▼ 全てを失った日
失意の内に板谷が帰宅すると、見知らぬ男が妻と娘と共にいた。金髪に碧い目で、黒いスーツを着た若い男だ。ダイニングテーブルで向かい合うように座っており、男の前にはお茶と茶菓子まで置かれている。
「なんだお前は! 俺の家に若い男を連れ込むとはどういう了見……」
「あなたにだけは言われたくない!!」
頭に血が上り、カッとなって怒鳴った板谷に、妻が叫んだ。
顔を覆って泣き出す妻の背中を撫でながら、娘が板谷を睨む。その目は、汚らわしいものを見る目でしかなく、数年前に過ぎた反抗期のときですら見たことがないほど侮蔑に満ちていた。
「お客さんとかじゃなく真っ先にそういう言葉が出てくるって、自分が“そう”だからだよね」
吐き捨てるように言われて一瞬たじろぐが、板谷はすぐさま男を睨んで声を荒げる。
「だったらソイツは何だって言うんだ!」
「弁護士の先生だよ。まだわかんない? 自分がなにをしたのか、ホントに理解してないの!?」
娘はヒステリックに叫ぶと部屋の隅にあるペン立てからハサミを掴み取り、もう片方の手で己のポニーテールに結い上げた長い黒髪を掴んだ。ハッとした板谷が半歩踏み出すのと同時に、掴んだ髪を根元からざっくりと切り落としてしまった。
髪留めが床に落ち、バラバラと散切りになった髪が顔に掛かる。
「私のこともそういう目で見てたんでしょ!? 気持ち悪い! 二度と顔を見せないで!! もう一生アンタのことは親だとは思わないから!!」
娘は切り落とした長い髪を板谷に向けて叩きつけると、鞄を提げて足早に家を出て行った。扉を叩きつけるようにして閉めた音が、板谷の背後で虚しく響く。
部屋の中には、妻の啜り泣く声だけが取り残された。
「奥様も、どうぞお部屋にお戻りください。お話は私が致しますので」
「はい……先生、よろしくお願いします……」
肩を震わせながら何度も男にお辞儀をして、妻が二階の自室へと下がっていく。結局最後まで、板谷の顔を見ることはなかった。
「板谷孝造さん。奥様より離婚手続きのご相談を受けておりました」
「は……? 離婚だと? そんな勝手が許されるとでも」
「あなたに選択権はありません。不利な要素しかないので、楽に終わると思わないことです」
冷徹な声音でそう言うと、男は一枚の名刺を取り出した。社会人の性か、それともどんな人間が好き勝手しているのか見てやろうという気が働いたか。板谷は突き出された名刺を見て、そして、絶句した。
「御所染グループ専属弁護士、海棠と申します。社長の命で本件を担当することとなりました」
その名は日本国内どころか海外にまで轟いている、大会社のものだ。いち食品メーカーの課長に過ぎない板谷では、どれほど大きな口を利いても、逆立ちしても相手にならないほどの。
そんな人物が何故、などと考えたところで答えは出ない。真っ白になった頭の表面を滑っていく様々な法的手続きを上の空で聞き流すことしか出来ない。
「――――……」
板谷孝造はこの日、地位や財産や家族……そして社会的信用と、文字通りなにもかもを失ったのだった。