第十話

 あの雨の日からしばらく時間は経過し、幾分静かな季節となった。残るのはひぐらしくらいで、カナカナと鳴く声が日暮れに聞こえてくると夏の終わりを感じられる。朝と夜は比較的涼しい風が流れるようになった。

 昼間はまだ残暑が続く中、わたしは石畳の階段に腰かけていた。高専内の少し開けた広場のようなところを見下ろすことが出来る場所。階段沿いに植えられた木々の隙間から、木漏れ日がゆらゆらと揺らめいている。
 今日は京都姉妹校との交流会だ。参加するのは二、三年生であるので今年入学したばかりのわたしたちが参加することはないが、今年の参加者の中には夏油先輩や五条先輩がいる。去年東京校が勝利を収めたことから今年の会場はここ、東京で行われることになった。そして今日はその二日目。昨日は団体戦であったので、今日は個人戦ということになる。個人戦の会場となった高専内の広場付近には、わたしと同じように一目見ようと集まった関係者がちらほらと見えた。
 最強の名を持つ二人が揃っているのだ。団体戦はあっさりと東京校が勝利を収めてしまった。そして今、正にその広場で個人戦を行っているのはわたしの一番の目的である夏油先輩。呪霊操術を使うため、それほど近くで見ることは出来ないが、どうしても彼の戦い方を近くで見たかった。

「彼氏のかっこいい姿を見に来たの?」

 すると突然、背後から投げかけられた声にゆっくりと振り返った。そこには今回の交流会には不参加の家入先輩が階段の一番上からわたしを見下ろしている。

「勉強ですよ」
「なんだ、つまらない」
「……夏油先輩がそう言ってたんですか?」
「なにを?」
「えっと、彼氏とか、彼女とか」
「いや? 雰囲気が前と違ったからかまをかけてみただけ」

 思わず口を噤めば、家入先輩は面白そうに笑みを浮かべながら階段を下った。黙り込むわたしに怒っていると勘違いをしたのか、「ごめんごめん」と軽く謝罪を零すと静かにわたしの隣に腰かける。広場の真ん中で相手を翻弄させるように呪霊を操る夏油先輩を眺めながら、「怒ってないですよ」とわたしは小さく言葉を返した。

「すきなの?」
「……どうでしょうか」
「へえ、意外」

 家入先輩と視線が交わることはなく、二人して個人戦の様子を眺めていた。彼女は、「まあ文乃が恋愛脳のイメージはないけど」と独り言のように呟く。他人にどう見えているのかはわたし自身にはわからないけれど、恋愛に対して消極的かと問われればおそらく違うのであろう。現に、わたしが夏油先輩に抱いている感情はもれなく恋愛の類に含まれているものであると思うからだ。

「呪霊を取り込む時って、どうしているんでしょうか」
「あー……なんか、球体? を飲み込むのは見たことあるよ」
「球体、ですか」
「ほとんど人前ですることはないけどね、ちょうど文乃の握り拳より二回り小さいくらい」
「それって結構大きいと思うんですが……」
「まあ、そうだね」

 夏油先輩の体の中に取り込まれた呪霊の数は一体いくつなのだろう。そして彼はその度にその大きな玉を飲み込んでいるということだろうか。
 食べるとはまた違うのだろうが、飲み込むという、呪霊を体内に入れる行為は、自分そのものに対する犠牲が酷く大きく、また境界線が酷く不安定になり得るものであるとわたしは思う。祓うべきものを自分の体内に取り込む。もしそれが自分であったならば。取り込めば取り込むほど、わたしは自分の中に溜まり続ける呪霊に、人としての立ち位置を見失いそうだと思った。

「お、勝負あったな」

 砂埃が舞う中、京都校の相手が地面に膝をついた。そしてそのまま動かなくなると審判役である先生が声を上げる。様々な声が上がる中、夏油先輩が操る呪霊は彼の手のひらに集まっていくと、まるで奈落に吸い込まれるようにして黒く消えた。
 しばらくして、今度は別の個人戦が始まった。ぶつかり合う金属音、抉らえていく地面。その様子を眺めながら、わたしはずっと夏油先輩のことを考えていた。そして考えれば考えるほど、目眩がしそうであった。

