ユートピアの夢に

 しとしとと雨が降り注ぐそのなかで、ひっそりと咲く花を見つめる一人の男がいた。
 遠くから見てもわかるほど筋骨隆々とした大きな体躯。艶やかな黒髪はひとつに結われ、露わになった耳にはこれまた漆黒の大きな耳飾りがついていた。
 けれどもその男からはどこか繊細さと、雨のような冷たさを感じられた。風貌とは裏腹に、花が似合う人だと思った。


 梅雨が明ければ、日本は一気に晴れ晴れとした夏を迎える。雨のお陰で少しだけ穏やかであった気温もぐんと上がり、燦々と眩しい陽光が照りつける。日向を少し歩くだけで、肌が焼け焦げるように痛くなる。
 玄関扉を開けると潮の香りが鼻を擽った。ここからすぐのところに海があるから、風が吹けばこんなふうに潮風が流れてくるのだ。
 水桶に水を入れ、柄杓で掬い、玄関前に撒く。近ごろの夏は気温も苛烈さを増していて、正午を過ぎてはほとんど意味がない。なので、打ち水をするときはなるべく早い時間のほうがいいのだ。

「……あら?」

 ぴしゃん、と道路に水が跳ねると、その先に人の影が見えた。追うように視線を持ち上げると、幅の広い大きな黒いズボンと、これまた大きな白いティーシャツを着た緩やかな格好の男が目に映る。最近の男性にしては少々珍しく、長髪で、後ろでひとつに結わえていた。歳は二十代前半くらいだろうか。

「おはようございます」

 わたしがそう言うと、男は驚いたように少しだけ目を見張って、それからすぐに「おはようございます」と返した。見た目とは裏腹に、丁寧で抑揚のない話し方だった。

「ご挨拶が遅れてすみません。少し前にこの辺りに引っ越してきました」
「ああ、どうりで。見かけたことがない方だなぁと思ったんですよ」

 男は夏油と名乗った。その手には大きなビニール袋が握られていたので、おそらくゴミを捨てようとしたのだろう。わたしは水桶を地面に置いてから頭を下げて、壁側に寄り、道を譲った。

「夢中になっていて気付きませんでした。すみません」
「いえ、平気ですよ」

 目の前を通り過ぎて、すぐ先にある集積所にゴミ袋を置く。そうしてすぐさまこちらに戻ってきて、目の前を通り過ぎ、足を止め、わたしのほうを振り返った。

「いつも、この時間に打ち水をされるんですか?」
 まさか話しかけられるとは思わず、わたしは少々驚きつつも頷いた。
「ええ……夏の間は基本的に毎日していますよ。……なにかお気に障りましたか?」

 なるべく自分の家の前だけに留めておいたつもりだが、こうして前を通らねばならない人ならば話を聞いておくべきだろう。けれども夏油さんは否定をするように手のひらをそっと持ち上げた。

「ああいえ、私がゴミを捨てる時はいつももう少し遅い時間なんですが、その度に打ち水がされていて涼しかったのでお礼を言っておこうと思ったんです」
「まあ……そんな。別に大したことではないのでわざわざいいんですよ。でも、ありがとうございます」

 頭を下げると、彼もまたひとつお辞儀をして元のほうへ戻っていく。たったそれだけの会話だったけれど、わたしは非常に好印象を持った。淡々とした口調ではあったが穏やかで、丁寧な所作。夏の気候とは似つかない、物静かな男。その後ろ姿を眺めながら、わたしはどこか既視感のようなものを覚えていた。


* * *


  夏の間は大抵、夕方ごろまで家に篭っているのだが、今日は一人きりで暇であったため、わたしは近くのスーパーマーケットに足を運んでいた。日が暮れ始めていたため、澄んだ空は水色と橙色が混ざりあっている。

「あら」

 するとその途中、視線の先でご近所の夏油さんを見つけた。普段とは違いきちんとした、いわゆる外向けの格好に、お出かけをしていたのだろうのすぐに察する。けれどもその隣に並ぶ人影が随分と小さく、それでいてふたつ見えたのでわたしは少々驚いた。すると彼もわたしに気づいたのだろう。大きく目を見開いて、こちらに注目している。

