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これの続き
軽々とわたしを持ち上げた男は、その後出口へと向かった。屋敷の外には男の仲間であろうこれまた黒いスーツの男性たちが溢れるほどいて、男を見つけると少々驚いたように目を見張ってこちらへ駆け寄ってくる。
「夏油さん、中は……」
「一歩遅かった。ひとまず報告のために戻るよ」
「はい。あのええと、そいつは……」
「ん? ああ、拾った」
まるで物、よくて動物を拾ったかのようにあっさりと告げる男に、声を掛けた仲間の男は少々困惑した様子を見せたものの、すぐさま車の後部座席の扉を開けた。そのまままっすぐと黒塗りのセダンに足を向ける男に、わたしは思わず身を乗り出して男の肩越しに屋敷を見る。中も悲惨な状況であったが、外もひどい状態だ。古い屋敷ではあったものの、伝統的なつくりが美しかった姿は見る影もない。今から一時間も経たぬころにはちょうど夕日が屋敷を照らし、ノスタルジックな雰囲気に包まれるというのに。生まれてから十七年間、両親やその仲間とともに暮らし、過ごしてきた大切な場所がなくなってしまった。
堪えきれぬ涙が頬を伝った。結局屋敷を出るまで、わたしは父の姿も母の姿も見つけることができなかった。このままここを立ち去ってしまえば、もう本当に二度と会えぬかもしれない。
「あ、こら」
手を伸ばし屋敷に戻ろうと暴れるわたしを、男は抑え込むようにして抱え直した。周りにいた男の仲間たちから鋭い視線が向けられる。うーうーと本当に動物のように泣きじゃくるわたしに、男は無情にも足を止めることなく車へと向かった。最後に見た景色はぼやけてよく見えなかった。
放り投げられるかと思ったが、男は案外丁重な手つきでわたしを下ろし奥へと座らせた。そうして自分も車に乗り込むと、隣にどっかりと腰かける。運転席に座っていた別の男からは明らかに敵意のある視線を向けられたが、ゲトウと呼ばれていた男がトンと座席を軽く蹴ったところで、それはゆっくりと発進した。
戻る、と男は言っていたので彼らのアジトに向かっているのだろう。思わず頷いてしまったとはいえ、わたしはこのあとどうなってしまうのだろうか。助けてあげる、と言っていたけれど、そもそも男にそんなことをする義理も理由もないので本当のところはわからない。そもそも助けるってなにを指してそう言うのだろうか。もうわたしには、両親も仲間も友人も帰る場所も、なにもないと言うのに。
車内は存外穏やかであった。けれども恐怖心が消えることはない。わたしは胸の前で固く手を結びながら、扉の方に身を寄せて息を潜めた。こんなことをしたって手の届く範囲にいるのだから意味なんてないけれど、そうでもしないと恐怖のあまり泣き喚いてしまいそうだった。
「怖い?」
先ほどまで窓の外を見ていたはずの男がわたしを見下ろしてそう言った。どう、答えるべきなのだろうか。しかし迷っているうちに男はわたしとの距離を詰めて、覆い被さるように顔を寄せた。
「っひ、ぃ」
ニィ、と男が口角を上げた。それが余計に怖かった。すると男は震えるわたしの手を取ると、冷えきった指先をあたためるように何度も摩った。わたしよりも遥かに大きくて硬い手のひらが、わたしの手を包む。
「そんなに震えないでよ。悪いことしてるみたいだ」
「……あ、の……」
「一応まだ私は君になにもしていないつもりだけど」
確かに、そうだ。両親や仲間や友人を殺したのも、家をめちゃくちゃにしたのもこの男ではない。けれどもこの男が言った通り、一応まだ、なのだ。この男がこの先わたしになにをするつもりなのかもわからなければ、安心が保証されたわけでもない。それにそうでなくとも、この男から発せられる空気は恐ろしくてたまらなかった。
けれどもまた確かにあのあと別のファミリーがやって来たとして、わたしが無事でいられる保証もない。もしかしたら男の言う通り、殺されるよりももっと辛いことが待っていたかもしれない。もちろんこの先同じような未来が待っているのかもしれないけれど、わたし一人ではどうにも出来なかったあの場から連れ出したのは、間違いなくこの男であった。
握られたままの手をそっと下ろした。すると男は驚いたように目を見開くと、しげしげとわたしを見つめそれから声を上げて笑った。それは馬鹿にしているような笑い方でもあった。
「えぇ嘘、本当に? あはは、参ったな。一周回って可哀想に見えてきた」
「……」
「とんだ箱入り娘だ」
どうやらわたしの今の行動はよくないものだったらしい。しかし機嫌を損ねたわけではないようで、むしろ先ほどよりも機嫌がよさそうにニコニコとわたしを見下ろしている。面白くて仕方ないといった様子だ。
「素直で可愛い子は好きだよ。……震えて泣いている子もね」
にこやかにそういうので、わたしは男から視線を逸らせなくなった。もうこれ以上後ろに下がることなどできないのに、男は追い詰めるようにこちらに身を寄せる。わたしと男の太ももがぴたりとくっついて、上半身もわずかに乗りかかる。そうして顔がぐっと近付いたところで、「可哀想で可愛い子を見ると、虐めたくなるんだ」と男は囁くように言った。カチ、と震えのあまり奥歯がぶつかる音がする。呼吸が上手くできずに、ひゅうひゅうと喉の奥からか細い音が漏れた。
「ああ怖がらないで。まだなにもしないから」
まだ、と男は強調するように言った。ああやはり、あのときみんなと一緒に死ねた方が楽だったのかもしれない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。ぽた、とわたしと男の手のひらに涙が落ちる。すると目の前の男は、頬に流れたそれを存外やさしく拭った。なんなのだ、本当に。向けられる言葉や視線、手付き、空気。なにもかもがちぐはぐすぎて、気がおかしくなりそうだ。
男はみっともなく泣くわたしから視線を外すと、握っていたわたしの手を広げ、一本ずつ丁寧になぞった。どういう意味があるのかはわからない。怖がるわたしを楽しんでいるのか、はたまたなにかを確認しているのか。
「娘がいるとはね、聞いていたんだよ。でも誰も見たことがないって言うんだ」
親指から順に回り小指に到達すると、男はくるくると手のひらに円を書くように指を滑らせた。そうして最後にころんとなにかを落としていく。それは父がいつも付けている指輪であった。これをどこで。ハッとして顔を持ち上げる。男は無表情で指輪に視線を落としたまま、握りこませるようにわたしの手を包んだ。
「大事に育てられてきたんだろうね」
でもそんなんじゃ、本当にすぐ殺されてしまうよ。そう言って男はわたしから離れると、元の位置に戻って足を組み瞼を閉じた。眠るつもりなどないだろう。話はこれでおしまい、といったところだろうか。
一体いつどこでこれを手にしたか、答えてくれる者はいない。屋敷を出るときはそんな素振りもなく父の姿も見えなかったので、わたしと会う前だろうか。なんにしても、これがわたしの手に渡ったということは本当に最後だということだ。ああ本当に、全部なくなってしまったのだ。
車窓から見える景色は見知らぬ街へと変化していた。それほどあの屋敷から遠く離れてはいないのだろうが、男の言う通り世間知らずのわたしは今がどの辺なのかもわからなかった。ころんと手のひらで揺れた指輪は、男がずっと握っていたからかほんのりあたたかかった。