第十四話

 あたたかな風が流れているが心は柔らかくなれそうにもなかった。それは春に近付けば近付くほど、傑先輩の纏う空気が極わずかな一瞬、冬のように冷たくなる時があるからだ。しかしそれは本当に些細な変化ではっきりと確証することも出来ず、わたしたちはあっという間に繁忙期に突入した。舞い落ちる花弁、たゆたう空気。歩く度に視界を掠める木漏れ日が、酷く眩しく、目を閉じてしまいたくなるほど苦しいと感じたのは、生まれてはじめてのことであった。

 傑先輩は前にも増してわたしに多く触れるようになった。二人、別々の人であるわたしたちが、まるで一人になるように。喜びも悲しみも、分かち合うように。しかしどれだけ触れ合っても、彼の抱える大きな傷に触れることは出来ない。苦痛を抱いていることを知りながらも、その傷の正体をわたしは未だ掴み取れていなかった。慰めるように肌をなぞる春の風が、余計にわたしを苦しませた。

「文乃は呪術師を辞めたいと思ったことはない?」

 花弁が揺れる中、酷く冷たかった春の朝。傑先輩は唐突にわたしにそう尋ねた。この時のわたしは、世界のことや、命の尊さ、日々の一瞬一瞬の奇跡を、理解したつもりでいた。しかしあとから思えば、それらのことは一生完全には理解することなど出来やしなかったのだ。日々が重なれば重なるほど、新たに慈しみや悲しみも積み重なっていき、以前よりそれを嫌でも感じることになる。それらには上限なんてものはないのだ。
 だからこの時わたしは理解したつもりでいて、本当には出来ていなかった。両親からの愛。父の死。仲間と過ごす日々。そして血の繋がりのない他人をはじめて愛するということ。わたしはたくさんの尊い日々の中で生きてきた。しかしそれでも、わたしの知り得ないことはまだまだたくさんあったのだ。

「今のところは、ないです」
「辛くない?」
「辛いこともありますけど……ここで生きることは、苦痛ではないです」

 そう言うと、傑先輩はしばらく黙り込んでしまった。わたしはなぜだかその沈黙が酷く不安に感じられて、思わず縋り付くように彼の手を取った。春の揺らぎに流されてしまわぬようにその手を強く握りしめる。緊張で少しだけ汗が滲んだ。

「どうしてみんなと違うんだろうって、思ったことはあります」

 沈黙が恐ろしくなって、わたしは考えを纏める前に口を開いていた。喉の奥が乾いてしまったかように酷く息苦しい。それでも、なにかを言わなくてはと思った。

「でも、ここに来て、傑先輩に出会って……呪術師になってよかったと思いました。他の人とは違うけれど、傑先輩と同じであってよかったと、本当にそう思いました」

 わたしが告げる言葉一つ一つで、なにかが変わってしまうような気さえした。正解なのか不正解なのか、不安になりなりながら、それでもわたしは嘘だけはつきたくなくて、必死に言葉を紡いでいく。そして「傑先輩が生きる世界に生まれてよかったと思って」と、全てを言い切る前にわたしはいつの間にか傑先輩に手を引かれ、しっかりとした強い腕に抱かれていた。その安心する温もりと匂いに包まれた時、やっと不安が少しだけ解けたような気がした。

「酷いかもしれないけれど、私も、今は文乃がここにいてくれてよかったと思ってる」
「傑、先輩……」
「……ねえ文乃、これからも私にだけは嘘をつかないで、本当のことを言って」

 なんて狡いのだろうと思った。そんなこと、お願いされなくたってこれからも嘘をつくことなどないのに。しかしそう言われてしまえば、その言葉はまるで呪いのようにわたしの中に存在し続ける。寧ろ、わたしは傑先輩にこそ、その言葉をかけたかった。
 もしわたしが明日死んだら、彼はどれほど悲しむだろうか。欲を言うなら、そのあともずっとわたしのことを忘れないで愛して欲しいと思った。しかしそれは、彼を縛り付ける呪いになる。

「明日も、側にいて欲しいです」
「ずっとじゃなくていいの?」
「もちろん、ずっとがいいです。でも、その先のことは、また明日」

 永遠の日々などない。そう言ったのは自分だ。そしてそれは間違っていないと思っている。けれど、想うことはまた別の話だ。わたしはこの先も永遠に彼を想い続けるだろう。時間を重ねるうちに、いつの間にか鮮明な記憶と思い出ではなくなってしまうのかもしれないけれど、わたしは今日を、これまで重ねてきた日々を、そしてこれからを、慈しみ抱きしめるように忘れることなく生きていく。そしてその隣には彼がいてくれたら。そう願わずにはいられなかった。


*  *  *


「立花じゃん」

 任務を終えて自室へと戻る途中、ちょうど向かいから五条先輩が歩いてくるのが見えた。流石に会話はするようにはなったけれど、それでも彼が苦手なことには変わりない。日々強くなっていく彼は任務に駆り出され毎日忙しい様子であるので、ここ最近は高専で顔を合わせることも少なくなった。先輩たちはこの頃、一人での任務が更に多くなったと傑先輩から聞いていた。

「お疲れ様です」
「おー。お前も今日一人?」
「いえ、先ほど二人と別れたばかりで……」
「ふうん」

 そのまますれ違うかと思えば、五条先輩は以外にもわたしに声をかけた。古びた校舎の廊下で、中途半端な距離感のまま会話続けるわたしたち。歪みのない窓ガラス越しから陽の光が射し込んで、彼の足元を薄らと照らしている。偶然にしては出来すぎていると思った。

「傑と会ってる?」
「えっと、たまに……」
「そ。元気?」
「五条先輩は……会われていないんですか?」
「たまに会う」

 そう言って五条先輩は窓ガラスの向こう側を見下ろすと、「お、帰ってきた」と言ってひらりと手を上げた。わたしが立つ位置からでは外の様子は見ることが出来なかったけれど、おそらく傑先輩だろう。なぜなら五条先輩がその姿を見つけた時、そして帰ってきたと言葉を零した時、表情が声が、わたしと話す時とはまるで違ったからだ。

「この間傑と任務行ったんだろ?」
「この間、と言ってもかなり前ですが……」
「強かった?」
「それは、もちろん」

 すると五条先輩は、まるで自分のことのように柔らかく笑みを浮かべた。サングラス越しに覗く初夏の透き通る空のような色をした瞳が、春の光を吸収してゆるりと曲線を描く。それが、あまりにも眩しかった。

「なに? そんなじっと見つめて」
「え、」
「やっと俺の良さに気付いた?」

 五条先輩は少しだけ屈むと、眉を上げて薄らと目を細めた。しかしそれが冗談だということは、彼の纏う空気でわたしにも理解することが出来る。わたしは思わず唇の隙間から息を漏らして、「遅くなってすみません」と釣られるように口角を上げた。

「……はじめて見たわ」
「なにが、ですか?」
「お前が笑ってんの」

 その時にようやく、わたしたちの間に漂う空気が和らいだような気がした。しかしその距離感が縮まることはない。なぜならこの間は彼がいるべき場所であり、そしてその彼はそろそろここへやってくる。眩い空色が再びきらりと陽の光を瞬かせた。だから、わたしは気付いていなかったのだ。彼の眩しさに目がくらみ、わたしの足元に鋭利ななにかが落ちていたことなど。
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