第九話
暦の上では既に秋を迎えているらしいが、秋の要素は未だどこにも感じることが出来ず夏らしい日々が続いていた。それは天候にも言えることで、先ほどまで透き通る青が広がっていたはず空にはいつの間にかゆっくりと厚い雲が流れてきており、夕立が降りそうな空模様。
普段であればもう少し粘っていただろう。しかし次第に流れる風は強くなり、ぬるりとした嫌な空気が蔓延り始めたことから、わたしは練習を中断し寮への近道を通り抜けようとした時であった。
「夏油先輩……?」
今日は任務だと言っていたはずだったが、どうやらすんなり終わったようだ。見慣れた後ろ姿、ちらりと見えた横顔。しかしどこかその足取りは、いつもより重いように感じられる。気の所為かとも思ったが、夏油先輩が向かっている先は寮でも校舎でもない、以前彼から教わったあの美しい紫陽花が咲く場所であることにわたしは気付いてしまった。
「先輩!」
気がついたら勝手に足が動いていた。私は任務中でも出さないくらい、うんと声を張り上げて縋るように彼の手を取る。声をかけられるまでわたしの存在に気付いていなかったのか、夏油先輩は驚いたように目を見開くと小さな声でわたしの名前を呼んだ。
「ごめんね、全然気付かなかった」
「…………」
「今日も練習してたの?」
「……、ごめんなさい。本当は一人にするべきだってわかっていたんですけど」
そう言うと、夏油先輩は再び大きく目を見開いた。やはり、向かう先はあの場所であっていたらしい。
もうしばらくすれば酷い土砂降りに見舞われるだろうに、それでも彼はその場所へ続く道を歩んでいた。その意味が、どれだけ大きなことか。理解してしまったからこそ、手を取らずにはいられなかった。
「夏油先輩。もうすぐ、雨が降ります」
「……うん、そうだね」
「風邪、引いちゃいます」
「わかってる。でも、大丈夫だから」
彼は、微笑んだ。いつもとほとんど変わらない笑みを浮かべたのだ。その瞬間、わたしは“今まで何一つ彼のことを理解出来ていなかったこと”をようやく理解した。
自分のことで精一杯で、わたしは彼についてなにも知らないのだと。わたしが知っているつもりであった彼は、彼が見せようと思っていた姿だったのだと。理解しているつもりで、尊敬という言葉の裏にわたし自身が彼本来の姿を隠してしまっていたことを。
「大丈夫じゃ、ないです」
ごろごろと空から振動が伝わってくる。太陽はすっかり厚い雲に覆われてしまい、辺りはまるで帳が降ろされたかのように薄暗くなっていった。あの、梅雨の日のように。
「ごめんなさい。わたし、先輩がどうして今一人になりたいのか、わからないです」
「それは、」
「でも、大丈夫じゃないのは、わかります。理由を教えて欲しいなんて言いません。でも、先輩がわたしのことを知りたいって言ってくれたように、わたしも先輩のことが知りたいです」
それはずっとずっと思っていたことだ。彼がわたしにあの美しい場所を教えてくれた時。わたしの言葉足らずな会話から感情を掬いあげてくれた時。わたしのことをもっと知りたいと言ってくれた時。何度も何度も、そう思ったのだ。
雨粒が降り落ちる方が先であったか。はたまた夏油先輩がわたしの手のひらを強く握った方が先であったか。わからないけれど、見上げた瞬間、降り落ちた雨粒がまるで涙に見えてしまい、思わずぐらりとわたしの中にあるなにかが揺れ、目頭が熱くなった。
呪術師としての正しい在り方。それに伴う大きな力。どちらもを兼ね備えた彼の姿は努力の上で成り立っているのだと、わたしはずっと思っていた。そしてそれは、間違っていないだろう。しかし、それを言葉にするのは酷く簡単だ。わたしは理解しているつもりでもその努力の大きさがどれだけ果てしないものか、理解しようと思っても本当の部分までは理解しきれないのだろう。そしてその努力が、どれだけ彼の心に影響を及ぼしているのかも。