「こんにちは夏油さん」
「こんにちは。家の前以外で会うのは初めてですね」
「わたしはこの時間はあまり外に出ませんからね……ええと、その、彼女たちは?」

 夏油さんの背後からじっとこちらを見やるよっつの目。それはきゅるんと大きく丸く、感情を映した素直な瞳だった。

「彼女たちは私の親戚の子です。仕事で海外に行かねばならないからと、一時的に預かっているんですよ」

 年齢は七、八歳くらいだろうか。髪の色は違うけれど、顔立ちや目の色がそっくりなのでおそらく双子だろう。突然現れたわたしに警戒をしつつも、興味津々に見つめている。
 子供の相手は得意なほうだ。わたしは彼女たちと目を合わせるようにしゃがみこみ、できる限り穏やかに音を発した。

「こんにちは。わたしは夏油さんの家の近くに住んでる者です。周りとは少し違う、大きくて昔っぽいお家を見たことはありますか?」

 そう問うと、彼女たちはしばらく黙り込んだのち、お互いを見つめあってから夏油さんを見上げた。彼はそんな不安がる彼女たちに寄り添うように、二人の背中に手を添える。

「……道の先の?」

 答えたのは明るい髪色の子だ。好奇心が旺盛なのだろう。緊張の色は未だ見えるが、わたしから目を逸らすことはない。

「ええ。そこがわたしのお家です」

 この町は他よりも古民家が多く残る場所だ。そしてわたしの家もそれなりに築年数の長い家である。祖父、父、と代々引き継がれ、現在はわたし一人があの家に住んでいた。

「今の時期であれば貴女方と同じくらいの年の子が昼間に遊びに来るのですよ。もしよろしければ今度遊びに来てください」
「そういえば以前、夏は学童保育のようなことをしていると仰っていましたね」

 答えたのは夏油さんだ。以前打ち水をしていたときに少しだけ話をしたのだ。普段は個人事業主で生活が賄える程度にお金を稼ぎ、夏、学校が夏休みに入り始めるころから昼の間だけ児童を預かっていると。最初は隣人からの頼まれ事から始まって、そこから毎年お願いされるようになり、少しずつ噂が広まって毎年近所の子供がちらほらと遊びに来るようになったのだ。

「ええ。子供は夏休みでも、親御さんはそうではないでしょう? 今は共働きも多いですし、なにかと不便なこともあるのです」

 子供が好きだ。感受性が豊かで、素直なところが。彼らはわたしたちが思っている以上に日々成長し、あっという間に大きくなっていく。
 如何様な理由があろうとも、子供は宝で、守らねばならない。むかしから、わたしはそんなふうに生きてきた。なので夏の間はなるべく仕事を休み、子供とともに過ごしているのだ。
 夏油さんはひとつ頷いて、けれども少し困ったような表情を浮かべながら二人の少女を見下ろした。

「実はこの子たちは極度の人見知りでして……。なるべく負担をかけさせたくないんです。誘ってくださったのにすみません」
「なるほど……そうだったのですね。押し付けるような形で言ってしまい申し訳ございませんでした」

 あまりじろじろと見られるのも嫌だろう。わたしは立ち上がり、肩にかけていた麻生地の鞄を持ち直した。

「お買い物ですか?」
「ええ。いつもはもう少し遅いのですが、今日は子供たちが誰もいなかったので」

 そう言うと、夏油さんは「ならばあまり引き止めてはいけませんね。ちょうど今特売をやる頃合いだと思いますよ」と、くすりと笑みを零した。今まで何度か彼と話す機会はあったけれど、笑った顔を見たのはこのときが初めてであった。


