▼ 新しい始まり
十日間。悠が荊兎を引き取り、戸籍を書き換え、最終的には親権を獲得するべく裏で動いていた期間。そのあいだ、荊兎は自宅療養をさせてもらい、ふらふらだった体調を最低限通学するのに不自由しない程度にまで回復させた。
今日が、悠の元に来てから初めての登校日。
荊兎は六年生二学期目にして初めて買ってもらったランドセルを背負い、悠と香織と一緒に買った水色のワンピースを着て、緊張の面持ちで玄関に立っていた。
前髪が短いだけで、こんなにも緊張するとは思っていなかった。視界が広く、世界が眩しい。いままで見えなかったものがとても良く見える。
「荊兎、大丈夫? お兄ちゃんが送って行こうか?」
玄関と外の境目で躊躇するように立ち止まった荊兎を見て悠が尋ねると、荊兎は一瞬縋る言葉を零しかけたのを何とか飲み込み、振り返って首を振った。
「だ……だいじょうぶ。おともだちと、いっしょに行くの」
一歩。外に出て、一つ息を吐く。肩のベルトをぎゅっと握り締めながら、最後にもう一度悠を振り返って、真っ直ぐに見上げた。
「お兄ちゃん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、荊兎。気をつけてね」
小さく手を振り、門を越えて外へ。右に曲がって、壁際を歩いていく。家が変わって通学路も大きく変わったおかげで、いままで荊兎だけが学校から逆方向で一緒に登下校出来なかった友達と同じ方向になったことも、嬉しい変化の一つだった。
友達との待ち合わせ場所は、住宅街の終わり際にある、広い自然公園の南側出入口。反対の北側に出るとオフィス街へ通じており、東側方面に学校がある。そのため公園を抜け道兼待ち合わせ場所にしようと前日にメールで話し合って決めたのだった。
時間を確かめるため、手のひらに収まり切らない、荊兎には少し大きいキッズ携帯のサブ画面を見る。ピンク色と黄色の、卵のような曲線が可愛らしいどことなくおもちゃじみた携帯は、服を買った後日に悠から与えられたものだ。GPS機能と遠隔通報機能付きの、少し高価なものであることは荊兎は知らない。
「まだ少し早いけど、待ってたら来るよね……」
小花柄の薄ピンクの布で出来た兎のぬいぐるみストラップのつぶらな瞳に、ほんのり表情が緩む。悠が与えてくれるものはどれも暖かい。
携帯をしまって、待ち合わせ場所の車止めに腰かけて足を揺らしながら待つ。金属の角が丸い四角形のアーチは全部で五つ。入口も広ければ中も広いこの自然公園で遊んだことはまだない。元気になったらそれも叶うだろうかと、ぼんやり眺めながら思った。
ふと、前方から駆けてくる二つの人影が見えた。それぞれ、黒と濃紺のランドセルを背負った男の子が二人、片手に提げた体操着の袋を振り回しながら向かってくる。
「おはよう荊兎!」
「うっそ! マジで荊兎?」
駆け寄ってきた二人が荊兎の前で立ち止まり、目を丸くしながら元気よく叫ぶ。その顔を見た瞬間緊張していた胸の中が一気に安堵で満たされ、荊兎は笑顔を浮かべて一つ頷いた。
「うん。おはよう、ゆうちゃん、はるちゃん」
「マジで荊兎だった!」
信じられない顔をしていた二人が、荊兎の答えでやっと本物だと確信した様子でまた驚きの声を上げた。
「その服どうしたん? 新しい家族って荊兎のこと女の子だと思ってるとか?」
「ううん、僕がこのおようふくがいいって言ったの。……女の子じゃないと、やっぱり変かな……?」
「ぜんっぜん! ねえ大翔」
大翔と呼ばれたほうの少年は何度も大袈裟に首を縦に振って同意した。二人の反応に荊兎がまた安堵の笑みを浮かべると、友人ふたりも照れくさそうに笑った。
「てか行こうぜ。歩きながら話そ」
「だな」
荊兎を真ん中に、三人並んで公園の中へと入っていく。友人二人の後ろ姿、特に背を覆うランドセルには六年分の歴史と無茶な扱いをしたと思しき跡が刻まれていて、体も細く一年生の平均身長しかない荊兎の新しい水色のランドセルが殊の外目立っている。
「優真、荊兎ランドセル背負ってる」
「見りゃわかるって。やっと買ってもらえたんだね」
自分のことのようにうれしそうに言う二人に頷き、荊兎は握り締めたままのベルトを見る。
「お兄ちゃんが買ってくれたの。おようふくだけじゃなくて、ぼうしもくつも、ぜんぶお兄ちゃんが買ってくれたの」
「兄ちゃんヤベェな……てか親父さんは、また……?」
初秋には少し寒々しく見える半袖半ズボンという格好に、色褪せた黒いランドセルを背負った、やんちゃそうな少年大翔が怖々尋ねる。荊兎は小さく首を振って、ふんわりしあわせそうに笑って見せた。
「お兄ちゃんが、まもってくれてるの。お父さんはお母さんにしかきょうみないけど、ねんのためって言ってた」
「そうしたほうがいいよ。アイビキの邪魔すると蹴られるらしいし」
「ひき肉か」
「ちがーう」
脈絡のない会話が左右を飛び交うのを始終笑いながら聞いていると、不意に両方から視線を感じ、首を傾げて二人を交互に見た。真っ直ぐな黒髪をお行儀よく切り揃えた、青いランドセルにカーディガン姿の優真という少年が優しげな笑みで切り出す。
「荊兎、これからそうやって笑ってたほうがいいよ。すごく可愛い」
「言えてる。てかずっともったいなかったよなー」
優真の言葉に、うんうんと大袈裟に頷いて見せながら、大翔が同意する。友人二人の衒いのない褒め言葉は、荊兎の心を優しく包んだ。
「ゆうちゃん、はるちゃん、ありがとう」
「どういたしまして!」
荊兎のお礼に対して左右から同時に降ってきた声に、三人で笑う。
大翔と優真は、いま以上に幼い頃から荊兎の傍にいて荊兎を支えてきた。特別家庭が裕福というわけではないため出来ることは限られていたが、三人でのお泊り会と称して風呂や夕食を与えたり、古着をお下がりしたりして今日まで来たのだ。ずっとサイズの合っていない同じ古着を着続けていた荊兎を見てきたからこそ、二人は新しい家族との出会いと生活の好転を素直に喜んだ。