宵色ソーダ

 いけ好かない男の口を封じる方法を教えてほしい。誰でもいい。親でも先生でも、もうなんでもいいから、今すぐにこの男を黙らせてほしい。目の前にいる、意地悪く笑みを浮かべたむかつく男の口を。

 高校二年の、ゴールデンウィークを過ぎた五月中旬。わたしたちは修学旅行のため、北海道を訪れていた。東京から飛行機に乗って新千歳空港へと向かい、到着後はバスで札幌まで移動。そこから展望台や市内を散策して、夜はジンギスカンを食べる予定だった。
 五月の東京は夏かと思うほど暑かったというのに、北海道は驚くほど涼やかで過ごしやすかった。出発時はブラウスだけでも汗をかいていたが、こちらでは日没に近付くとブレザーを羽織っても寒く感じるほど。
 夕食を食べる会場は広いホールのような場所だった。席はきちんと決まっておらず、どうやらクラスごとになんとなく分かれているだけらしい。担任の掛け声とともに、ホール内はざわざわと普段連れ添う友人たち同士で集まり始める。修学旅行中は男女合同のグループ行動が多いため、こういうときには小さな盛り上がりを見せるものだ。そして同時にこの学年では、不可思議なイベントも発生する。

「毎度すごいな」
「……」
「狙ってんの?」
「……冗談言わないで」

 いつの間にか隣にいた硝子が、とある場所を見やって呆れたように笑った。クラスメイトのみならず他クラスを含めた数名の女子が、一人の男子を囲むようにして集まっている。そしてそれはここだけでなく、別の場所にも。理由はひとつ。その男子と隣の席になりたいからだ。クラスごとと言っているのに毎度他クラスもやってくるのが不思議なのだが、こういう現象がわたしの学年には存在するのだ。
 そういうアイドル的存在(あとで説明するが中身は全く持ってアイドル要素などない)がこの学年には二人いて、名前を五条悟、夏油傑と言う。そしてその後者はわたしや硝子と同じクラスだ。そのためこういう現場を、もう何回も見たことがある。非常に不快だ。
 夏油傑という男は、目の前で繰り広げられているようにすこぶるモテるが、すこぶる性格が悪い(大事なのでもう一度言う、すこぶる、性格が、悪い)。本人は至って優等生ですみたいな顔で人当たりのいい対応をしているのだが(一部の生徒や先生たちはこれに騙されている)、実際のところ、口は悪いし優しくはないし中々にいい性格をしている(褒めていない)。けれどもしっかり外面が良いためか、彼を好きな人間がこの学校にはたくさんいる。学年を超えた、先輩後輩まで。
 硝子が端の席が良いと言うので、わたしたちは夏油たちから離れ一番遠くの席を目指した。けれども隣に並ぶ彼女は、にやにやと嫌な笑みを浮かべながらこちらを見ている。

「……なに」
「行けばいいじゃん」
「はあ? 絶対やだ。ありえない」
「とか言って昨日、修学旅行中に隣のクラスの女子が告るかもって聞いたら超焦ってたじゃん」
「うっっるさいな! それとこれとは別! なの!」
「急にキレるなよ」
「キレてない」
「小力じゃん」
「いやそれは『キレてないですよ』ね」
「ぜんっぜん、似てねー」

 硝子がけらけらと笑った。すると背後から夏油に名前を呼ばれた気がしたので、わたしは慌てて振り返る。彼は女子たちの輪から抜け出して、こちらに足を向けていた。

「私もそっち行こうかな」
「はあ? 絶対! 来んな!」

 声が若干裏返ってしまったのは突然言われて驚いたせいだ。夏油はわかりやすく肩を竦め、「えー、なんでよ」と言いながらへらへらと笑う。

「夏油が来たら後ろの女子も来るからだよ」
「こっち来ないように言っておくよ」
「そういうことじゃないんだってば」

 夏油が隣に来たら、ジンギスカンの味がわからなくなる。その言葉は飲み込んで、わたしは彼を睨みつけたのち、硝子の腕を引っ張って一番端の席へ座った。味云々についてもそうだが、後ろの子たちと同じにはなりたくないというのも本心だった。
 しかし夏油はお構いなしにわたしの隣に座った。にこにこと笑みを浮かべていて、まるでわたしが怒るのを待っているようだった。これのどこが、優しくて、気遣いのできる男なんだ。そうだったら間違いなく、こんな嫌な顔を浮かべている女子に絡みなどしない。確かに去年からクラスが一緒で、硝子や五条と一緒に遊んでいた時期もあったけれど(今でも時々遊ぶ)、あのときからこの男は優しくなかった。優しい振りをして五条よりもひどいのだ。わたしは知っている。

「だからなんで来るのよ!」
「だってあっちの女の子たちより、なまえが嫌がってる顔見てる方が面白そうだし」
「ちょ、はあ!? わたしはあんたのオモチャじゃないんですけど!」
「あはは、そうそうそういうの」

