烏邸のお話。その1
2023/01/01 07:00


借家の玄関が、冷えた体をおかえりと招き入れた。
遠くの方で鈴の音がきこえ、その余韻を長く残している。

頬が切れそうなほど鋭い朝の空気の中、やっと顔を出した一筋の朝日が細く、千切れそうな金細工のように玄関に差し込み、それが途切れると同時にドアはかちゃりと閉まった。
早朝からジョギングをしてきた自らの体は熱く、けれど鼻先や頬、耳はキンと冷たい。吐く息は白い。
日課として続ける運動の成果か、若い青年の体は骨は頑としながらも、周囲はしなやかな肉で編まれていた。
黒い癖毛の生え際に汗が滲む。
彼の素朴な育ちと性格をあらわすように、彼の靴や上着の端には彼の名前「リク」が油性ペンで書かれている。
リクは靴を脱ぎ、温まった体も上着から解放する。ほ、と一呼吸。


鈴の音はまだ微かに、その余韻を残していた。
鈴の音がなったと言うことは、この家の住人の1人が目を覚ましていることを示していた。
もう間も無く、2階から玄関先へ降りてくるだろう。

「町屋さん、おはようございます。」

玄関から上がり階段の前をすぎるあたりで丁度、明るい茶髪の男と出くわした。
リクは、運動部で鍛えられたその反射神経を生かし、いち早く挨拶をする。

「おはよう。今日も早いですね。」

社交的にもにも無愛想にも見える不思議な笑顔を伴う彼の振る舞いに、リクは慣れつつあった。
町屋と呼ばれた線の細い男がこの家に来て、もう2ヶ月ほどになる。

自分より後にこの家にやってきたはずのこの男が、この家の勝手をある程度知っているのをみるに、彼も過去にもここを間借りしていたことがあるらしい。
彼の過去について、りくが詳しく聞くこともないものの、この家の主人から、友人だと紹介されたこともまたそれを裏付けていた。
細身の足を震わせて、町家は寒そうに羽織っていた半纏の襟元を整えながら、ふと、廊下の先に目をやった。

「あれ、リビング電気ついてますね。」
「本当ですね。宇佐美さん、早起きだな」

感心したようにリクが言うと、町家は苦笑いをした。

「もしかしたら夜ふかしかもしれませんけどね。」

冬は日が登るのが遅い。にしてもこんな早い時間にこの家の住人がほぼ全て揃うと言うのは珍しいことだった。

「宇佐美さん、おはようございます。」
「おはようございます。」
「…ああ、2人ともおはよう。」

ほぼ脊椎反射にも近い反射神経で挨拶をするリク、対照的に相手の出方を見計らって挨拶をする町屋に加え、宇佐美と呼ばれたスーツ姿が挨拶を返す。
一歩遅れたその声は地を這うように低いトーンだが、そこに悪意はない。単に、急に読んでいた本から意識を逸らしたが故に反応できなかっただけだろう。

「朝ごはん、つくりますね。」

町家が控えめに台所に立つ。彼がきてからこの家の食の質は格段に上がった。また、それまで各々で食事を作り食べていたものが、皆で食卓を囲むようになったもの、彼が自ら全員分の食事を作ることを買ってでたためだ。
それをリクは彼の偉大な功績だと感じていた。「ありがとうございます」と自然に期待のこもる声色で町屋にいうと、町家は愛想なく首を傾けるだけだった。彼なりの照れ隠しであるのだと最近りくは気がつき始めていた。

その辺りは宇佐美と町屋の間ではもう了承済みらしい。彼らの間にはリクが入ることのできない何かがあるようにリクは感じていた。

「そうか、それなら、もうしばらくしたら起こさないとな。」
「町屋さんのご飯手が混んでるから、そんなに急がなくてもいいんじゃないですか。」

この場にいない最後の住人に関して宇佐美とリクが話したところで、ぐすんと鼻を啜るような音が聞こえた。

リビングの戸がきいとひらいて、その隙間からぐすんと涙ぐむ当人が現れる。

その涙を見てまたもや反射的に抱き上げるリク。あっと一歩反応が遅れてしまい、戸惑った様子にも見える町屋。

「どうしたの、悲しいことでもあった?」
リクが幼子をあやすように優しく声をかけるが、抱き上げられた当人は宇佐美の方に両手を伸ばした。相変わらず、ぐすんぐすんとやっている。

仕方なくリクは、宇佐美の腕の中へその子を滑らせる。宇佐美は、両の手を伸ばして求められているにもかかわらず、自ら手を伸ばす気配はない。

その一見冷たく見える態度にリクはもう慣れていた。ただ、町屋は慣れていないらしい。町屋からの訝しむような妙な視線を感じる。

視線の先にいるのは、リクの手の中の幼子だ。栗毛色の長い髪。怖い夢でも見たのか、少し茶色かかった目は泣き腫らしている。齢は45ほどだろうか。
宇佐美を求めて手を伸ばすが、当の宇佐美は名を呼ぶことも手を伸ばすこともなく、リクが近くに来てやっとその子を腕の中に収めた。

「みっちゃん、ほら、大丈夫だよ。」 

リクにみっちゃんと呼ばれた幼な子は、宇佐美の腕の中ですこし落ち着いてきたように思われた。優しい手を差し伸べられたわけでもないが、みっちゃんの手はしかと宇佐美のスーツを掴んでいる。

「…朝ご飯、ホットケーキにしようか。」

できるだけ優しい声色で、町屋は声をかけた。それはおそらくみっちゃんに向けられたものだったが、みっちゃんの反応はない。

気を遣ったリクが、いいですねと返事をする。会話のキャッチボールとは到底言えない。ドッチボールのように、会話で拾われずこぼれ落ちた球をきちんと拾う、そんな優しさと持った青年がリクだった。
宇佐美は、ホットケーキ、好きだったな、と腕の中の幼子に話しかけた。
幼な子は声を発することなく、やっと小さくうなづいた。


健全な肉体と精神を持った青年リク。
線も影も頼りない男、町屋。
スーツの姿の、宇佐美。
そして幼子のみっちゃん。

これは、烏邸と呼ばれる家に住む、4人のお話。







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