07







 その日はそのままDIOが泊まっているというホテルに一緒に泊めてもらった。ホイホイと私の分の部屋を取ってしまったDIOの財布事情が気になったが(そういえば原作でラバーソウルが承太郎達を殺せばすごい金額の依頼料を貰えるなんて話していた気がする)逃げて路頭に迷うくらいなら一先ず殺さないという彼の言葉に甘んじて柔らかなベッドに身を預けたいと考えてしまう辺り、私の脳は疲れているのだろう。
 外観が高級そうなホテルだったのでまさかと思ったが、結構な値段のするホテルらしい。鍵を受け取って部屋に入ると、家族旅行でも泊まった事が無いような広さに、部屋を間違えたのではと不安になってしまう程だった。倒れ込むように沈んだベッドも、私が普段アパートで寝ている安物のベッドとは明らかに触った感触や寝心地が違う。
 明日の夜、DIOはエジプトの館へ戻るらしい。私も連れて行かれるのだろう。彼の部下達や物語の佳境の舞台となる館に興味が無いというわけではない。むしろ興味が有るか無いかと訊かれたら有ると断言出来る。
 だが、部下も誰1人私を知らないという事を知ったら、DIOは私をどうするのだろう。記憶が無いという嘘を一旦は信じてくれたとは思うが、承太郎との戦いで倒れた相手の心音をわざわざ確かめる程疑り深いあの男の事だから、ジョナサンのスタンドを使って私の知っている事を全て引き出そうとしてもおかしくない。もしそうなってしまったとき、抵抗する術を持たない私は一体どうしたら良いのだろう。対策を考えようとするが、ぼんやりと霧が掛かった様に自分の考えが明瞭にならない。ボーッとする。ベッドのさらさらとした感触が心地良くて、瞼の重さに抗えない。
 今日は酷く疲れた。





「起きろ」

 客室用の電話機が鳴ったので、怠い身体を何とか動かしながら受話器を取ると、低い声が脳に響いた。何の用だと思っていると、これからエジプトに帰るから支度をしておけと一言言い残し電話は切れた。どうせこの身1つしか無いのだから準備も糞も無いのに。寝心地の良かったベッドから身体を引きずり出し、浴室の鏡を見ながら軽く髪の毛を整えた。
 今日は一日中軟禁状態だった。軟禁、と言ってもお金も無く言葉も分からないのに外に出る程の勇気は無かったので、DIOに釘を刺されようが刺されまいが引き蘢っていただろう。ルームサービスも自由にして良いという破格の待遇を貰ったは良いが、英語が話せない私には宝の持ち腐れになってしまった。たまたまテレビを点けたときに流れていた日本の映画(モノクロで時代劇ものだった。たぶん黒澤映画だと思う)を見た後は寝るかトイレに行くかという、今までと比べても堕落した1日を過ごしていた。
 ベッドに腰掛けてDIOを待つ。あれからどうやって生き残ろうかと考えを巡らせたが、結局良い考えは浮かんでこなかった。そもそも今後どうなるかという事すら明確な予想が立てられないのだ。最早なるようになるしか無いのかも知れないという投げやりな気持ちが今の私の大半を占めていた。ものを考えるのは得意ではない。
 ノックの音が鳴った。戸を開ければ逞しい胸板が見えた。DIOだ。

「来い」

 1日という猶予は、相変わらずでかいなあ、なんて考える余裕を私の中に作ってくれた。彼の肩にも届かない身長の私は、合わせる気の無い大きな歩幅を歩く背中を小走りで追いかける。向かい合うと恐ろしい威圧感しか感じないが、背中を向けられている分にはそれを感じなくなっていた。たかが1日宿を提供して貰っただけで簡単に気を緩めてしまっているという事は否めないが、必要以上に怯えているよりはよっぽど良い。
 チェックアウトを済まし外に出ると、既にタクシーが用意されていた。黒くて一般的な車より一回り大きいそれは、知識の無い私でも高級車なのかもと思わせる雰囲気を持っていた。運転手の男性が恭しくDIOに一礼し、後部座席のドアを開ける。入れ、と言われた私は半ば押し込まれるようにその座席に腰掛けた。身体の大きいDIOと座る後部座席は、広い筈なのに窮屈に感じた。
 空気が澄んでいるのか、夜空がよく見える。車が出発してから隣の吸血鬼との会話は無い。外の冷たい空気に反して、車内の空気は暖房のお陰で心地の良い暖かさを保たせている。窓を指で撫でれば、水滴がつつつと一筋流れた。

「……あの」

 私はDIOに恐る恐る話しかけた。どうしても気になることがあったからだ。DIOは何だ、と日本語で返事をした。目を合わせる事は怖かったので、彼の首元を見ながら口を開いた。

「私、パスポートとか、無いんですけど」
「わたしもそんなものは無い」
「そ、そういえばそうですね……」

 そういえば、目の前の吸血鬼は100年前の人間なのだった。戸籍があったとしてもとっくに死亡したものとして扱われているだろう。そんな奴が正式にパスポートなんて、偽造でもしない限り作る事は出来ない筈だ。では、どうやってアメリカまで来たのだろう。