 本当はこういう人間なのだ、この男は。知らない人は多いかもしれないけれど。騙されているのだ、みんな。
 後ろの女子たちにはきっちり言ったのか、誰も着いて来なかった。なるべく窓際に座ったはずなのに、夏油はそれを詰めるかのようにじりじりとこちらに寄ってくるものだから、わたしは暗くなり始めた窓の外を見やって固まるしかなかった。近い。近すぎる。なんなら少し腕が当たっているし、夏油がいつも付けている香水の匂いもふんわりと香ってくるし、もうとにかく駄目だった。緊張でうまく呼吸ができているかもわからなくなるくらいには。
 突然黙り込んだわたしに、夏油は無視をし始めたと思ったのか、何度もわたしの名前を呼んだ。名前を呼ぶな。腕をつんつんするな。そして顔を覗き込んで来るな。

「ねえ! もう本当に!」
「本当に嫌?」

 振り返った途端、目の前に夏油の顔があったので呼吸が止まった。こんなに性格が悪いのに、どうしようもなく好きだからかっこよく見えて仕方がない。「なに、が……」しどろもどろに答えると、彼はまるで全てをわかっているように囁いた。

「一緒にいるの、本当に嫌?」
「そ、れは……」
「それなら、やっぱりあっち行こうかな。さっきの女の子たちが集まってる方」

 わかっているのだ。この男は。だってわたしは一年前からこんな調子で、夏油に対してうまく取り繕えない。近付いたら緊張して話せないし、そうじゃなくても素直になれなくて反対のことばかり言ってしまう。そんな様子に、この男が気付かないわけがないのだ。あれだけ嫌だ嫌だと言っていたくせに、いざそう言われると簡単に嫉妬してなにも言えなくなってしまう。だってこんな、口は悪いけれど素直に物を言ったり子供っぽく笑う夏油のことを、他の人に知られたくない。
 くしゃりと、紙屑を丸めたようなひどい顔をしているだろう。夏油は少し満足そうに笑った。わたしは段々と羞恥心で顔が熱くなって、涙も出てきそうだった。行って欲しくない、けれど、言えない。彼は一体、わたしをどうしたいのだろう。

「ねえ、本当はどうなの? 私にはなまえが行って欲しくないように見えるけど」
「そんなこと……」
「ない? 言ってよ、ちゃんと。行って欲しくないって」

 ほら。と急かす夏油がわたしに詰め寄る。なんなら手も握り出して、目線もわたしに合わせてきた。既に硝子は勝手に肉を焼き始めているというのに、わたしと夏油はまだ飲み物すら手を付けていない。普段きっちりと制服を着こなしているくせに、今日だけは放課後のようにネクタイもボタンも緩められているからか、いけない空気みたいなものを感じて、視線をどこに置けばいいのかわからなくなってしまった。

「駄目、ちゃんと見て言って」
「う……む、り」
「無理じゃない」
「もう本当に、なんなの……」

 もうこちらはショート寸前だ。確かに今だって嬉しいけれど、もうなにもかもがキャパオーバーで死んでしまいそう。そんなわたしを見て、夏油は意地悪く笑って「本当は一緒にいたいんだろう?」と尋ねた。
 その自身満々な態度もむかつくし、何様だよって言ってやりたい。けれども彼の言う通りそれは事実だったので、わたしは観念してこくりと小さく頷いた。ああ言ってしまった。いや、言ってはいないけれど。しかしもうこんなの、告白したのと一緒だ。
 夏油はなんだかよくわからない顔をしていた。笑いそうになるのを堪えるとはまた違うけど、それでもなにか我慢しているというか、とにかく変な顔をしていた。硝子はそんなわたしたちを見て、ようやく「キモ」とだけ言って、焼いた肉を頬張った。この様子をずっと見られていたのかと思うと、恥ずかしすぎて今すぐホテルのベッドに潜りたい気持ちだ。
 うんともすんとも言わない夏油に、わたしもまたどうしていいかわからずに固まる。夏油の手、すっごく大きいな。というよりいつまで繋がれたままなのだろう。するとふっと空気が和らいだような気がしたので視線を持ち上げてみれば、そこにはいつもの夏油がいてわたしを見つめていた。

「それじゃあ、明日の自由行動も一緒に回る?」

 思ってもみなかった誘いだった。自由行動を、一緒に回る? それは二人で? 呆けていると「もちろん二人で」と彼は言ったので、わたしは情けない声を出して固まった。今でもいっぱいいっぱいなのに、二人だなんて絶対無理。けれども頭のなかに過ぎったのは、昨日聞いた彼に告白するという噂だ。

「ま……、わる……」
「……うん、一緒に行こ」

 あまりにも恥ずかしくて目を瞑ってしまったから、どんな表情をしていたかはわからないけれど、そのときの夏油の声はとびきり甘くて、全部溶けてしまうかと思った。結局そのあとは硝子に怒られるまで固まったままで、無理やり口にジンギスカンを入れられたけれど、やっぱり味なんて全然わからなくて、隣の男をこっそり恨んだ。



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