* * *


 夏も本格化してくると、今度は台風が多くなっていく。とくにこの地域は海が近いため、内陸よりも暴力的な風が吹き、高波などの危険性も増える。
 先日発生した台風が今日、本土に上陸したということで、テレビのニュースではひっきりなしに警戒や対策などを訴えかけていた。この町に近づくのはちょうど今夜から明日の朝ということで、昨晩のスーパーには普段よりも人が押し寄せ、食品棚は空っぽになっていた。外出自粛を呼びかける声もあったため、今日は子供も誰一人姿を見せていない。
 そうなると夏の間仕事を休んでいるわたしは当然暇になる。ある程度の台風対策をしてしまえば、やることがなくなってしまうのだ。曇り空ではあるが、まだまだ明るい昼間であるので雨戸を閉める気にもならず、ぼんやりと外を見つめる。古い家の分厚いガラスから見える景色は、緑が多く、ほんの少しだけ歪んで見える。
 すると広い庭の先から、見覚えのある少女が見えた。肩の上で切り揃えられた黒い髪。夏油さんが現在預かっている、美々子ちゃんだ。名前は先日夏油さんが教えてくれた。
 どこかへ行くのだろうか。庭を囲むように植えられた木々の隙間から見える彼女の姿を目で追っていく。しかしそこから覗く表情は存外焦った様子で、しきりになにかを気にしているようであった。窓を開け、美々子ちゃんが見やる方向に視線を向ける。その先には彼女を訝しげに眺める大人が数人、そしてその奥には……。わたしは思わず立ち上がり、玄関を飛び出していた。

「美々子ちゃん」

 わたしが声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。けれども見知った顔だと理解したのだろう、すぐに警戒を緩め、微かに安堵した様子を見せる。

「美々子!」

 わたしの背中、つまり美々子ちゃんがやってきたほうとは反対側から菜々子ちゃんの声も聞こえてきた。離れていただけで、二人はどうやら一緒にいたらしい。
 わたしが家から出てきたことで、彼女たちを眺める人間たちは決まりが悪そうに目を逸らした。そうしてうろうろと視線をさまよわせたのち、足早に去っていく。

「あれ……なんでアイツらこっちに来ないんだろう」

 そう言った菜々子ちゃんの視線の先は散っていく人間たちではなく、その奥にいる異形なものに向けられていた。もはやなんの形かもわからない、澱んだ存在。それはしばし離れた場所で立ち尽くし、わたしたちを眺め、それから怯えたように姿を消した。
 あれ、と美々子ちゃんが声を漏らす。
 なるほど、どうやら彼女たちにも見えていたらしい。わたしは少々驚いた。

「消えちゃった……」
「アレはこちらには来られません」

 正確には打ち水をした範囲と、我が家には、なのだけれど。

「お姉さんにも見えるの?」

 菜々子ちゃんはわたしの服をぎゅっと掴み、不安そうに眉尻を下げながらそう問うた。

「ええ、見えますよ」

 二人はわかりやすく安堵した表情を見せた。この世にアレが見えるものはかなり少ない。反応を見るに、きっと彼女たちはそれが理由で苦労をしたようだ。もしかしたら極度の人見知りというのはそこからきているのかもしれない。

「夏油さんは、どうしたのでしょう」

 彼がどこまで二人のことを知っているかはわからないが、人見知りで怖がりだとかなり注意を払っていた様子だったので、まさか彼の知るところで彼女たちが二人きりで外に出たわけではないだろう。今までも二人を見かけるときは、必ず隣に彼がいた。
 彼の行方を尋ねると、二人は小さく肩を揺らして俯いた。言えない事情があるのか、はたまた隠れてきたのかはわからないけれど、なにやら訳ありのようだ。

「夏油様は……今家にいなくて……。電球がね、切れちゃったの。それで、台風だっていうから……」
「でも途中でアレに出会って、追いかけられてたら大人たちにも変な目で見られて……逃げてたら美々子とはぐれてた」

 夏油様、という呼び方には触れないでおいた。彼女たちの両親の教育方針には首を突っ込むべきではないと思ったからだ。
 要約すると、彼女たちは今日家で留守番をしている間、部屋の電球が切れたことに気づいたらしい。そして台風が接近していることを夏油さんに聞いていたため二人でなんとかしようと思った、ということだそうだ。まだ雨が降っていないとはいえ、曇り空で辺りは普段より薄暗い。不安もあったのだろう。
 ただ外に出たはいいものの、ここに来てからそれほど日数が経っていないため迷子になってしまったのだそうだ。そして偶然あの異形と遭遇し、逃げ惑っているときにはぐれ、その場を目撃していた大人たちに注目されてしまったと言う。その口調から察するに、二人は異形が見えない大人たちを嫌っている様子であった。

