荊の魔女

 花の精霊


 エヴァンジェリン城の庭園には、一年中白い花が咲き誇っている。雪原のような庭園の他、四季問わず様々な花で彩られた花壇の一部は、フィオが魔女として作る薬品や香油の材料を育てる大切な薬草畑となっている場所もある。
 城壁と門で囲まれた内側は魔女の領域。城が主人の意思に応え、その望みだけを叶える空間だ。よってフィオの庭園はフィオが望む限り美しい花々を咲かせ続け、求める薬草を季節に関わらず育て上げ、綺麗な泉を湧かせて精霊を住まわせる。
 入浴に使う香油を精製するための薬草を採りに来たフィオを、薬草畑に隣接する小さな泉の畔を住処とする水精が出迎えた。きらきらと水滴に似た光の尾を引きながら、薄青を帯びた光の玉がフィオの周りをじゃれるように飛び回る。
 フィオが泉に着くと、水面が揺らいで盛り上がり、見る間に小さな人魚の姿となった。クリスタルで出来た手のひら大の細工人形のような姿をした彼女は、フィオを見上げると色のない顔いっぱいに喜びの表情を乗せ、両手をフィオに向けて差し出す仕草をした。
 畔にしゃがむと、フィオは小さな手に人差し指をそっと近付け、ひと雫の魔力を零す。小さな人魚――泉の乙女は、ティアドロップ型の魔力の結晶を受け取ると、両手で抱えたまま一口頬張った。大好きな甘いお菓子を口にした少女のように、満面に笑みが広がっていく。

「お口に合うかしら」

 しゃがんだまま、膝上に肘を置いて頬杖をついた格好で、フィオが泉の乙女に尋ねる。綺麗な水で出来た透明な体を陽の光にきらめかせながら、泉の乙女はうれしそうに何度も頷いてフィオに答えた。

「良かった。あなたたちのおかげで、泉も薬草畑も、ずっと綺麗に保たれているのよね。いつもありがとう。また会いに来るわね」

 お礼を言って立ち上がるフィオを、泉の乙女は大きく手を振って見送った。
 精霊族は人と同じ言葉を持たない種族だが、魔力を持ったものとは互いの魔力を介して意思疎通が出来る。抑々、彼らは自然界に存在する水や風が魔力を帯びて光の玉のような姿を得て、更にそこから強い魔力に触れて、ようやく絵本や歌物語で語られるような姿になるものであって、フィオの持つ古い教本にエレメンタリアという名で載っている通り、生き物というよりは人の似姿を得た自然の欠片と呼ぶほうが相応しい。
 そんな彼らとの触れ合いは、フィオの楽しみの一つだった。

 薬草畑は、白い鳥籠のような形の柵で囲われた中にある。ビニールハウスになっているわけでもないのに大きな鳥籠の中は年中春のように暖かく、仮に大雨が降ってもこの中に影響はない。
 尖頭アーチ型の扉をくぐって温室に入ると、晩秋特有の冷たく乾いた空気が嘘のように感じられなくなり、春の暖かさがフィオを包む。

「ここはいつも不思議ね。ベルの魔法がかかっているとは聞いているけれど……きっと、それで暖かくなっている上に、あなたたちもここに棲んでいるからだわ」

 辺りを見回しつつ、様々な薬草が葉を茂らせ花を咲かせている花壇で飛び回る、小さな光の玉……即ち最下級の精霊たちに向けて囁く。この中でもひときわ大きな赤煉瓦造りの花壇には、愛用している香油を作るための薬草が多数植えられている。今日の目的はこの花壇だ。
 フィオが花壇のある最奥部に着くと、淡い桃色の五枚花弁の花を逆さにしたような形のドレスを着た、手のひら大の少女精霊が座っていた。泉に人魚の姿をした水の精霊がいたように、花壇にもその場と属性を司る精霊がいるのだ。
 フィオが近付くと、花の精霊は退屈そうに両足を揺らし遊んでいたのを止めて、パッと表情を華やがせ顔を上げた。頭に乗せている花冠が、喜びを表すように一斉に咲き誇って花弁を散らし、フィオを甘い春の香りで出迎える。温室内に満ちていた薬草の匂いを凌ぐ歓喜の香りは、フィオの心も喜びで満たしていった。
 泉の精霊が普段は水に溶けて眠っているように、土の中に溶けているわけにもいかない彼女は、フィオがいないあいだは、この常春の鳥籠の中で独りで過ごすしかない。それをわかっているので、薬草摘みはベルに頼らず、フィオが自ら籠を提げて採りにくることにしているのだが、毎回全身で歓迎してくれる姿を見ると愛おしさがこみ上げてくる。

「お久しぶりね。元気にしていたかしら」

 そう挨拶しながら、真っ直ぐに差し出された両手に人差し指を近付けると、花の精霊は飛びついて指先に頬ずりをした。泉の乙女にしたように彼女にも魔力の結晶を与えようとしたのだが、余程寂しかったのか暫く離してもらえそうにない。

「わかったわ。今日のティータイムは、ここですることにしましょう。薬草を積み終えたあとで良ければベルに用意させるから、一緒にいかが?」

 フィオの申し出に元気よく頷くと、花の精霊は指先を離れてふわりと舞い上がり、一番良く育っている薬草の前で飛び跳ねる仕草をした。いつも採りに来る薬草と、その時期をしっかり記憶しているところもいじらしい。