「どこがそんなにいいんかね」

 隣にいる家入先輩が突然ぽつりとそう呟いた時には、既に個人戦は終了していた。空は薄らと紅葉した赤い葉のように染まっていて、真っ黒な鴉が飛び回るのがよく見える。どういうことだろうと隣に視線を向ければ、彼女の視線はわたしにではなく広場の端の方に向けられていた。そしてその先には、夏油先輩と京都校の女子生徒が数名。しかしその言葉には、わたしも含まれているような気がした。

「優しいところ、ですかね」
「文乃も?」

 一番、ではないのだと思う。そもそもどこがすき、とかそういうのではないような気がする。もちろんそう思うところはあるけれど、それが理由でこうなったわけではない。夏油先輩の存在が、わたしの中に埋め込まれてしまったようなものだと思う。
 女子生徒に微笑む彼を眺めながら、「まあ、そこもそうですね」と呟けば、家入先輩は驚いたように目を瞬かせた。


*  *  *


 わたしは再び昼間広場を見下ろしていた階段に腰かけていた。辺りはもう既に暗く、シャワーも浴びたあとなので髪に絡んだ砂埃もすっかり落ちている。するりと肌を撫ぜる秋の風が心地よい。

「どうかしたの?」

 昼間と同じように、背後から声を投げかけられた。しかしその声の主は昼間と同じではなく、あの時広場で見下ろしていた夏油先輩の声。呼び出したのはわたしだ。彼はあの日の雰囲気はすっかり雨と共に流してしまったようで、しばらく前と変わりない様子でわたしの隣に腰かける。

「ごめんなさい、用はないんです。ただ、会いたくなって」

 そう言うと、夏油先輩は驚いたように目を瞬かせた。まるで昼間の家入先輩のようだ。しかししばらくすると彼は嬉しそうに表情を緩ませ、「私も会いたかったんだ」と秋の涼やかな空気とは裏腹な甘い声で呟いた。

「交流会、お疲れ様です」
「ありがとう」

 尋ねたいことはたくさんあるはずなのに、いざそれを口にしようとするとどうにも憚られてしまう。鈴虫が小さく鳴いている中、わたしは結局当たり障りのない会話のために、「夏油先輩は」と切り出すと、彼はそれを遮るようにわたしの手を取った。

「もう、呼んではくれないの?」
「えっと……」
「わかってるだろう?」

 あの日から、夏油先輩の視線に熱がこもるようになった。じっと射抜くその瞳に逃れることも出来ず、わたしは喉が渇くのを感じながら、「傑、先輩」と小さく彼の名前を呼んだ。しかしそれだけで、彼はなにかが満たされたように笑みを浮かべる。瞬間、堪らないほど心臓が甘く疼いた。

「文乃」
「はい」
「って、呼んでもいい?」
「もう何度も呼んでます」
「うん、そうだね」

 傑先輩の指が、そっとわたしの甲をなぞる。ぞわりとした感覚に震え小さく息を吐き出せば、彼はわたしの手を引いて肩の部分にぽす、と額を乗せた。彼もまたシャワーを浴びたあとなのか、ふわりと清潔感ある香りがして、下ろされた髪は頬に当たり少しだけ擽ったい。
 この内側に蔓延る感情が、すき、なのだろう。今この瞬間、夏油傑という人物の内側も外側もがわたしに向いていることを嬉しいと思う。そうして少しずつ彼のことを知っていきたいし、知れたらいいなとも思った。この感情は彼以外には浮かんでこなかった感情だ。
 触れる指先の温度よりも、感情の矛先を尊く思う。それがどれだけ鋭利で苦しかろうが、わたしに向いているということが酷く嬉しいと思うのだ。そしてわたしもまた同じように思い、その重さが等しくあればあるほどさらに喜びを感じる。これもまた、すき、という感情と言っていいのだろうか。

「傑先輩」
「ん?」
「わたし、案外ヤキモチ焼きなのかもしれません」
「え、」

 思い出したのは昼間の光景だ。その瞳に映してほしいと一瞬でも願ったのは間違いではない。彼のことを知らなかったのはわたしも同じなのに。

「わっ、」
「そういう狡いこと言わないで」

 ぎゅう、と抱きしめられる窮屈さに安心を覚えた。彼の隣が一番居心地が良いと感じるようになったのは、一体いつからだったのだろう。もしかすれば、あの雨の日よりもずっとずっと前からだったのかもしれない。
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