「二人が見えることを、夏油さんは?」

 そう問うと、二人はあっと口を開いたあと、はっとしたように目を見合せ、口を噤んだ。

「知らない、と受け取ってもいいですか?」

 こくり、と二人が小さく頷く。なるほど、とわたしは独りごちて、彼女たちの頭を撫でた。

「ともかく、二人ともよく頑張りました。怖かったでしょう。電球は買えましたか?」
「……買えてない」
「形はどんなものかわかりますか?」
「まあるくて、オレンジ色」
「大きさは? これくらいでしょうか?」
「うん」

 小さな手を使い懸命に伝えるふたりに、つい口角が緩む。口金の大きさがわからないが、一通り買えば問題ないだろう。

「それではひとまず電球を買いに行きましょうか。二人はこのあとまたスーパーまで行けそうですか? 難しそうであればわたしが行ってきますよ」
「行ける……」

 頷いた二人にもう一度頭を撫でる。そうしてわたしたちは雨が降り出す前に電球を買いに行ったのであった。


* * *


 台風一過によりどこまでも広がった青空からは、猛暑とも言える強い日差しが降り注いでいた。

「お姉さんも! こっち来て!」

 そう言った菜々子ちゃんは、浜辺に転がる貝殻を集めながらわたしに向かって声を張り上げた。

「はい、今行きます」

 さらさらとした白い砂浜を進んでいく。その先に見えるのは一面の海で、天色の空との境界線は紺碧色の線がまっすぐと伸びている。太陽の光を反射させた水面が、きらきらと眩しく光っていた。
 菜々子ちゃんの手にはすでにいくつもの貝殻が乗せられている。そうしてわたしが来たことに気がつくと、そのなかのひとつをわたしに差し出した。

「見て、ピンク色」
「まあ、桜貝でしょうか。とても綺麗ですね」

 小さな指につままれた貝殻は、つやりと薄桜色に艶めいている。この辺りで桜貝を拾えると聞いたことはあったけれど、実際に見るのはこれが初めてであった。菜々子ちゃんは嬉しそうに胸を張った。

「お姉さんにあげる」
「いえ、そんな。菜々子ちゃんが見つけたものですし、いいんですよ」
「この間のお礼!」

 まっすぐと注がれた視線は変わらない意志を表していた。そっと手を伸ばし広げると、ころん、と手のひらに薄桜色が転がる。じんわりと、胸の奥にも同じ色が広がった。

「本当にその節はありがとうございました」

 わたしたちのやり取りを見ていた夏油さんも、同意するようにそう言った。わたしは首を左右に振って立ち上がる。

「いいんですよ。二人の助けになったのならよかったです」
「あの日だけでなく、今日のこともです。お陰ですごく助かっていますが……お忙しいのにすみません」
「それも全然、構いませんよ。二人と遊ぶことができて、わたしも嬉しいです」

 美々子ちゃんと菜々子ちゃんと電球を買いに行ったあの日から、二人はわたしにかなり警戒心を解いてくれるようになった。すれ違えば必ずお話をしたり、朝ゴミ捨てをする夏油さんに着いてきて挨拶をするようになる程度には。
 そうして今朝も挨拶をしたついでに少しばかりお話をして、一緒に海に行かないかと二人に誘われたのだ。元々夏油さんと三人で遊びに行く予定だったらしい。わたしは二つ返事で誘いに乗った。

「海に来るのはとても久しぶりで、わたし自身も楽しいです。むしろ誘ってくださってありがとうございました」
「家のほうは大丈夫ですか?」
「ええ。元々義務付けられたものでもないので……案外融通が効くのですよ」