ただの憶測だ。実際彼になにがあって、どうして今一人になりたいのか、わたしにはわからない。けれど、努力を怠らない最強の名を持つ彼も、わたしと変わらないただの人なのだと、わたしは今更になって気が付いた。
「一人にさせたくないです」
本降りになるまでは一瞬だ。そして手を引かれ、抱きしめられたのも一瞬のことであった。ざあざあと強い雨が打ち付けられた部分から熱が奪い取られていくのと、夏油先輩に触れた部分から熱が広がっていくのとで、体の中がおかしくなってしまいそうであった。しかしどうしても離したくなくて、彼もまた絶対に離してはくれなくて。まるで縋るようにわたしたちは抱きしめあった。
時間で言えばほんの数分。もしかすれば一分も経っていないのかもしれない。すぶ濡れになり互いの体温が冷えてきた頃、わたしはそっと夏油先輩の手を引いた。おそらくきっと、彼だけではここから動かない。どうかわたしの手を離さないで欲しいと、切に願いながら力を込めた。
そうしてゆっくりと足を踏み出す。すると彼もまた、ゆっくりと足を踏み出した。会話はない。けれど、わたしと一緒に戻ってくれるだけでよかった。わたしたちは降り続ける雨の中を走ることなく、寮への道を歩んでいく。彼になにがあったのか。もしかすればなにかがあったのではなく、もうずっと彼の中にあったものが溢れ出てしまったのだろうか。なにもわからない自分が酷く苦しかった。
しばらくして寮の入口に辿り着いた時、今度は彼がわたしの手を引いて男子部屋の方へと向かっていった。びしょ濡れのせいで、廊下には小さな水たまりがいくつも出来上がっていく。そうして一つの扉の前に立ち、鍵を開け、静かにそれを開けると、わたしはあっという間に中に引き込まれた。途端に香るいつもの彼の匂い。ひゅっ、と息を呑む間に背後で乱暴に扉を締められ、強い力に引き寄せられると、わたしは壁に押し付けられるようにして再び彼に抱きしめられた。
「せ、んぱい……」
「ごめん、怒らないで」
「んっ! っ……」
人生で二度目の口付けは、酷く苦しかった。冷たい手のひらがそっとわたしの頬に添えられると、何度も唇が合わさって、薄らと開いた瞳と視線が絡む。段々と、あの梅雨の日のように音が遠ざかっていくのを感じた。
「名前」
「え……」
「呼んで、お願い」
それが普段呼んでいる名字の方ではないことなど、わかりきっていた。しかしいざ呼ぼうとしても声にならず、何度も口を開いては閉じて、視線を彷徨わせてしまう。
ぽたりと、夏油先輩の前髪の先からわたしの頬に雫が零れ落ちた。無意識に伝ってきた前髪に視線を向ければ、そこには普段からは想像もつかないほど苦しそうで余裕のない彼の表情。一体この表情を、彼のこの姿を、どれくらいの人が知っているのだろうか。
「すぐる、せんぱい」
緊張で微かに声が震えた。しかしその瞬間、彼は薄らと微笑んだ。困ったように眉を下げて、泣きそうなくらい苦しそうに。
「……文乃」
「っ、」
ただ、名前を呼ばれただけだ。それなのに、こんなにも息が出来ないものなのか。初めて聞いた彼の声、その言葉に、ぐらぐらとなにかが煮え立つような感覚がわたしを襲う。恋なんて、そんな可愛らしいものではないような気がした。
なにもかもが痛かった。心臓も、抱きしめる腕も、見つめられるその視線も。
「すきだ」
まるで、とどめを刺されたようであった。瞬間、甘いようで甘くないその鋭利な言葉はおそらく一生わたしから消えることはないと、なんとなくそう思った。
すきという言葉が今のわたしの感情と同じものなのか、わたしにはわからなかった。けれどわたしは夏油先輩が大切で、生きていて欲しくて、辛い時や寂しい時は隣にいたいと思った。そして彼を想って、わたしも生きていきたいと思った。
そっと背中に腕を回すと、彼はわたしの首元に擦り寄るように頬を寄せた。今まで見ることのなかった彼の姿に、心臓の奥が切なく揺れる。この感情は愛おしい、というものなのだろうか。初めて感じるそれは決して嫌なものではなく、このずぶ濡れのまま二人で溶け合ってしまえばいいのにと、密かに心の中で思った。