言ってた」
「……そんなにわかりやすいかな」
「かなりね」
「傑は海入りたかった?」
「……。私は……」

 彼はそのとき、少しだけ寂しそうな顔をして海を見つめていた。春の任務で傑は海に行ったらしい。沖縄の海はここよりもうんと綺麗で、広かっただろう。わたしはそのときのことを彼の口からほとんど聞いたことがなかったけれど、彼にとってその日々は深く残っていて、一生癒えない傷のようになってしまったのだと思う。実際のところは彼にしかわからないけれど、わたしにはそんな風に見えた。
 わたしは傑の手を引いて海の方へ向かっていった。そうしてちょうど波が来るぎりぎりのところでサンダルを脱ぎ、濡れた砂浜の上を裸足で歩いた。波が押し寄せると、とぷん、と足首のあたりまで海水が流れてくる。それは冷たくて心地よく、穏やかでやわらかかった。
 裾を少しだけ持ち上げてわたしはさらに奥へと進んだ。遮るものもなにもなく、水平線が続くそこはもはや目を開けていられないほど眩しかった。帽子があってようやく立てていられるような気さえした。わたしはくるりと振り返って、頭に乗ったその麦わら帽子を傑に被せた。

「夏だね」
「そうだね」
「傑と来れてよかった」

 彼も、帽子のお陰でようやくまっすぐと立てているように見えた。目が合うと傑は少し驚いたような顔をして、それからほんの一瞬苦しそうな表情を見せると、まるでそれを隠すかのように突然わたしを抱き上げてざぶざぶと深い方へ進んでいった。わたしはひどく驚いて、変な声を上げながら彼にしがみついた。

「えっ、なに!? どこまで行くの!?」
「暴れたら落ちるよ」
「ねえ待って、傑! 服は!? 濡れてるよね!?」
「大丈夫乾くって」

 からからと笑いながら進む傑に、わたしは戸惑いながら目前にある彼の顔を見つめた。それが面白いのか彼は依然笑ったまま、わざと手の力を緩めたりしてわたしの不安を煽った。馬鹿! と叫ぶわたし。さらに笑う傑。暑さで頭がやられてしまったのかもしれないと一瞬本気で思ったけれど、最後には彼の瞳に映るわたしも笑っていた。そうしてひとしきりわたしをもてあそんだのち、傑は帽子のつばに隠れてキスをした。少ないとは言え、人がいるところでするなんて、やはり暑さで頭がおかしくなってしまったのかもしれないと思った。

 そのあとわたしたちは堤防の上でラムネを飲みながら服を乾かし、乾いたころに電車に乗って高専へと戻った。泳いだわけでもないのに、暑かったせいか疲れたわたしたちは電車のなかで少しだけ居眠りをした。冷房の効いた車内はもはや肌寒いとも言えるほどだったけれど、傑にぴったりとくっつけばそれほど寒いと思わなかった。おそらく筋肉量が多いから体温がわたしよりも高いのだろう。
 高専の最寄り駅に近付いたところで目が覚めた。いつの間にか車内にはほとんど人がおらず、がらんとした空間に夕日が窓から差し込んでいた。傑は未だわたしにもたれかかったまま眠っていた。そっと手を握ると(無意識なのか半分起きていたのかはわからないが)握り返してくれたので、少しだけやさしい気持ちになった。

 コンビニエンスストアで飲み物や食べ物を購入してから、わたしたちは傑の部屋へと戻った。部屋に着くと、彼はすぐにエアコンの電源をつけ、わたしの手を引いたまま脱衣所へと向かっていった。買った飲み物や食べ物を冷蔵庫に入れる間もなくだ。噎せ返るようなこもった空気のなか、傑はわたしを持ち上げ洗面台の上に座らせると、食むようなキスを繰り返して白いワンピースに手をかけた。するするとリボンが解けていく。わたしも腕を目一杯伸ばして、彼のヘアゴムを解いた。

 くたくたになったあと、わたしと傑は裸のまま掛け布団にくるまって横になっていた。相変わらず傑の体はあたたかかった。カチカチと携帯電話をいじる傑の腕を枕にして、ぴったりとくっついたあと、ちゅうっと胸元あたりにくちびるを押し付けてみる。すると頭上から「こら」と、わたしを窘めるように彼が声を上げた。

「全く油断ならないな君は」
「擽ったかった?」
「したくなった」
「……。」

 多分わたしは、また? みたいな顔をしたと思う。傑は「男は君が思っているより単純で簡単だよ」と言った。わたしはそんなことはないと思った。少なくとも傑は、単純かもしれないけれど、簡単ではないと思ったからだ。

「前にショートパンツのパジャマを着ていたときがあっただろう?」
「あったね」
「あのとき実はシャワールームで一回抜いてるって言ったらどうする?」
「……そうなの?」
「どうだろうね?」

 なんとなく腰が引けて、わたしはそれとなく傑から離れてみた。しかし彼はにっこりと笑ったままわたしを抱き寄せてからわたしを組み敷き、「もう一回する?」と尋ねた。わざとなのかわからないけれど、少し掠れた声で聞くのは狡いと思う。汗も砂も潮も流れて、少し湿った黒髪が頬に触れる。無意識に体が震えた。

「明日は任務ないだろ?」
「……学校があるよ」
「じゃあなんとかなる」
「傑はなってもわたしがならないよ」
「大丈夫運んであげるから」

 それはなんにも大丈夫じゃないんだけどな、と思いつつ、けれども彼からのキスを拒むことはしなかった。傑の顔がわたしの首筋にうずめられ、ちくっとほんの少しの痛みが襲いかかる。それがなんだか可愛く思えて、わたしは彼の広い背中に腕を回してこめかみにキスをした。


 別にこれが最後の夏だったわけじゃない。翌年もわたしたちは二人で任務に行き、あの虫を退治してもらい、アイスを食べ、共に夜を過ごし、交わった。しかし花火は出来なかった。海も行けなかった。そして……
 そのさらに翌年、また夏が来た。そしてそのまた翌年も。どうやらあの夏の日々は、あの海で見たときのように鋭い日差しによって燃え、目も開けられないほど眩しいものになってしまったようだった。



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