 菜々子ちゃんは美々子ちゃんを引き連れてどんどん遠くに移動している。それを眺めながら、わたしは麦わら帽子を深く被り直し、ほんの少しだけ目を細めた。

「初めて会ったときよりも、彼女たちは笑顔が増えましたね」
「貴女のお陰です。ここに一緒に来られるのも、とても喜んでいました」
「いいえ、わたしは大したことはしていませんよ。夏油さんが、それだけ真摯に向き合った結果です」

 元々懐いていた様子だったけれど、最近はさらに打ち解けているように見える。話を聞けば子供らしい要望も以前より増えてきたそうだ。二人への相談をされたこともあったので、わたしとしてもとても嬉しい傾向であった。
 夏油さんはわたしと同じように二人を見つめ、柔らかい笑みを零した。それは苦悩を知りながらも、守る意志のある尊いまなざし。けれどもどうしてだか今の彼からは幼さも感じられた。二十代といえど彼自身に子供はおらず、子供の相手をするのが初めてであったせいだろうか。張り詰めていた気が緩み、ほっと安堵しているように見えた。


* * *


 夏休みも終わりに近づくと、物寂しい気持ちに襲われる。それは毎年そうだった。

「大丈夫ですか?」

 はっとして、隣を見やる。そこにはわたしを心配するように眉尻を下げた夏油さんが見えた。はちり、と火花が散る音がして、やがて赤い玉が落ちていく。

「すみません、少しぼうっとしてしまいました……」
「いいえ。火を見ると、どこか物思いに耽ってしまうことありますよね」

 すると夏油さんの持つ線香花火も火花を瞬かせたのち、ぽとりと地面に落っこちた。その奥では、美々子ちゃんと菜々子ちゃんが同じように線香花火を注視している。

「悩み事ですか?」

 夏油さんの柔らかくて、けれどもよく通る声が響く。この夏で、彼らとは随分と親しくなった。

「夏が、終わってしまうなぁと思いまして」
「夏が終われば生活もまた変わりますからね。寂しいですか?」
「……寂しい……。そうですね、寂しいです」

 また来年がある。わかってはいても、そう思うのだ。それは子供たちと過ごせる時間が減ってしまうことだとか、成長の早さに取り残されるような気持ちになることだとか、きっと様々あるのだろうけれど、一番の理由はもっと違うような気がした。けれどもその理由を、わたしは知らない。自分のことなのに、わからないのだ。

「夏油さんは、夏は好きですか?」

 彼はわたしの言葉にしばし黙り込んでから、「あまり好きではないと思います」と答えた。その言い方もまた、どこか他人事のような言い方だった。

「……夏は、暑いですから」

 きっとその理由も本当は違うのだと思う。

「そうですね」

 二本目の線香花火に火をつけて、わたしたちは再び火花を眺めた。
 炎は人の心を引き寄せる。そうして奥底に仕舞っていた本心を浮かび上がらせるのだ。
 今年の夏は夏油さんたちとたくさんの思い出を作った。海で遊んだことから、向日葵を見に行ったり、蛍を探しに行ったり。わたしが生まれてきてから、一番楽しかった夏であった。
 けれども、それももう終わる。
 夏油さんは見た目よりもずっと感情的な人であった。初めの印象は淡々と、抑揚の少ない人だと思っていたのに。そのお陰か、わたしは近ごろ、彼のことを子供のように見てしまうときがある。とはいえわたしよりも年下なことには違いないので、この感情も絶対に間違っているというわけでもないのだけれど。

「実は、わたしも夏はあまり得意ではないんです」
「……そうなんですか?」
「ええ、だって、暑いでしょう?」

 そう言うと、夏油さんは僅かに目を見張ったのちくすりと笑みを零した。


* * *


 八月三十一日は必ず熱っぽくなる。風邪ではない。毎年そうだから、わかるのだ。
 夏休み最終日になると、家に訪れる子供たちも名残惜しさを口にする。わたしはそんな彼らを見ると、心がきしきしと痛み、願いを叶えてあげたい気持ちでいっぱいになる。

