第八話

 美しく咲いていた紫陽花はもう見れなくなってしまった。代わりに、太陽に向かって目一杯背を伸ばす向日葵が目立つ季節が訪れる。真夏の日々が続いているが、山奥なだけあって日陰は幾分過ごしやすい。鍛錬を終え、涼むようにして日陰に腰掛けていれば、背後にそびえ立つ校舎の窓際にかけられた風鈴が涼やかな音を奏でた。

「お疲れ」
「、家入先輩」

 背後から突然聞こえた声に振り返れば、風鈴がかけられたその窓から家入先輩がわたしに向かって手を上げた。開け放たれた窓枠に肘をかけ、少々気だるそうにしているその姿は夏の暑さに項垂れているのか、はたまた別の理由があるのか。

「これあげる」
「いいんですか」
「そのために買ったし」
「ありがとう、ございます」

 近付けば、家入先輩は冷えたペットボトルの麦茶を差し出した。先ほどまで動き回っていたから、正直なところ甘いジュースよりも嬉しい。わたしは彼女のこういう部分が好きであった。
 パキ、と軽快な音を鳴らして蓋を開ける。買ったばかりであろうそれには既にしずくが付着していた。

「夏油になんか変なことされてないの?」

 突然の言葉に、思わず噎せるところであった。飲み込むタイミングを逃し、わざとらしく麦茶を嚥下すれば、家入先輩は探るような視線をわたしに向ける。

「変なこと、とは」
「最近夏油が文乃のことを気に入っているみたいだから」
「そう、でしょうか」
「逆になんもないと思う?」

 特別、ではないのだと思う。けれど、なにもないのかと問われればそうでもないと思う。事実夏油先輩はわたしのことを知りたいと言っていたし、最近はなにかと気にかけてくれることが多い。

「なにもなくは、ないと思います」
「ふーん」

 なによりも、わたし自身がそうであって欲しいと心の片隅で願っているのもある。強くて、聡明で、優しい人。夏油先輩と少しずつ共に時間を過ごしてきて、わたしは彼に惹かれ始めていた。それは、人としても、異性としても。この感情が、はっきりとそうであるのかは断言出来ないけれど。

「嫌なことがあったらちゃんと言いな」
「夏油先輩はそんなことしないですよ」
「本当に?」
「本当に」

 あの雨の中、口付けを落とされたと言ったら、家入先輩は彼のことをなんと言うだろうか。しかしそれを言うつもりもなかった。なぜなら、あの口付けは確かに不可解なことであったが、嫌なことではなかったからだ。


*  *  *


 文乃はもっと不器用だと思っていたよ。
 それは、先日家入先輩と話していた最中に言われた言葉であった。一見貶しているようにも聞こえる言葉であるが、その時の彼女の声は酷く優しかった。彼女もまた、夏油先輩と同じように程よい距離感で接してくれる聡明な人だと思う。なんてことないように聞こえる言葉たちにもう何度も救われている。

 もう暫くすれば忙しい時期も終わる。任務続きの日々。日が暮れる少し前、灰原くんと七海くんと任務を終わらせ車で帰宅する途中、どおん、と大きな音が響いた。

「なんだろう? 今の」
「あー、この辺で今日お祭りがあるらしいです」

 補助監督の方のその言葉に、「へえ」と右隣に座る灰原くんは興味深そうに窓の外に視線を向けた。車窓から見える景色からではその様子は把握出来ないが、確かに世間一般では夏休みも半ばであり、今日は休日。高専にいる以上、夏休みなんて存在しないものと等しいが、もし高専に入学していなければ今頃わたしは夏の行事に足を向けていただろうか。いや、そもそもそんな友人はいないのだけれど。

「寄ることも出来ますけど」
「どうする?」

 灰原くんのその言葉に、わたしは左隣に座る七海くんに視線を向けた。彼はあまり人混みが得意ではないだろうからおそらく断るだろうと思い、判断を委ねる。しかし彼の口から出た言葉は、「少しだけ寄るか」と肯定的なものであった。

