第十三話

 海底に沈んだように眠りにつき、ゆるりと瞼を持ち上げた時、目の前に文乃がいるという事実だけで、こんなにも安心出来るとは本当に思いもしなかった。未だ眠りについたままの彼女はあのつんとした印象からはほど遠い、随分と幼い少女のように見える。しかしその姿はあんまりにも尊く、まるで永遠の眠りにでもついているようにも見えた。私は縋るように彼女を抱き寄せ、胸の辺りが微かに上下していることを確認する。指の腹で彼女の目元に触れれば、睫毛がほんの少しだけ揺れた。たったそれだけで、なぜだか酷く苦しくなった。
 文乃のはじめてを全て奪いたい。そんな感情が芽生え始めたのは、一体いつからだっただろうか。いや、おそらくはじめからだったのだろう。彼女が私の手のひらに自分の手を重ねた瞬間。まるで透明な水が黒に触れた時、一瞬にして滲んでしまうように、私の感情は彼女に奪われてしまったのだ。そしてそれは自分の知り得ぬところで彼女の内側を侵略しようと、じわりじわりと大きく膨らんでいく。しかし先に奪われたのは紛れもなく私の方で、彼女が言う“たくさんのはじめて”を、私も同じように感じていた。少なくとも昨夜、あれほど他人からの熱を、愛を、欲しくなったのは生まれてはじめての経験であった。
 眠り続ける彼女はいくつもサイズの違う私の服を着ているため、首元のその先にある双丘のはじまりが薄らと見えていた。そしてその滑らかな肌には自らが付けた独占欲という名の色が幾つも残っていて、ほんの少しの罪悪感と、それよりも何倍もの幸福感が私を満たす。昨夜、沸騰してしまいそうなほどの熱い血液が巡っている間はその薄い肌から熱い血を透かせて、どこもかしこもまるで桜のように色付いていた。そしてその華奢な肩と体に、昨夜の私はどうしようもなく劣情を抱いた。

「起きた……?」

 ぴくぴくと瞼を震わせたあと、文乃は薄らと固く閉じた瞼から瞳を覗かせた。普段よりも潤んだそれが、朝日を吸収するようにちらりと艶やかに光る。しかし一向に返事は返ってこず、彼女はぼんやりと私を見つめるだけであった。

「おはよう」
「……ゆめ?」
「はは、夢じゃないよ」

 そう言うと今度こそ文乃は目覚めたように瞬きをすると、ふにゃりと表情を緩め私の胸に額を擦り付けた。疎らに流れた前髪が素肌を掠め、心臓の辺りが酷く擽ったい。ああ、これもはじめての感覚かもしれない。頭の片隅で思った。彼女のこの姿を、一体どれくらいの人が知っているだろうか。とはいえ知ってる者が私以外にいるとすれば、穏やかではいられないだろうけれど。


*  *  *


 街は異常なほど人で溢れ返っていた。聞き飽きてしまいそうなほど無限に繰り返されるクリスマスソング。人工的に作られた光は雪に反射してきらきらと瞬き、すれ違う人々はこぞって浮き立つように笑みを零している。私たち二人だけが、知らぬ人々の頭の先に見える大きなクリスマスツリーに向かって静かに、ひっそりと歩幅を合わせ足を進めていた。その足取りは随分とゆっくりであったが、しかし決して重いものではなかった。

「綺麗、ですね」

 人の波に流されて、ようやくその大きなクリスマスツリーの前に辿り着いた時、文乃は小さく独り言のように呟いた。その声はクリスマスソングで流れる鈴の音より遥かに綺麗な音をしていたと思う。降り続ける雪が彼女の鼻について少しだけ赤く染まっていたが、それでも彼女はツリーを見上げるのを止めなかった。瞬き一つせずに。

「先輩? どうしたんですか?」

 文乃にそう言われるまで、私は彼女の手を強く握りしめていたことに全く気付いていなかった。私たちの周りには、携帯を握り写真を撮る者、彼女と同じようにツリーを見上げて笑みを浮かべている者で溢れている。私だけがどちらにも該当していなかった。ツリーを見上げることもせず、それを見上げる彼女をずっとずっと見つめていた。