「帰りたくない」
「ずっと夏休みがいい」
「お姉さんの家にまだいたい」

 子供が次々に言う。その言葉を聞くたびに頭の奥がふつふつと沸騰するように熱くなった。ぐらりと視界が歪むように目眩がして、ちりちりと火花が瞬く。
 景色が変わっていく。音が少しずつ遠のいていく。
 その瞬間、帰宅時間を知らせる鐘が鳴る。カン──、と。それは頭のなかで大きく響いた。

「こんばんは」

 無意識に子供へ手を伸ばした瞬間であった。ここしばらくのうちに聞き慣れてしまった、花びらがそっと落ちるような、柔らかく丁寧な声が鼓膜を揺らした。

「夏油さん……どうしてここに……その格好は」

 今日の彼は袈裟姿であった。そのせいか雰囲気もいつもとは違い、別人のように見える。毅然たる態度、余裕そうな振る舞い。己が強者であると、自覚しているようであった。その証拠に、彼はわたしの言葉にゆるりと微笑んで指をさす。

「今日は本来の貴女とお話をしに来ました」

 ぱたりと、わたしの近くにいた子供が意識を失って倒れた。その奥にある雪見障子と開け放たれた隙間から覗く景色は、つい先ほどとは打って変わって雨模様。その様子に、わたしはどこか既視感を感じて、彼をもう一度見やり、納得した。

「貴方は……以前もここに来たことがありますね」

 正確にはこの家ではなく、家の前だったけれど。すると夏油さんはまばたきをひとつした。

「まさか、見ていたんですか?」
「見ていましたよ。とはいえわたしも今ようやっと思い出しましたが……なるほど、貴方でしたか」

 二年くらい前だろうか。梅雨入りをしたその日、家の庭に咲く花を見つめている青年がいた。白いシャツに黒いズボン。学生だろうと思った。……俯いた表情は自棄と失望が入り交じった、不相応なものであったけれど。

「まさか術師だとは思っておらず……迷い込んだ子供だと思っておりました」
「迷い込んだ子供……」

 夏油さんは複雑そうな表情を浮かべた。驚きというよりかは不服さが滲んでいる。

「気を悪くさせたらすみません。わたしにとって、大抵の者はみな子供なのですよ」

 先ほどまで感じていた熱や目眩は消えてなくなっていた。むしろ今は頭のなかがすっきりと冴えている。

「いいや、しかし、あながち間違っていなかったかもしれません。あの時の私はまだ、目を逸らしていましたから」

 夏油さんは伏し目がちにそう言った。二年前のことを思い返してみる。あのころの彼は今と少し違い、消えてなくなりそうな儚さがあった。

「思い詰めた様子に見えました」
「そうですね……貴女の言う通り、迷っていました」

 困ったような表情を浮かべ、夏油さんが笑う。それはわたしがこの一ヶ月でよく見てきた彼と同じものであった。こうして見ると、やはり儚い青年に見える。上手く使い分けているなと、わたしは思った。

「二年前、呪術高専から貴女の調査に向かうよう命じられました。夏の間だけ姿を見せる仮想怨霊。一級だと観測されていましたが最悪特級の可能性があるため、私が派遣されました」

 梅雨が始まってから、八月の末まで、わたしの意識は浮上する。それ以外はこの家の奥で息を潜めて眠っているのだ。わたしが夏の間、人間のように過ごせるように。自らが異形だということも朧気になり、周りにも異形だと認識されにくくなるように。本来の意識に戻れるのは梅雨の初めと、八月の終わり……つまり今日になる。縛りと同じようなものだ。
 とはいえ完全には抑えていないため、わたしよりも弱い異形はこの家には近づけない。以前彼らが美々子ちゃんたちをこの家の前まで追ってこなかったのは、そういう理由だ。

