Romantic Nightmare

▼ 小さな気付き


 すべての授業が終わればあとはホームルームを経て帰るだけ。その、最後の二十分が不思議と長く感じられるのも毎度のこと。
 担任教師が連絡事項を伝え、日直が号令をかけると、一気に教室内が騒がしくなる。椅子と机がぶつかる音や雑談が飛び交う中、担任が荊兎の名前を呼んで手招きした。

「はい、何でしょう……?」

 帰り支度を中断して教卓に向かう。大翔と優真の視線を背中に感じながら尋ねると、担任は机の引き出しから一枚の紙を取り出して見せた。

「来月末の修学旅行の話なんだが……花咲は積み立てをしてこなかったから、留守番をするって言っていたよな」
「はい……そのつもりです」

 担任の顔を見上げ、藁半紙のプリントに目を落とす。それは六年生に上がったときにもらった、修学旅行の積立金のお知らせだった。荊兎がもらった分は親に渡すことなど出来るはずもなく、いつの間にかどこかへ失くしていた。

「今日の昼休み、学年主任の先生と話したんだ。花咲が大丈夫なようなら、修学旅行に参加させられないかって」

 担任はプリントを荊兎に渡し、その一文を指し示した。そこには積み立ての全額と、ひと月あたりに払う分が書かれている。

「本来は毎月これだけ払って、最終的にこの額になるんだが、花咲の場合は、今月中にこの半額を払ってもらわないといけないからお家の人にそう伝えてほしいんだけど……大丈夫そうか?」
「えっ、半分、ですか……?」
「ああ。残りは三か月分だから、卒業までに積み立てと同じように払ってもらうことになってる」

 書かれている金額は決して安いものではない。少なくとも荊兎にとって、気軽に言い出せるような額ではないため、いまから喉が詰まる心地だった。

「……お兄ちゃんに、そうだん、してみます……」
「ああ、ぜひそうしてくれ。野分と文月も、最後まで花咲の参加を諦めないって言っていたから、行けたら喜ぶと思う」

 折りたたんだプリントを胸に、後ろを振り返る。大翔と優真と目が合って、手招きをされるままに戻っていくと、笑顔で迎えられた。

「旅行の話だろ? 行けるといいな!」
「俺たち、荊兎と三人の班じゃなきゃいかないって先生困らせてたから、もし行けたらわがままがほんとになるから助かるんだけど」
「う、うん……僕も、行きたい、けど……お兄ちゃんになんて言おうかな……」

 くしゃりと、紙が軽い音を立てた。これ以上ぐしゃぐしゃにしてしまう前にと慌ててクリアファイルにとじて、ランドセルにしまう。

「送ってくついでに、俺たちも一緒に行こうか?」
「えっ……でも、はるちゃんサッカーは……?」
「今日はグラウンド整備で休み。だからオレも行くよ」

 ベルトがくたくたになったランドセルを背負いながら大翔がそう言うと、優真も頷き荊兎の肩に手を添えて微笑みかけた。
 二人はいつだってそうだった。大翔が先に駈け出して道を開き、優真がそっと荊兎の背中を押す。

「うん、ありがとう。僕も行きたいから、がんばってお話する」

 荊兎は二人にそう言うと、途中だった支度を済ませてランドセルを背負った。

「なあ、荊兎の兄ちゃんってどんな人?」

 帰り道、門を出たところでふと大翔に尋ねられ、荊兎はコートのポケットから携帯を取り出して開いた。待受けには初めて携帯のカメラで撮った悠の写真を設定してある。それを大翔に見せた。

「悠お兄ちゃんっていうの」
「うおっ、すげーイケメン!」
「俺にも見せて。……わ、ほんとだ」

 歩道の端で足を止め、荊兎を挟んで大翔の逆側にいた優真が、荊兎を横から抱き込む格好で画面を覗いた。

「優しそうな人だね」
「うんっ、すごくやさしいよ。ごはんも、ねるところもくれて、それなのにおかえしはおっきくなってからでいいって言ってくれるの」
「お返し?」

 息がかかりそうなほど顔のすぐ傍で、優真が首を傾げて荊兎の顔を覗き込む。荊兎はそれに慣れた様子で頷き、はにかみながら携帯の悠を見つめた。

「僕がいままでみたいに、ちゃんとごほうしがんばるって言ったらね、なにもしなくていいから、そういうのは大きくなってからでいいからって」
「……いい兄ちゃんだな」

 大翔と優真が、荊兎の視野外で頷き合う。
 お返しの話が出たときは、この人も荊兎に見返りを求めて家に置いているタイプかと思ったが、話を聞いていると、これまでの家族とは全然違う。きっと、お返しは大きくなったらという言葉も、荊兎がなにかしてもらう度に恐縮する癖を緩和するための方便だろうと察した。何故なら、自分たちがそう言って荊兎に食事や服を与えてきたから。
 いそいそと携帯をしまうのを見て、優真も荊兎から離れ、手を繋ぎ直した。再び歩き始め、他愛のない会話に花を咲かせる。

「――ゲン担ぎはいいんだけどよ、オレにまで赤いパンツ穿かせようとすんのはやめてほしいぜ……」
「うちの兄さんも今年受験だからカツ丼とか串カツとかよく出るよ。……そう言えば、荊兎のお兄さん、いくつくらいの人なの?」
「えっとね、十九さいって言ってた。もうすぐおとなになるんだって」
「わっか! 兄ちゃん若ぇな!」

 声を上げた大翔に驚き、荊兎が目を丸くする。大翔ほどではないが、優真も悠の年に驚いていた。

「凄いね。もうすぐ成人とはいえ、未成年で一人暮らししてるだなんて。俺の兄さんも来年十九だけど、大学進学しても家は出ないつもりらしいから」
「お前の兄ちゃん頭いいからいいじゃん。帝都大なんてフツーに狙っていけるとこじゃねーだろ」
「そうらしいね。俺もそこに行けって親に言われてるけど」
「マジか……お前んちも色々すげーな」

 当たり前のことだが家によって環境が全然違う。いままでは自分のことで精一杯で、友人二人の家族のことも知らなかったのだと、荊兎はふと思った。



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