荊の魔女

 夢想の淵


 まもなく西日が全て建物の陰に隠れようという頃。フィオは街の広場で領民に囲まれていた。祭りの前に街外れの祭壇へ祈りを捧げにいった兄妹も、先ほどの不安そうな様子を忘れて、楽しげな笑顔でフィオを迎えている。

「皆のおかげで、今年もまたこの日を迎えることが出来たわ。いつもありがとう」

 集まった領民たちをゆるりと見回しながら、フィオが穏やかな声で言う。その様子に、領主らしくあろうという力みはなく、フィオの心から自然と零れ出た言葉は真っ直ぐ民の心に届いた。

「いえ、領主様が、我々を見守ってくださっているお陰です。日々何事もなく平穏に……ただこれだけのことさえも得がたい国や土地もある中、エヴァンジェリンの民は恵まれております」

 白髪と顎髭が見事な壮年の男性が、目尻に皺を刻みながら、よく通る低い声で笑った。その言葉に、周りが笑顔で頷く。
 優しい領主に、勤勉な領民。まるで、絵に描いたような幸福な光景が其処にあった。

「領主さま。これ、僕の母さんから」

 そう言って、フィオの傍にいた幼い少年が両手で小さな包みを差し出した。隣ではその妹である少女が、はにかみながらフィオを見上げている。

「わあ、可愛いポプリね。ありがとう、お母様にもよろしくお伝えしてね」
「うんっ」

 少年がうれしそうに笑顔で頷くと、周りで見守っていた子供たちが次々に自分からもと贈り物を差し出した。それぞれ丁寧にお礼を言っては受け取っているうち、フィオの手が可愛らしい包みで満たされていく。

「こんなにたくさん……ありがとう、皆」
「あらあら。領主様、両手にいっぱい抱えていては大変でしょう。どうぞこちらの花籠をお使いくださいな」

 恰幅の良い女性が手提げの花籠を差し出すと、子供たちが「お手伝いする!」と元気にフィオの手を満たしていた包みを花籠へ移し始めた。領地で採れた作物を使って作られた花籠いっぱいのお菓子や手製の小物を両手で受け取ると、フィオは改めて広場に集まっている領民たちに笑顔でお礼を述べた。
 やがて陽が落ちきると、ほろほろとほどけるようにして広場に集まっていた人が街へと散っていく。収穫祭は夜明け間際まで行われるが、フィオにはまもなく迎えが来ることを民は知っているためだ。
 最後の一人に手を振って、フィオはなにかを探す素振りで辺りを見回した。城が見える方角を向いたとき、目的の人物を捉えて真っ直ぐに駆け出した。

「ベル!」
「フィオ様、お帰りなさいませ」

 駆け寄ってきたフィオに恭しく頭を下げ、城にいるときと変わらない態度で出迎える。ベルは花籠いっぱいに民の愛を受け取ってきた主の姿に目を細め、手を差し出した。
 ベルにエスコートされながら、来た道を並んで戻る。背後から聞こえる賑やかな祭りの声に後ろ髪を引かれる思いで歩いていると、ふとベルが口を開いた。

「フィオ様」
「どうしたの?」

 傍らの従者を見上げれば、宵闇の中にあってなお淡く輝く氷の瞳がフィオを見下ろしていた。

「先ほどお客様がいらしたのですが、お客様は街に泊まられるようです」
「お客様……? 街にお客様がいらっしゃるなんて珍しいわね。わたしはご挨拶しなくて良かったの?」
「ええ。手紙も出さずに突然訪れたことをお詫びしておられました」
「そんなの気にしなくていいのに……でも、お城にお泊めするわけにもいかないものね。お帰りが一年後になってしまうもの」

 一年に一度しか門が開かないエヴァンジェリン城は、来客を迎えるのに向いていない。それを理解して街で相手をしてくれたのだろうと判断したフィオは、無垢な笑みでベルにお礼の言葉を継げた。

 門を潜れば、フィオにとっての日常が出迎える。
 まだ白薔薇の城門は開いているが、それを潜れるのはまた一年後のことだ。
 自室に戻るなりフィオは全身鏡の前に立って祝祭用の衣装を眺め始めた。収穫祭の日は飽くまで祭の空気に浸っているのも毎年のことで、衣装に見入る主の姿を見たベルは一人今年の成功を実感していた。

「フィオ様」

 ベルが声をかけると、フィオは上機嫌な様子で振り返り、ベルの元へ駆け寄ってきた。街でもらった花籠は、ベッドサイドに大事そうに置かれている。

「さあ、お名残惜しい気持ちはわかりますが、そろそろお体を清める時間です」
「そうね……もう夜も随分更けてきたわ」

 言いながらワンピースの紐をほどき、袖を抜いて下着姿になっていく。ベルが手を貸す頃には殆ど脱ぎ切ってしまっていた。手早く夜着を着せて、髪をほどいてブラシをかけ、緩やかな癖のある長い髪を背中に流す。膝裏に届くほどの白い髪は毛先まで綺麗に整っており、僅かな傷みも見られない。
 浴室で身を清め終える頃には、フィオははしゃぎ疲れた様子を見せていた。淡い紫色の瞳が眠そうにとろけ、ベルを見上げている。

「では、ベッドへ参りましょう」
「夢から覚めたら、またいつも通りの朝が来るのよね。街の人も言っていたわ。それってとてもしあわせなことなのだって」

 両手に余るほどの幸福を抱えてぬるま湯に浸り、白薔薇の香りに包まれて、何事もなく明日を迎える。
 ベッドに身を横たえ、フィオはベルの手を額に感じながら目を閉じた。眠りへと落ちる瞬間はいつも、体ごと夢にとけていくような感覚がする。

「お休みなさいませ。どうか、良い夢を」

 祈りの言葉がフィオの胸に染みこみ、優しい夢をもたらす。
 朝の光が照らし出す残酷な現実を、陰惨な真実を、痛みを伴う全てを覆い隠して。


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