「え、行くの……?」
「立花は行きたくないのか?」
「え、いや行きたくないというか」
「じゃあ決まりだ!」

 にこにこと笑みを浮かべながらわたしを見下ろす灰原くんと、静かにじっと見下ろす七海くん。補助監督の方は嬉しそうに声を上げ、「あまり長居は出来ないですけど、たまには良いんじゃないんですか」と言って、来た道を戻っていった。

 薄らと橙色が滲んだ空の色。開催地の神社付近には既に人が集まっていて、ずらりと並んだ屋台からは甘い匂いや香ばしい匂いが漂っている。

「お腹は空いてる?」
「ううん、そんなに」
「じゃあ甘いのだけ食べようか」

 灰原くんに妹がいるからか、三人でいる時は彼がわたしたちを引っ張っていくのが常であった。けれど決して七海くんが無口だというわけでもなく、彼は自分の意見を持ち、それが違えばはっきりと告げるので、なにも言わないということは灰原くんと同じ意見ということなんだろう。少なくとも、わたしはそう思っている。
 すれ違う人の中には浴衣を着た女性たちもよく見られた。友人や恋人と、楽しそうに笑みを浮かべて境内を歩く姿は本当に眩しそうで。自分の生い立ちを酷く悲観したことはないけれど、もし自分が呪霊を見ることが出来なかったら、あんな風に夏を楽しんでいたのだろうか。

「はい」
「え、」

 目の前に差し出されたのは艶々とした真っ赤なりんご飴だった。いつの間に買ったのだろう。驚いて思わず瞼を瞬かせれば、灰原くんは少しだけ眉を下げて、「りんご飴、嫌いだった?」と申し訳なさそうに尋ねた。

「あ、ううん。りんご飴すき、だけど……いいの?」
「もちろん」
「自分だけで買ったみたいに言うな」
「あはは、ごめんって七海」

 どうやら、二人でこれを買ってくれたらしい。「ありがとう」と灰原くんからそのりんご飴を受け取れば、二人は柔らかく表情を緩めた。
 二人は友達、とはまた違うんだと思う。かと言ってただのクラスメイトというわけでもなく、同じ呪術師として時を過ごす、そう、戦友のような。

「わたし、家族以外とお祭りに来るの初めて」
「そうなの?」
「うん。あんまり、友達作るの上手くなくて」
「まあでも僕も妹とが一番多かったな、七海は? 中学のクラスメイトとかさ」
「私が大人数でここに来ると思うか?」

 今日ここに寄ろうと言ったのははたして誰であっただろうか。彼のその優しさに、ゆっくりと心臓の辺りがあたたかくなっていく。灰原くんはすかさず、「今日ここに寄ろうって言ったの七海なのに」と笑って彼の背中を叩いた。

「っ、今日はたまたま……」
「でも久しぶりに来れて良かったよ」
「わたしも、二人と来れて良かった」

 七海くんはわたしたちの言葉を聞いて、照れたように眉間に寄せた皺をそっと緩めた。もし呪霊が見えなかったら、彼らにも会えていなかったのだ。そして彼らだけでなく、夏油先輩にも。もしもの話をしたってなにかが変わるわけではないけれど、彼らが命をかけて呪霊と戦っていることを知らぬまま死ぬのは、酷く悲しいと思った。みんなと出会えて良かったと思った。

「りんご飴、お土産に買っていこうかな」
「あ、いいね! じゃあ一つずつ買おう。あ、あと補助監督の人にも」
「五条さんにも買うのか?」
「五条先輩には、七海くんが渡してね」
「本気で言ってるのか……?」

 うん。と灰原くんと二人で頷けば、七海くんはげんなりとした表情を浮かべた。わたしはまだ五条先輩とは上手く話せないし、おそらく灰原くんは夏油先輩に渡すだろう。わたしも、家入先輩にこの間の麦茶のお返しが出来ていなかった。

 冷たくて残酷な世界でもあると思う。しかしだからこそ、今日のような夏の日々をわたしは愛おしく思った。風が吹けば、ぬるい温度の中に甘い匂いと香ばしい匂い。それと、夏の緑の匂いがした。
 これだけ人が集まればもしかしなくとも、呪いは生まれるのだろう。けれど確かにこの場所には呪いだけでなくて、清らかななにかも生まれているのだ。
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