「けれど私が調査に来た時は、貴女はまだこの家の奥で眠っていた」

 つまり、見つけられなかったのだろう。正確にはあの日に起きたのだが、目覚めた初日は体が上手く動かないため 生得領域 ここに隠れているのだ。

「なるほど。それで、どうしてそのあとにもう一度来なかったのです? 夏の間に出ることはわかっていたのでしょう?」

 夏油さんはわたしを見つめ、しばし沈黙した。そのまなざしはわたしではなく、どこか遠いところへ向けられているように見えた。

「今日、わたしと話をしに来たと言いましたね」

 答えを待たずにそう告げると、夏油さんはゆっくりとまばたきをした。まるで馳せていた思いを遮るように。

「……ええ」
「なんの話でしょう」
「その子供は、どうするつもりだったんですか」

 わたしは隣で横たわっていた子供に視線を下ろした。死んでいない。眠っているだけだ。

「わたしは、彼らの願いを叶えようとするだけです。夏が終わって欲しくないのなら夏を終わらせなければいい。家に帰りたくないのなら帰らせなければいい」
「それでも、数日すれば子供はきちんと家に帰っている」
「それは、あの子たちが帰りたいと願ったからですよ」

 ぽつぽつと雨音が聞こえる。ここは年中雨ばかりだ。わたしが生まれた日がそうだったのだから、仕方のないことだけれど。

「なぜ、呪わない」

 貴女は呪霊だろう。
 言葉としては言われていないけれど、視線はそう訴えていた。それはどこか、そうであって欲しいと願っているようにも見えた。

「呪うべき相手が、もういないからです」

 その相手は、もうとっくに呪い殺してしまった。
 わたしの愛すべき子供たちの、平穏と、居場所と、存在を、全て壊した人たち。
 わたしは、子供たちを守れなかったことへの憤りと、子供たちの嘆き悲しんだ感情から生まれた怨霊だ。自分で自分を呪ったのだ。そして死後、その憤りを晴らすために人を呪い、呪ったあとは未練に縋り留まっている。

「そもそも守りたかった子たちは、わたしとともに死んでいました。だからあの日わたしが恨んだ相手を殺したところで、所詮全てがわたしの私慾でしかなかった」

 それでも、許せなかった。

「わたしは弱い。けれども、今ならあの日できなかったことも叶えてあげられる。だからこうしてここに留まり、子供たちの願いを叶えているのです。とはいえそれすらもわたしの私慾でしかありませんけれど」

 夏油さんの真意はわからないけれど、彼は術師だ。つまりわたしを祓いに来たのだろう。

「わたしを祓いますか」

 彼は一瞬虚をつかれたように目を見張ってから、苦い顔を浮かべた。

「……祓う、というよりかは、取り込むつもりだった」

 その言葉に、今度はわたしが驚いた。意味としてもそうであるし、口調が随分荒っぽかったためだ。

「ここに来たのは、最初から貴女を取り込むためだ。等級から術式、具体的な活動期間まで、全てを知っていた」

 ──ただ、人を呪い殺さない理由まではわからなかった。

「皮肉なものだ。人間よりも、呪霊のほうがこの世の真理を理解し、尊ぶべき存在を守っているのだから」

 その口調は自虐のように聞こえた。瞳はどこか褪せて、失望を孕んでいる。

「敢えて言うならば、呪いだからこそわかっているのだと思いますよ。死んでからわかることって、たくさんありますから」
「死後、その気づきを芯としてこの世に留まる呪霊はほとんどいない」
「……たくさんの呪霊と相対したのですね」

 断言できるということは、そういうことだ。すると彼は僅かに顔をしかめる。どう反応していいかわからないといった様子であった。
 彼は取り込む、と言った。わたしも長いことこの世にいる。そしてその間、それなりに術師も見てきた。きっと彼は呪霊操術を扱えるのだろう。
 生得領域がふっと消える。家のなかを立ち込めていた薄暗い空気が消え、雨が止んだ。目の前にいる彼が警戒するようにわたしを見やった。

「何故領域を解いた」

 窓から見える空は色濃い橙色に染まっている。もうすぐ逢魔が時だ。

「貴方がここへ来た目的に賛同しただけですよ」

 横になる子供たちを起こし、帰宅時間を知らせる。その様子を、夏油さんは呆気に取られたように見つめていた。そうして全ての子供たちを見送ったのち、彼の額に触れる。拒絶されるかと思ったけれど、彼は静かにわたしの手を受け入れた。

