▼ 摘み取られた尊厳
満員電車の扉付近で、一人の少女が身を固くしていた。スーツの群に囲まれた状況では、僅かも身動ぎをすることが出来ない。
息が詰まるようなむさ苦しい空気の中、それ以上に彼女を苦しめているのは、彼女のスカートの中に挿し入れられた、見知らぬ誰かの手のひらだった。下着の中心を前後に行き来する、太い指。尻の肉を揉みしだく大きな手。あからさまに興奮した鼻息が髪にかかる。
彼女がこうして狙われるのは、実はこの日が始めてではなかった。
最初は偶然とも捕らえられる程度の接触。それが次第にエスカレートしていき、怖くなって乗る車両を変えても同じ目に遭い、時間帯をずらしてもまた襲われる。別人の可能性も疑ったが、肌を掠める手の感触や息が掛かる高さ。なにより視界の端に映るスーツが毎回同じであることや、男の体格も同じであることなどから、一人の男につけ回されていると確信していた。
恐らくは電車に乗る前から目をつけられているのだろうが、ホームで辺りを見回しても、此方が警戒しているときは上手く隠れているのか、見つけることが出来なかった。
そんなことが続いたある日。
「やめてください!」
少女は勇気を振り絞って男の手を掴み、声を上げた。
これだけ人がいれば誰か一人くらいは味方をしてくれるだろうという希望的観測の元だったが、それは早々に打ち砕かれることとなる。
「なんなんだ、いきなり!」
掴んだ手の持ち主は、動揺するでもなくただそう怒鳴り、手を振り払った。そして、男の周囲にいた他の男たちが、少女を見下ろして言った。
「さっきからもぞもぞしていると思ったが、手が当たる位置を探っていたのか」
「マジかよ。それって、冤罪ビジネスってやつじゃ……?」
その声を皮切りに、車両内に疑惑が蔓延していく。
「なに? なんか騒ぎ?」
「冤罪ビジネスらしいよ。通勤電車でやめてほしいんだけど」
「マジ? ああいうのがいるからほんとの痴漢も言い出せなくなるんじゃん。女の敵」
「てか地味ブスじゃん。いくらJKでもあれはないわ。自意識過剰拗らせてんじゃねーよ」
視線と声が突き刺さり、視界が歪む。
扉が開いて降車していく人の波に押し流されて降りるつもりもない駅で降りてしまったが、再度乗り込む気にはなれなかった。呆然と見送る車窓から、あの男が笑うのが見えた。
結局その日は這うようにして学校へ向かったが、授業は上の空で帰路もどう帰ったか記憶にないくらい一日が朧気だった。
学校生活は楽しい。
友人との語らいも、勉強も、学校に何一つ不満はない。
それなのに――――
「っ……! うぇえ……ッ、ゲホッ……!」
次の日の朝。
学校へ行こうと身支度をしたところで、少女は突然自宅のトイレに駆け込んだ。食べたばかりの朝食を吐き出し、便座に縋り付いて蹲る。学校に行かなければと思う度に強い吐き気が込み上げてきて、膝が震えた。
「ちょっと愛梨、どうしたの?」
真っ青な顔色で出てきた娘に、母親が心配して駆け寄ってくる。しかし、本当のことが言えずに首を振り、ただ具合が悪いとだけ答えて部屋に戻ってしまった。
「どうして……」
制服を脱ぎ捨て、ベッドに横たわり、小さくなって膝を抱える。
一人の変質者のせいで、少女は通学が怖くなってしまったのだった。