08







 パスポートどころか戸籍や国籍すら持たない、書類的に存在の証明が難民状態な私が何故こうもあっさり2m弱の吸血鬼と一緒に飛行機のファーストクラスに乗る事が出来てしまったのか。その疑問は搭乗するときに付き添った職員さんの額を見て解決した。
 離陸前、恭しくDIOに一礼する職員さん達の顔を見たとき気付いた。彼らの額には一様にベージュの蜘蛛のような塊が引っ付いていた。初めて目にする筈のそれを、私は知っていた。
 肉の芽。誰が名付けたのかは知らないが(DIOが名付けたとしたらどうして原作でジョセフが知っていたのだろう)確かそんな名前だった。漫画でも充分気持ち悪く感じた一品は、実際に目にすると時々痙攣するような動きを見せて更に気持ち悪さが増しているように思う。こんな恐ろしいものが額に埋められて脳にまで突き刺さるだなんて想像したくない。埋められたくないと思うと同時に、私の立ち位置は埋められてもおかしくない位置だと気付いて胃液を吐きたくなった。
 学力も年収も一般的な家庭で育った人間の人生初の飛行機がファーストクラスになるなんて、一体誰が予想出来ただろう。映画で見た飛行機の中は新幹線よりも窮屈そうだったように記憶していたが、今私が座っている席は足を伸ばせるだけのゆとりのある空間や、柔らかいクッション等、随分と至れり尽くせりな仕様になっている。残念だと思ったのは、DIOがそうさせたのか、窓は全て閉め切られていた。きっと、空から眺める地球は美しかっただろう。
 その後、機内食で空腹を満たした私は、隣に座っているDIOの威圧感から逃れる為に目を閉じた。散々寝てしまったので眠気なんて無いのだが、視覚だけでも恐ろしい吸血鬼から逃れたかった。
 目を閉じる前に隣を見たとき、DIOは本を読んでいた。中身は英語で、何が書かれていたのかはわからない。


 久々に実家に帰った。小さな無人駅から歩いて15分程。家の周りは相変わらず田んぼだらけで、隣の家とは100mは距離が空いている。夕方になれば夏でも涼しさを感じるし、蛙の鳴き声は夜通し響く。杉の林からすごい量の花粉が散るから、毎年母は春になるとマスクを手放せない。そんな、絵に描いたような田舎で私は育った。
 家に着いた時にはもう夜だった。ぽつんと佇む街灯に群がっている大量の虫を眺めながら、都会の蒸し暑い夜とは大違いだと思った。着替えやパソコン等を詰め込んだキャリーケースを自室だった部屋に置きながら携帯を開くと、下宿先のカラオケ店のメルマガが届いていた。母がお疲れと言いながらアイスを出してくれた。
 父親がラーメンでも食べに行くかと言いだした。普段外食を好まない父は、近所の大して美味しくもないラーメン屋の味噌チャーシューが好きだった。どっちでも良いと答える私と、ダイエット中なのにと渋る母親を引き摺りながら、夕食時なのに大して混んでいないそのラーメン屋の暖簾を潜った。父と店主は私が幼い頃から既に顔馴染みになっていた。
 醤油ラーメンの並盛り、味噌チャーシューの大盛り、もやしラーメンのハーフサイズ。それぞれを割り箸で啜りながら、お喋り好きな母が学校の様子を尋ねてくる。授業はどうだ、友達は出来たのか、彼氏は、サークルは、バイトは、その他諸々。雑な相槌と短い返答で応対しながら、私はラーメンを少しずつ啜り続ける。口数の少ない父が、まだこれからじゃないかと息巻く母を窘めた。一番量の多い父の味噌チャーシューが、一番早く無くなっていた。


「起きろ。着陸だ」

 肩を揺すられて目を覚ました。一瞬、着陸とは何の事だろうと思い、すぐにここが飛行機の中だと思い出した。気圧の影響か、椅子の寝心地のお陰か、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
 倒していた座席の背もたれを起こし、両目をこすった。周りの人達も降りる為に手荷物を持ち直したり身の回りを整理したりと準備をしていた。女の人が英語で何かをアナウンスした数分後、飛行機はエジプトの地を踏んだ。無言で座席を立つDIOの後ろを付いて行く。
 随分心地の良い夢を見ていた気がするが思い出せない。





 再びどこかへ行ってしまったDIOを待っていると、案の定と言うべきか、肉の芽を額に埋め込まれた職員さん達を連れてDIOが戻ってきた。恭しい態度でDIOを案内する彼らは何だか気味が悪くてたまらない。花京院やポルナレフは、もうこの芽を埋められているのだろうか。
 アメリカの空港と同様に関係者以外は通れなさそうな扉をいくつも通った。入国審査も何も無く、気付けば空港の外へ出ていた。
 こうして私達は肉の芽によって、堂々と、易々と、不法入国を果たしてしまったのである。いつか警察に捕まってしまわぬようにと切に願った。