「なるほど確かに、わたしの能力は便利でしょうね」
「人の願いを勝手に盗み見ないでくれ」
「わたしの手を跳ね除ければよかったのですよ」

 わたしの術式は記憶に触れることができる。触れればその者の願いを感じ取ることができるし、生得領域に引きずりこめばそれは触れずとも可能になるのだ。そのほかにも、条件つきであればある程度の範囲にいる者たちの記憶を差し替えることもできる。近隣の人間たちがわたしをただの人だと思い込み、子供を預けるのもそれらのお陰だ。
 彼はわたしを使い、人間たちの願いを聞かずとも言い当て、教祖としての信頼を周囲から得ようとしたらしい。信仰者が増えれば色々と有益に働くからだ。願いを覗き見ることで、その人の過去や環境もなんとなく知ることができる。まさにうってつけであろう。
 ここに留まり続ける理由なんて、初めからなかった。わたしはあの日、呪うべき相手を呪った時点で消滅すべき存在だったのだから。

「取り込まなくてもいいように別の縛りを結びましょう」
「その理由は?」
「わたしを取り込むとなると、それなりに苦痛が生じますよ」

 あまりいい気分にはならないでしょう?
 そう言うと、夏油さんはそっと息をのんだ。

「何故そう思う」
「長く生きているのでそれなりに知っているのですよ」
「私以外の呪霊操術と会ったことがあるのか?」
「ありましたよ」

 箪笥のなかに仕舞っていたものたちを取り出し、ひとつにまとめる。それは人間だったころに持ち歩いていたものや、子供にもらったものまで様々だ。そうしてそれを庭に運び、火をつける。ぱちぱちと、それは簡単に燃え、炎が上がった。

「さあ、行きましょうか」

 ここに戻ることは二度とないだろう。わたしの私物があることで、それが呪物になる可能性もある。本来なら家ごと燃やすべきなのだろうが、それは現実的ではない。

「何故そこまでする。私に着いてくる理由はなんだ」

 未だ彼の表情は険しかった。わたしの言葉に納得できないのだろう。その姿は初めに見せた泰然とした態度よりも、ずっと素直で若く見えた。

「わたしが呪いとなってから、一番楽しい夏でした」

 海を見に行ったことも、線香花火をしたことも、向日葵を見に行ったことも。百年近く生きるわたしの記憶のなかで、一番楽しく、穏やかな時間であった。

「言ったでしょう、子供の願いを叶えたいと」

 一番楽しい夏をくれた貴方に、今度はわたしが願いを叶えましょう。
 夏油さんは「子供……」とまたもや苦い顔をしたけれど、眉間の皺をほぐしながら渋々と頷いた。

「まあ、貴女から見たらそうでしょうね。そもそも私もまだ未成年ですし」
「……それは真ですか?」
「わざわざこんな嘘つきませんよ」

 そう言って夏油さんはひらひらと手を揺らしてため息をついた。そうして炎が消えたのを見届けたところで踵を返す。
 袈裟のお陰か彼の背中は普段よりも大きく見える。どこまでも悠然に。はったりであっても、彼の風貌はそれなりに見えた。二年前のときは小さく見えたはずなのに。
 目を瞑って思い返す。彼が親しくしていた友のことを。手が届かなかった少女のことを。雨音のような拍手を。幼い二人の少女と出会ったときのことを。
 きっと、あのとき見えた姿も本当なのだ。今見えるよりもずっと繊細で、涼やかで、濡れた花弁のような儚さのある彼も。
 外に出ると蝉の音が夕闇に混ざって響いていた。昼の名残の温い空気が、夜の潮風によって流れていく。空は橙色から深縹色へ。そのなかには一番星が輝いていた。
 夏の終わりは大抵寂しさに襲われる。けれども今年のそれはいつもとは違っていた。それは目の前にいる彼の進む道があまりにも険しく、孤独で、途方もないものだからだと思う。
 これがきっと、わたしの最後になる。
 そう思いながらわたしは彼の背を追った。


- ナノ -