「ツリーを見ている文乃が可愛いなって思って」
「クリスマスツリーを見に来たのに」
「同じくらい綺麗だったから」

 嘘であった。クリスマスツリーなんかより、彼女の方がうんと綺麗に見えた。
 文乃はしばらく私の顔をじっと見つめると、「そろそろ戻りましょう、少しだけ歩いて違う駅から帰りませんか」と言った。

「本当にいいの? まだ夜にもなってないけど」
「いいんです。見たいものは見れました」

 文乃は少しだけ強引に私の腕を引いていくと、ツリーへと向かう人混みの合間を縫うように足を進めた。見るのもそこそこに踵を返した私たちだけが違う方向へと向かっていて、なぜだかそれが堪らなく安心感を覚えた。そしてその瞬間、非術師の中で同じ目的地のために歩いている自分に嫌悪感を抱いていたのだと、今になって漸く気付いた。
 そして私たちは行きで降りた駅を通り過ぎ、再び会話もなく歩き続ける。そうして寒さに震え始めた頃に近くの駅で電車に乗り、高専の最寄り駅に続く酷く空いた電車の中で、ぴたりとくっついて暖を取りながら帰った。途中文乃は私の体に身を寄せて居眠りをしていた。正直なところ、意外だと思った。


 高専の最寄り駅に着いた頃には雪は止んでおり、雲ひとつない空中にぽつりと月が浮かんでいた。東京であれど自然に囲まれた地域であるため人気ひとけは全くなく、降り積もった雪のせいで全ての音が吸収され、恐ろしく感じてしまうほどなんの音もしなかった。

「綺麗ですね」

 しかし今度こそ私は「そうだね」とはっきりとした声で答えた。まるで世界に私たちだけが存在していると錯覚してしまいそうな、誰もいない静寂すぎる夜。遥か遠くに存在する月が、この二人しか存在しない寂しくて幸福な地に光を反射している。そしてその月の光をまた降り積もる雪が反射して、夜とは思えないほど世界は明るく澄んでいた。美しくて、心地の良い世界だと思った。

「わたしは、傑先輩が思っているほど綺麗な人間じゃないです」

 まるでどこかで聞いたような言葉だと思った。隣に佇む文乃に視線を向けて、繋いだ手に力をこめる。俯く彼女は雪に反射した光のせいでやはり酷く美しく見えたけれど、そんなことはないと否定はしなかった。

「綺麗な人間じゃないからこそ、綺麗な人間だと見られたい。でもそれは、誰に対してもではなくて、傑先輩にだけそう見られたいと思うんです」

 文乃の表情には陰りがあった。無言のまま彼女の顔を見つめ、その先に零されるであろう本音に耳を傾ける。静かすぎる世界ではどんな小さな声でも拾えるような気がした。

「誰もいないですね」
「うん」
「呪霊も、なにも、わたしたち二人だけで」

 少しだけ緊張した。つい先ほど自分が思ったことを、文乃が同じように告げたからだ。しかしそれだけで、その先に紡がれる言葉が自分と同じものであるのではないかと期待した。そしてそれが彼女にとっては綺麗な感情ではないと思っているのではないかと、なんとなく想像した。

「今、そうであったらいいのにって、思ったんです」
「うん」
「本当は、もっとたくさん、可愛くないことも、醜いことも、たくさん、何度も思い浮かぶんです」

 涙は零れていなかった。けれど、今にも泣いてしまいそうなほど苦しい声であった。そしてその姿が、どうしようもなく愛おしく見えた。なんて透明なんだろうと。そこにどんな色があろうが、どんな感情があろうが関係ない。私を純粋に想っているだけで、私にとっては美しいことには変わりないのだから。

「私も思ったよ」

 おそらく理由は違うだろうけれど、そう思ったことには違いなかった。文乃は目を見開いて今度こそ瞳から大きなしずくを零すと、唇の隙間から小さく白い煙を吐き出す。そうしてその数秒後にはその煙はしばらく立ち上ることはなく、私の体の中へと消えていった。

 ゆっくりなようでまるで一瞬のことのように冬の時を重ね、私たちは春を迎える。忘れもしないあの日から、一年が過ぎ去ったということになる。
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