「来い」

 DIOはそう一言言い捨てると、私の方を見る事無く歩き出した。相変わらず私との歩幅を考慮しない歩き方に私は小走りを強いられる。館までそう遠くないのか、DIOはそのまま街中へ向かった。
 今が何時なのか分からない。ただ、大きな通りはまだ沢山の人達であふれ返っているので、恐らくそう遅い時間ではないはず。初めて踏みしめるエジプトの地に思わず視線が様々な方向へ移れば、数歩歩く度にすれ違う人と肩を擦ってしまう。
 人混みを避ける事に苦心している内に、DIOはどんどん先へ進んでいた。歩幅と土地の慣れの差が相俟って、その距離は見る見る内に広がっていく。走ろうにも人を避ける事に手子摺ってしまいそれどころでは無い。いくら相手が長身の吸血鬼でも、見失ってしまうかもという不安が浮かんだ。

「でぃ、DIO、さん、待って」

 慌てて声をあげるが、それは通行人の声にかき消される。今、もし、彼を見失ってしまったら、右も左も分からないエジプトで一体どうすれば良いのだろう。脳内を様々な不安と最悪の想定が駆け巡っていく。ゲロ以下の臭いをさせている悪党であっても、パスポートもお金も無い私が縋る事が出来る人は彼しかいないのだ。

「何をしている」

 突然目の前の景色が黄色くなった。必死に人を掻き分けていた勢いを止める事が出来ず、そのまま黄色にぶつかった。ひゃあなんていう情けない声が出てしまった。
 視線を上げると、見失ったと思ったDIOがいた。見つかった安堵とぶつかってしまった罪悪感が綯い交ぜになり、ほうと息が溢れた。

「す、すいません」

 DIOの視線を避けるように顔を下に向けた。本人にそのつもりがあるのかは私には推し量る事は出来ないが、威圧的で恐ろしかった。これならあのまま人混みに流されて完全に見失ってしまった方が良かったとすら思った。恐怖を誤摩化したくてぐにりと下唇を噛んだ。
 ふと、DIOの踵が先程までの進行方向へ振り返ったので、私も再びその後ろを、今度は見失ってしまわないように付いて行こうと一歩を踏み出した。そのとき、左肩に強い力を感じた。
 力の先を確認すると、それはDIOの手だった。ぐいっと横に引き寄せられ、私の身体はDIOにくっつくように左脇に並べられた。アメリカでカフェに連れて行かれたときと同じ行為に、そのときと同様に、私の身体は電池の切れた玩具のようにピシリと固まった。慌てて動かした足は海の中を揺蕩うように危なっかしくふらついたが、DIOの腕が私の転倒を未然に防いでくれた。

「え、あの」
「またはぐれられたら探すのが面倒だ」
「……すいません」
「日本人がすぐ謝るというのは本当らしいな」

 そう言うDIOの声は笑っているようだった。馬鹿にされているようにも感じた。だが何故か、私は憤る気にはなれなかった。そんな事よりも、左肩に置かれた手が、私の身体を難無く支えきったその腕が、もっと複雑で強い感情をじんわりと私の中に作り出していた。絨毯に溢れたコーヒーのように、じわじわと私の心臓に染み渡らせていくような感覚だった。
 咄嗟に、胸中に浮かんだこの感情の正体を探っていきたくないと思った。今の私の状況にそぐわない気持ちが混ざっている事を、無意識に自覚したくないと思ったのかもしれない。
 だって、もし、これを認めてしまったら、私はただの能天気で馬鹿な女に成り下がってしまうじゃあないか。
 だから、自分の足が先程よりもずっと楽に動いている理由は考えたくなかった。どうしてそうする事が出来ているのかなんて理解したくなかった。物語の中では絶対の悪として描かれていた男が、私なんかの歩幅に合わせて歩いているなんて、そんな事、信じたくなかった。
 空を見上げた。そういう季節なのか、ここの空気が澄んでいるのか、それともたまたまそういう天気だったのか。ガトーショコラに粉砂糖を振りまいたように、真っ黒な夜空に数えきれない星達が煌めいている。空を眺めている間、先程のようにすれ違う人達と肩を擦ってしまう事は無かった。
 きっと、この左手の力をもう少しだけ強めれば、私の喉元なんて簡単に引き裂く事が出来るのだろう。指の力をもう少しだけ強めれば、頸動脈からいとも簡単に生き血を吸い取る事が出来るのだろう。私はそうやって、ひたすら隣の男の恐ろしい部分だけを脳内に反芻させた。身体の緊張が、恐怖からくるものだと自分の脳へと言い聞かせた。
 肩に触れた手からは、いつまで経っても体温らしい温かさは感じられなかったはずなのに、先程よりも少しだけ、確実に、私の身体は体温を上げていた。







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2014.10.21
MOJOはイケメンに肩を抱かれて舞い上がっているだけです。