「今、どこに向かってるんですか?」
「空港だ」
「で、でもパスポートも無いのに」
「貴様は黙ってついて来れば良い」

 あまりにも自然に独裁的な事を言われたものだから、私は閉口するしか無かった。男に限らず、こういう奴、すごく苦手だ。
 パスポートの無い人間がどうやって国外へ出るというのだろう。棺桶に入って乗客の荷物に紛れる、なんていう冗談でも笑えないような方法で無いことを祈るばかりである。パスポートの無い現実を考えると、密航しか方法は無い。この吸血鬼はともかく、私というひ弱な人間が生きてエジプトの地を踏める密航方法なんてあるのだろうか。飛行機の格納庫に侵入して凍死なんて事になるくらいなら、エジプトに行かずにこの国で路頭に迷った方がよっぽどマシだ。
 その後、これといた会話は無かった。強いて言えば、気を利かせた運転手が英語で何かを話しかける度にDIOが短く返答をしたくらいだ。内容は勿論私には分からない。
 時計は21時を回っている。小さくお腹が鳴った。そういえば昨日から何も食べていない。

「降りろ」

 車が停まり、私は慌ててDIOの後ろを付いていく。本当に、どうするつもりなのだろう。
 空港のロビーに設置されたベンチに座らせられ、ここで待っていろと言い残すと、DIOは私に荷物を預けてどこかへ行ってしまった。不用心な事をするものだと思う反面、私に逃げる勇気が無いのだと舐められているようにも思えた。その通りだからどう思うわけでもないが。
 夜だというのに空港の中はガヤガヤと人であふれている。こんな時間でも沢山人がいるものなのかと好奇の目で建物内を見渡す。時々日本人らしい人も見かけたが、大半は白人だった。
 そういえば空港という場所に来るのは生まれて初めてだ。家族との旅行も車での国内旅行ばかりだった。次は飛行機で沖縄に行こう、なんて話をしていたが、まさかそれよりも早く飛行機に乗る事になるなんて誰が思うのだろう。乗ると言っても、荷物として格納庫に、という可能性の方が大きいのだが。
 ふと、脳裏を過ってしまった。両親とは、もう会えないのだろうか。あまり頻繁に下宿先へ連絡してくる方では無いから、まだ私が居なくなった事に気付いていないのかも知れない。大学だって、どの講義も出席率が良いわけでは無いから、すぐに私が居なくなった事に気付いてくれる人は居ないだろう。頻繁に連絡を取り合っている友人が居るわけでもない。そういえば、大学の先生から本を借りたままだ。レンタルしたDVDは返却期限を過ぎている。来月には好きな映画監督の新作映画が公開される筈だった。
 気持ちが落ち着いた事と空腹が相俟って、今になってじわじわと寂しさが込み上げてきた。実家が恋しい。母の作った夕食が食べたい。家に帰りたい。でも、どうやってここに来てしまったのかが分からないから、どうやって帰れば良いのかなんて分からない。そもそも帰る方法があるのかすら分からない。
 ホームシックとこの先への漠然とした不安が、ぶわっと私の目の前を覆い尽くしてくる。行き交う人々の声が煩わしい。憂いても仕方の無い事だと脳内に反芻させるが、そんな取って付けたような慰めが、心の奥底から押し上げてくる不安の泥流に勝る事なんて出来るわけが無い。じわりと涙袋から押し出される水滴が目の前の景色を奪っていく。

「何をしている」

 頭上から突然声が降ってきた。この世界で私に声をかける人間は、いや、そいつは人間を辞めているが、ともかく、私に話しかける奴は今のところ1人しかいない。両腕で慌てて両目を拭った。DIOを見上げようと顔を上げると、彼の後ろに何人か空港の職員と思しき人達が並んでいる。
 DIOは私から荷物を受け取ると、何も言わずに空港の職員の後ろを付いて歩き出した。慌てて後を追いかける。

「あの、どこに」
「決まっているだろう。これから搭乗だ」
「え、で、でも、私、パスポート」
「黙ってついて来いと言った筈だ」

 訳が分からないまま、歩幅の大きなDIOを追いかける。まさか職員を買収したのでは、という突拍子の無い考えすら浮かんでくる。パスポートが無いなら職員を買収してしまえば良いなんて、そんな短絡的な無茶を通す事が可能なのだろうか。詳しくは知らないが、国外に出るには出国審査や色んな検査などが必要なのでは。質問を許されていない私は、浮かんでくる疑問を解消する事が出来ない。
 関係者以外立ち入り禁止と思われる扉をいくつもくぐる。明らかに客として通る筈の無い通路を歩きながら、もうこれ以上考えたって無駄なのだろうと諦めていた。時間すら止める力を手に入れるこの男の事だから、パスポート無しで出国する事なんて雑作も無いのだろう。私は何も悪くないのだと、この後降り掛かるかも知れない責任を全てDIOに押し付ける事で気持ちを落ち着ける事にした。







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2014.9.19