「ありがとう。あなたのおかげでフィオは今日も良い香油が作れそうだわ」

 お礼の言葉と共に笑いかけるフィオに、花の精霊もつられたように笑みを返した。
 この精霊が取っている人の似姿、頭に花冠を乗せた淡い金の長い髪を持つ少女の姿は、フィオが絵本で見た花の妖精の姿に似ている。泉の乙女も同様、フィオの持つ水の精霊のイメージと同じ容貌をしていた。生まれはどれも同じ光の玉でしかないエレメンタリアがとる人の姿は自我を得た環境で変わると言われているが、フィオの城で育った精霊たちは皆、城の魔力の影響でフィオのイメージに寄り添うようだ。
 穏やかで幸せなお伽噺のような光景の中、フィオは魔女としてその手で草を摘んだ。

「ここでお茶をするのも久しぶりね。初めてこの鳥籠を作ったとき以来かしら」
「ええ、そうですね」

 白いガーデンテーブルに春の花が描かれた揃いのティーセットを並べて、フィオはベル特製のスコーンに、お気に入りのフランボワーズジャムとクリームを添えて、口当たりの優しい紅茶と一緒に楽しんでいる。ベルはフィオの傍らに控えていつも通り給仕に徹し、話しかけるタイミングで時折見上げる主人の眼差しに、目を細めてしあわせそうな笑みを返す。
 そんないつも通りの主従の傍に、この日は小さな客人が同席していた。
 薬草花壇を守る精霊は、テーブルの端に敷いた大ぶりの花びらの上にお行儀よく座り、ティアドロップ型の魔力の結晶を両手で持って満面の笑みで頬張っている。
 フィオの魔力の結晶は、精霊にとって砂糖菓子のようであるらしく、城内に棲んでいる精霊たちは魔法の協力に対するフィオからのお礼に必ずこの魔力結晶を求める。その形がティアドロップ型である理由は、フィオが初めて結晶化を試みた際に、左手の薬指に輝く指輪が目に入ったため。頭の中のイメージよりも実物を参考にしたほうが良いとのベルの教えに従った結果、この形に定着したのだった。
 間もなく晩秋の収穫祭が控えている季節とは思えない暖かな空気に溶け込んだ、仄かな紅茶の香りに誘われて、まだ形を得ていない精霊たちが辺りを舞い始めた。

「この子、もうすぐ成長しそうね。どんな姿になるか楽しみだわ」

 一つのエレメンタリアを指先に留めてフィオが言うと、その言葉に応えるように、光がふわりと広がりフィオの指先を包んだ。この精霊は毎晩フィオの髪を乾かしに来てくれる風の精霊で、魔女として覚醒したばかりの頃からフィオの傍にいた。だが、積極的に傍にいようとする他の精霊たちと違って、役目を終えるとすぐに去ってしまっていたためか、成長が遅く未だに形を得ていない。

「この子はお仕事以外でフィオと関わるのは好きじゃないのかと思っていたのだけれど、そうではなさそうで安心したわ。せっかくならお役目だからってただ傍にいるのよりも、フィオを好きで傍にいてほしいもの」

 無邪気に精霊と戯れながらフィオが意図せず放ったこの言葉は、ベルの心に僅かな棘となって残った。決して、あてつけて言ったのではない。寧ろ好かれていないと思っていたことが誤解だったと喜んでいる明るい言葉だ。しかしベルには、あのときから胸に灯っている正体の知れない感情に早く名をつけることを望まれているように聞こえてしまった。
なにより、しあわせそうにしている主の喜びの言葉を歪めて受け止めてしまう自身の心の在り様にひどく落胆した。

「ねえ、ベル」
「……っ、はい、フィオ様」

 一拍の間を感じ、フィオはカップを手にしたままベルをじっと見つめた。

「珍しいわね、あなたがぼんやりするなんて」
「失礼致しました。ご用命を聞き漏らしてしまいましたでしょうか……」
「いえ、たったいま呼んだばかりよ」

 その言葉に、ベルが安堵したような表情になったことに気付いたが、フィオはそれには触れずにティーカップを置くと琥珀色の水面を一瞥し、再びベルを見上げた。

「少し冷めてしまったから、注ぎ足してもらおうと思ったの。ポットのお茶はまだ温かいでしょう?」
「ええ、ただいまお淹れ致します」

 ベルの手つきは、いつもと変わらない。あの一瞬の空白は何だったのかと思うほどに、完璧に瀟洒に振る舞っている。
 ふと見ると、花の精霊が風の精霊の話に半ば前のめりになりながら、目を輝かせて聞き入っていた。
 風や水などの明確な境界を持たない存在は、エレメンタリアとして『大きな一つ』から分かれて独立する以前の記憶を持つものが多い。そのため遠い外国の話や人の足では到底辿り着けない果ての景色などの知識を魔女に与える、貴重な存在でもある。
 彼らの声なき声は、聴こうとしない限り聴くことは出来ない。フィオは風の精霊は己に話し聞かせているのではないからと、意識を紅茶に戻した。

「こう暖かいと、季節を忘れてしまいそうになるわ」
「間もなく収穫祭です、フィオ様」
「ええ。……門のきしむ音がするもの、ほんの数日のうちにその日が来るわ」

 花の精霊が、きょとんとした表情で見上げている。フィオがティーカップを手に優しく微笑みかけると、まさしく花が咲いたような笑みで甘い香りを振りまいた。



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