Romantic Nightmare

▼ 鏡あわせの傷



 悠は少しずり落ちかけていた荊兎を抱き直すと靴を脱ぎ、まず寝室に入ってベッドに寝かせた。荊兎は相変わらずぬいぐるみをしっかりと抱きしめたまま離す気配がない。仕方なく着替えさせることは諦めて靴下だけ脱がすと、それと自分の着替え一式を手に洗面脱衣所へ向かった。

「そういえば、荷物を置きっ放しだったな……」

 半ば脱ぎ切ったときに気付いたが、シャワー後でも良いかと思い直し、そのまま軽く浴びて一日の疲れを洗い流すことにした。一つに結っていた長い後ろ髪を解き、頭から熱い湯を浴びる。雨音のようなシャワーの音が蒸気と共に室内に満ちて、外に出ていたことで知らず知らず凝り固まっていた体が解れていく。シャンプーもトリートメントも髪が長いと何かと面倒で、時折根元から切ってしまいたくなる。けれどその度に幼い頃香織に言われた『悠の髪は真っ直ぐできれいだね』という言葉が蘇り、気付けば腰まで届く長さになっていた。

「少し連れ回し過ぎたかもしれないな……荊兎はまだ全然体力がついていないんだし、考えてやらないと」

 湯を止め、髪を絞り、軽く水気を払って脱衣所に出る。ふわっと空調に蒸気が踊る中体を拭いていると、微かな声を聞いた気がして手を止めた。

「……荊兎……?」

 最初は気のせいかと思った。しかし、意識して耳を澄ませると、確かに聞こえる。
 悠は急いで下着だけ付けると肩にタオルをかけて、寝室に直行した。

「荊兎!」
「っ……お、にぃ、ちゃ……」

 涙に濡れた顔で悠を見上げ、小さな両手を懸命に伸ばして縋ろうとする荊兎の姿に、悠は思わず駆け寄り強く抱きしめた。

「荊兎……ごめん、ひとりにして」
「おにいちゃん……おにいちゃん……僕、いい子にする、から……おいてかないで……いい子、に……するからぁ……」

 必死に縋りついて訴える涙声に、胸が痛む。荊兎からすれば、眠ってしまったことで真っ暗な部屋に置き去りにされたようなものだった。縋る手が微かに震えていることに気付き、悠は何度も何度も荊兎の頭を撫でて宥めた。

「大丈夫。置いて行ったりしないよ。荊兎を独りにはしないから、大丈夫」

 余程不安だったのだろう。荊兎はこれまで以上に長く泣き続け、最後には呼吸困難になりかけてしまった。
 トントンと背中をたたいてやりながら、荊兎が落ち着くのを待つ。最初に比べてよく笑うようになったからといって心の傷が消えたわけではないのだと、悠は改めて自分に言い聞かせた。
 暫くして息が整ってくると、荊兎は悠の肩に頬ずりをして甘える仕草をした。これは悠との生活に慣れてきた辺りからするようになった仕草で、安心や愛情を表すものだと荊兎の様子から判断している。現に荊兎は、肌に触れていたり胸元に寄り添って心音を聞いていると安心するようで、悠の腕の中は眠るときの定位置にもなっている。

「ごめん、荊兎。よく眠っていたから、お兄ちゃんもシャワー浴びて寝てしまおうかと思ったんだ」
「うん……ごめんなさい……僕、ウサギさん、かってに持ってきちゃって……だから、おにいちゃん……おこっていなくなっちゃったって……」

 やはりというか、荊兎は香織のぬいぐるみを持ってきた罰でひとりにされたと感じてしまっていた。抱きしめていた体をそっと離し、涙に濡れた頬を優しく指先で拭うと、悠は荊兎の額にキスをした。

「大丈夫。荊兎を置いてどこかに行ったりしないから。香織も気にしないでいいよって言っていたからね」
「香織さん……僕、また……」

 じわりと新たな涙が滲んできたのを見て、悠は小さい頬を包んで宥めた。
 ここで香織のことを出すのは逆効果だったかと思いつつ、やわらかな頬に自分の頬を合わせて何度も背中を撫でる。

「荊兎は十分いい子だよ。お兄ちゃんが言うんだから、大丈夫」
「お兄ちゃん……」

 泣き止もうと必死な浅い息遣いが聞こえる。暫く待つと、深く息を吐いて顔を上げる気配がしたので体を離し、頭を撫でた。悠の手にはあまり怯える様子を見せなくなってきたが、肩に触れていると一瞬の強ばりがあるのを僅かに感じる。

「荊兎、お兄ちゃん着替え放ってきちゃったから、取ってきていいかな」
「あ……ごめんなさい……」
「いいんだよ、大丈夫だから。ね、荊兎」
「うん、僕、泣かないで待ってる……」

 最後に荊兎の頭を撫でると、悠は急いで寝室を出て脱衣所に戻り、着替えを済ませて長い髪を乾かした。荊兎を宥めているあいだに体と髪は殆ど乾いていたため然程時間はかからなかったはずだが、逸る気持ちのせいかいつも以上に長く感じられた。
 戻り際、玄関に寄って置きっ放しだった荷物を拾って寝室に向かう。

「ただいま、荊兎」

 髪を背に流したまま部屋着姿で戻ると、荊兎はおとなしく泣かずに待っていた。涙の痕が残る頬をふにゃりと緩めて安堵を表す姿は何ともいじらしい。

「お兄ちゃん」

 荊兎が悠をそう呼ぶ度、兄としての自覚が芽生えていく。これまでも何度か父が連れ子のいる相手と再婚したことがあったが、殆どが十代も後半の難しい時期だったため、兄弟として過ごしたことはなかった。弟というものがこれほど愛おしく、庇護欲を掻き立てる存在だとは思いもしなかった。
 悠は荊兎の持っていたぬいぐるみを枕元に置くと、隣に潜り込み荊兎を腕の中に閉じ込める形で抱きしめた。荊兎も安心したように深く息を吐いてそっと背中を抱き返し、悠の胸にすり寄って甘えている。

「お休み、荊兎」
「うん……おやすみなさい、お兄ちゃん」

 傷ついた子を抱いて眠ることが、こんなにも自分の内の虚を埋めるものだったとは。香織も同じ思いだったのだろうかと幼い日の幼馴染を過ぎらせ、眠りについた。


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