その10
2023/03/21 17:11
「え、宇佐美さん今日帰らないんですか。」
みっちゃんの髪を乾かしながら、「出張だそうですよ」と言った町屋の声は、ドライヤーの騒音に紛れてかすかにしかリクの耳には届かない。
「ちょっと俺汗くさいんで、ご飯の前に風呂入らせてもらいますね。」
「はい、僕たちはもう入りましたので、ゆっくりどうぞ。」
「どうもです。」
夜練帰りのリクは、脱衣所で髪を乾かす二人の真横でなんの気無しにスポンスポンと服を脱ぎ風呂に駆け込むようにして入っていった。
よくもこう人前で素っ裸になれるものだと内心町屋は思う。リクにとっては大したことではないのだろう。高校時代から男子寮に入っていたと言うから、その辺りからくる気質なのかもしれない。
そう考えると、みっちゃんを風呂入れるという簡単な事ですら若干躊躇した自分の情けなさを思う。普段はリクが、みっちゃんを毎日風呂に入れてくれている。それに関して特段何か思ったことはなかったのだが、いざその立場になってみると不安なものだった。
「みっちゃんとの風呂、ゆっくり浸かれました?」
こちらの考えを察したかのように、風呂の中からくぐもったリクの声が聞こえた。
「まあ、おかげさまで」
社交辞令のような返答を返す町屋に対して、リクはほっとしたようだった。
「それならよかったです。スンマセン今日は急に頼んじゃって。俺年の離れた妹がいるんでそんなに気にならなかったですけど、町屋さんどうかなって」
「心配してくれたんですね、ありがとう。」
町屋は一般的な回答しかしていないようだったが、リクはそれで十分満足しているようだった。町屋にはそれが不思議に思えてならない。自分ならいくらでもその回答に対して勘繰ってしまうものだった。
けれど、おそらくそれが「普通」の人なのだろう。
「普通」、自分の齢なら、これくらいの子供がいたっておかしくないと言うのに、どこで「普通」から逸れてしまったのか、町屋はよくわからないていた。結婚して子供が産まれ家庭があり、仕事もそれなりに軌道に乗って、家庭のために働く…そんな「普通」を思い描いてきたはずなのに、そもそもなぜここにいるのか。
「町屋さん生きてます?」
「えっ」
「いや話かけてるのに全然返事しないから」
「ああ、すみません…なんでした?」
「えー、全然聞いてなかったんですね?俺一人で独り言話してたのか、ハズカシー」
「ああいや、本当にすみません」
「…町屋さんってよく謝りますよね」
思わず、町屋は身構えた。
「…すみません」
「あーいや、ほらまた!なんか俺悪い事してるみたいでこっちまで申し訳なくなってきますよ、なんかごめんなさい」
「えっ、いやリクくんは謝らなくても良いんですよ」
「町屋さんだって謝らなくていいのに」
「それは…」
また反射的に謝りたくなってしまう自分の情けなさに町屋は困り果ててしまった。どう返していいのかわからないでいると、みっちゃんがすっと町屋の方へと手を伸ばしてきた。
また町屋は身構える。すると、みっちゃんはごくごくやさしく、町屋の頭を撫で始めた。
普段何も反応を返してこない子どもの不意の優しさに町屋は動揺した。
「町屋さんは何も悪いことしてないじゃないですか」
そこにさらに追い打ちをかけるような言葉に、さらに動揺する。気持ちが揺さぶられてしまう。でもその揺さぶりに負けてしまいたい自分がいる事にもきがついていていた。
「…謝らなくてはならないことをたくさんしてきた気がしていて」
「だからって俺に謝っても」
「もうでも、謝ることができないんです、本当に謝りたい人はここにはいないから」
「今からでも謝りに行ったらいいんじゃないんですか?」
「もう、謝れないんです。もう会えないから。」
言葉に出してしまってから、町家は後悔した。口に出してしまったら、強烈にその事実を自分で認識してしまった。
頭を撫でていたみっちゃんが手を止めて心配そうな表情でこちらをみた。それもそのはずだった。町家はこれ以上喋ったら泣いてしまうと思った。悟られないよう、ぐっと我慢する。
そんな町屋などつゆ知らず、間の抜けた調子でリクは返事をした。
「うーん、じゃあ仕方ないですね。代わりに謝れましょうか?この前ゲロった町屋さんのこと宇佐美さんと介抱しましたし、確かに謝ってもらってもいいかも。」
拍子抜けだった。
こちらのことなど全く気にしていないリクの発言に思わず町家は笑ってしまった。
「本当に申し訳ない」
笑った調子のまま謝ったはずの町家は、そのまま今度は嗚咽した。
その謝罪の一言で何かが堰を切って溢れてきてしまった。堪えきれなかった。
もう二度と届かない謝罪だった。
「ええーーーっ町屋さん何泣いてるんですか!?」
驚いたリクが思わず素っ裸のまま風呂から飛び出してきたので、町家はまた思わず笑ったが、笑えば笑うほど泣けてきてもうどうしようもなかった。
どれだけ甘えてきたのかなんて、その時は分からなかった。いるだけで自分の心を守ってくれる存在がいたなんてこと、いなくなってからしか分からなかったのだ。
「ごめん、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
笑い泣きながら、訳もわからず誰に向かってかわからないで謝罪を繰り返した。
「いや、そんな泣いて謝ってもらわなくていいっす!むしろお礼言われたいっす!!!」
必死に慰めるリクの言葉と、涙を拭ってくれたみっちゃんの小さな手に、遠い過去の気配を感じた。いなくなったくせに、あちこちに気配が散らばっていて、たまらなく切ない気持ちになる。
絞り出すように町屋が情けない声で一言、
「…ありがと」
・・・
風呂から上がってほっかほかのリクが、暖かな飲み物を町屋とみっちゃんへ差し出した。
「落ち着いてきたみたいでよかったです。」
「本当にリクくんには迷惑をかけて…」
「もらうならお礼がいいです」
「ありがとう」
それを聞いてリクは満足気だ。落ち着いてきた町屋の様子をくりくりとした大きな目で見つめるみっちゃんも心なしか満足気だった。
消えていく湯気を眺めながら町家はぼんやりとつぶやく。
「言いたいことも言えないまま会えなくなってしまった人がいるんだ」
「でももう会えないんですよね?」
「そう」
「じゃあせめて会える人には言いたいこと言ってくださいね」
町屋はリクの方を向いた。リクはニコッと笑った後、照れくさそうに目を逸らした。
「町屋さんの思ってること、俺聞きたいんで。多分みんな思ってますよ。」
みっちゃんが、町屋の横で小さく頷いた。
町屋はよくわからないけれど懐かしいような、暖かな気持ちでそのまま長い間座っていた。
宇佐美のいない夜は更けていく。
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