番外編

 わかっている。これが未練であると。しかしそれでも、私は変わらず彼女を愛していた。忘れた日など一度もない。眠りという天国にも地獄にもなり得る領域に落ちる瞬間、必ず思い返すのは彼女との記憶であった。そしてそれが少しずつ朧げになりつつあることも、しっかり理解していた。
 夢を見た。それはここ数年は見ることのなかった彼女との記憶であった。これも忘れていたのか。目が覚めた瞬間に、その事実が酷く私を苦しめる。忘れたくないと願っているのに、人間というものはどうしても、時間が経ち、新たなことを記憶する度に自然と過去のことを自らの奥へ奥へと追いやっていく。もちろんその中でも忘れられない記憶もあるだろうが、全てを忘れないでいるということはもはや限りなく不可能なことに近かった。
 昨日から、私の頭の中を埋めつくしているのは数年ぶりに再会した文乃の存在であった。最も、彼女は気を失っていたため私が一方的に再会を果たしているだけであるのだが。自ら彼女を置いていったにもかかわらず、ずっとずっと会いたいと思っていた彼女との再会を果たし、正直なところ私は泣きたくなるほど動揺していた。
 これは未練だ。文乃を悟へと引き渡したあと、私は彼女が高専近くの病院に入院したことを知った。高専を離れてから今まで一度も彼女に会いに行ったことなどない。しかし彼女が目を覚まさないという理由を言い訳に、私は猿が一番眠りについている時間帯にその病院に足を向けていた。

 道端に紫陽花が咲いていた。月夜に照らされているそれは、昼間見るものとは全く違うものに見える。辺りは静寂に包まれており、道を歩くものは誰もいない。立ち並ぶ家々の灯りもほとんどついていなかった。
 半ば無意識であった。沈黙の中、凛として咲き誇る花の少し太めの茎をぶつりと手折って、病院までの道を辿る。このような行為は、彼女に自分の思いを伝えるようなものだ。しかしもうあの再会を果たしてしまった瞬間から、私は彼女への感情を抑えることが出来ずにいた。まるで止まっていた時間と鼓動が動き始めたように、今まで伝えられなかった分を取り戻すかのように。置いていったのは、私だ。しかし彼女のことは高専にいる者の誰よりも理解していると思っている。だからこそ、私は彼女にこの感情を伝えたかった。

 私がここに来るのではないかと、誰かしらは勘ぐっているに違いない。そう思って慎重に近づいたが、病院付近にはなんの気配もしなかった。罠だろうか。それとも悟あたりが余計なことをしたのだろうか。そこまで考えて、おそらく後者であろうと私は結論付けた。文乃を引き渡した際は、これと言って彼とは話していない。話をさせないためにも彼女にほんの少し仕掛けをして、さっさと高専に戻らねばいけないようにしたからだ。最も、あの目があればそれすらも悟には気づかれているだろうが。
 呪霊に乗り、私はゆらりと外から彼女の姿を探した。もし悟が変な気を回しているとするならば部屋も簡単に見つかるだろうと思ったからだ。そして案の定、彼女の部屋は簡単に見つかり、目を覚ました様子も見られない。私は暗闇に乗じて病院内にあっさりと侵入した。

「…………」

 月明かりに照らされた文乃は、まるで永遠の眠りについているのかと錯覚してしまうほど真っ白であった。再会を果たしたあの日とは違って、昔のように化粧の施されていないあどけない表情。少し、痩せただろうか。あの頃よりも更に線が細くなったような気もする。しかしその理由を、数年会っていなかったとはいえなにも知らないと言えるほど私は鈍感でなければ、謙虚でもなかった。
 このまま連れ去ってしまおうか。そんな考えが一瞬頭をよぎる。しかしそれだけは、過去の私が許さないだろう。いや今の私だってそうだ。手を差し伸ばせば、彼女は必ず私の手を取る。だからこそ、私は彼女に手を差し伸べてはならなかった。それは彼女の過去と思いを踏みにじる行為であると理解しているからだ。
 不意に、部屋の空気が揺れたような気がした。宙に浮かぶ思考を遮って、目の前の文乃を注視する。すると彼女は少しだけ眉を顰めたあと、「すぐる、せん、ぱい」と小さく呟いた。
 その一瞬で、全身の血が煮えたぎるような感覚が私を襲った。ぐらりぐらりと、地面が揺らぐ。彼女が起きる気配はない。夢を、見ているのだろうか。

「文乃……」

 起きないでくれと、切に願った。
 彼女が眠るベッドに腰掛ければ、ギシ、と小さく軋む音が響く。そうして息を凝らして、私はゆっくりとその冷たそうな真っ白な頬に指を滑らせた。しかしその肌は確かにあたたかな温もりを感じる。その事実に、再びなにかがぐらついた。

「……ごめん、怒らないで」

 眠る文乃の唇に、私はそっと重ねるだけの口づけを落とした。その柔らかな感触は、もはや過去と比べられぬほど時間が開きすぎていてよくわからない。しかし確かに生きる彼女の唇がほんの数秒私に触れただけで、それだけで、泣きたくて泣きたくて堪らなかった。口づけで開かれたのは彼女の瞼ではなく、私の奥底に閉じ込めたはずの彼女への重い重い感情であった。それはとどまるところを知らず、自分ではどうしようもなく溢れていく。
 私はその日から何度も何度も文乃に会いに行っては触れるだけの口づけを落として、それでも収まりきらない感情を道端で手折った紫陽花に込めて置いていった。まるで呪いのようだと思った。


* * *


「どこ行くの」

 それは丁度、七月十日の深夜であった。私は道端に佇んで、見頃を過ぎて色褪せてきた紫陽花を眺めているところであった。懐かしい声。しかしよく聞きなれた声が私の鼓膜を揺らす。首を動かさずに視線だけをそちらに向ければ、悟はポケットに両手を入れながらまるで私を待ち構えていたように私の方を向いていた。こんなにも暗闇に包まれているのに、その瞳は真っ白な包帯で覆われていてよく見えることが出来ない。しかし、私は彼の瞳が見えなかろうがなにも変わりはしなかった。

「悟が来たってことは、もういないのか」
「…………」
「いつ目が覚めた?」
「……三日前だよ」
「……そう」

 偶然にも二日続けて向かったあの日が最後の夜であったということだ。とことん私たちの最後の夜は星が綺麗な日であるらしい。ちょうど紫陽花も萎びてきていて迷っているところであった。そうか。それならば丁度いい。

「文乃になんも伝えてやらなくていいのかよ」

 踵を返したところで、悟は私に咎めるように言葉を投げかけた。その声音は幾らか怒気を含んでいるように聞こえた。

「お前だけで勝手に終わらせるつもりか」
「……文乃はそれを望んでいたか?」

 振り返ることなく私は告げた。こんな稚拙な感情を未だ持っていることに私は内心驚いていたが、それでも見過すことが出来なかった。私は、彼女が未だ私にだけに花を咲かせ続けていることを理解している。そしてそれは私も同じことであった。

「文乃はそれを望んでいない。それに、あの子が目覚めたというのなら、もう伝わっているはずだよ」

 おそらく彼女もあの夜を、今までのことを思い返したはずだ。私の行動の意味を、そしてあの紫陽花を置いた意味を。私は文乃がどう受け取るか理解した上であれを置いていったのだから。私と彼女の関係性は酷く不安定だ。しかし、彼女への想いも、そして彼女からの想いも、誰にも触れさせるつもりはなかった。私はその見えない繋がりを闇夜に隠すように、悟に背を向けながら一度も振り返ることはしなかった。
- ナノ -