05







 どっどっどっ。心臓がこんなに動くことが出来るのかと驚いてしまう程喚いている。この後良からぬことが起きるのだという警鐘のようにも感じる。それを防ぐ術なんて持っているわけが無い。
 言葉の意味そのまま、喉から絞り出すように答えた嘘も、表情で悟られないように髪で隠した顔も、全てこの疑り深い男には筒抜けになっているように思えた。この男の、俯いていても分かる鋭い敵意と猜疑の視線は、私の首にはっきりと牙を立てていた。眉間を押し上げないように、唇を震わせないように、挙動不審にならないように、気付かれないように。そんな努力も全てこの男の前では意味の無いものに思えた。DIOが纏う空気にはそれだけの力があった。
 空を見上げれば随分と綺麗に星が瞬いている。その能天気にも思える小さな光の粒が無性に憎らしい。
 外は厚手のスウェットのみでは些か厳しさを感じる気温だった。雪が降っていない事が不幸中の幸いだった。前を歩く男の格好がどう見てもこんな寒い空気の中でする格好ではないのが、私の体感温度を更に下げているような気がしてくる。いくら気にしないように考えても、左肩にある星形に目を奪われた。すれ違う人達が一様に外国人である事に、そういえばここは日本ではないのだと気付く。すれ違う度に向けられる視線が痛い。
 不意に足に痛みが走った。思わず呻き声を漏らして立ち止まる。反射的に浮かせた足の下を見ると、ガラスの破片が落ちていた。辺りを見ると、ビール瓶らしき残骸がこの周辺に散らばっている。こんなもん道端に捨てるなよ。
 私の異変に気付いたDIOが振り向いた。貴様靴を履いていないのか。呆れたような、馬鹿にしたような声色で言われた。こっちはついさっきまでアパートで寝てたんだから仕方ないだろ、なんて言えるわけがないので沈黙を返答とした。足の裏からは血が滲んでいた。
 どうせ傍若無人なこの男の事だから、私の事情など意に介さないのだろう。そう思い、じくじくと痛む足で再び歩こうとした。ところが、私の予想に反してDIOは私が歩く事を制止した。少し待て、と意表を突くような一言を私に言い残すと、たまたま近くを歩いていた私と同じくらいの身長の女性からスニーカーを強奪した。嘘だろ承太郎。この場合はDIOだが。
 DIOは強奪したスニーカーを私に押し付けた。いらないのか。呆気にとられている私はそう言われた事に気付き、慌ててそのスニーカーを履いた。私の足には少し大きいサイズと素足のまま履く違和感とで歩きにくい。ガラスの刺さった場所はまだ痛む。
 この男はどうして私を連れ出したのだろう。先程からそればかりが頭に浮かんでくるが、考えても考えても、私を殺すためだという答えにしか行き着かない。あそこではプッチの目があるから、無闇に私に手を下すことが出来なかっただけだ。きっとそうだ。
 考えろ、考えろ。ここで走って逃げるべきか、このまま大人しく付いて行くべきか。どちらを選んでも、私が死ぬというシンプルな答えだけが佇んでいるようにしか思えなかった。喉の奥に何かが詰まっているような気分になる。
 大した人生を歩んできたわけでも、この先の未来に光を見出しているわけでもない。期待された才能も無ければ、目標も無い。私一人が死んだところでこの世界だけではなく、きっと暮らしていた世界でも何一つ影響するものなど無いだろう。私はそんな人間だ。60億の人口に目立たず紛れている内の1人だ。
 でも、そんな私でも、ここに居る理由も分からず、何をするわけでもなく、ただ口を滑らせただけという、そんな無様な理由で死んでしまうのは嫌だ。死ぬのは怖い。死んだら全てお終いだ。

「……私を、殺しますか?」
「妙な事を訊くのだな」

 どっどっどっ。
 2m近い大男との沈黙に耐えかねて口を開けば、小馬鹿にされているような口調で返答が来た。お前にとっては妙でも何でも無い癖に。そんな悪態も、心の中なら分からないだろう。

「わたしがそんな野蛮な人間に見えるか?」

 さっきスニーカーを強奪したくせに何言ってんだ、なんて言えるわけもなく、すいません、とぎこちない謝罪をした。
 ふと、物語の中で、彼の声はこちらを酷く安心させると表現されていた事を思い出した。その柔和な笑みと穏やかな声は、例えこの男が化物であると知っていても騙されてしまいそうだと思った。
 再び沈黙が訪れた。この男に連れ出されてからどれ程の時間が経ったのだろう。時計も携帯も(そういえばこの時代に携帯電話という存在はあったのだろうか)手元に無いのでわからない。何だか相当な時間を歩いたように感じる。本当は、実際は歩き始めてそんなに時間も経っていないという事は理解している。
 そもそもこの男はどこへ向かっているのだろうか。周りを見ると、まだすれ違う人が居るから、人の目が届かない所を探しているのだろうか。見上げないと男の顔を見る事は出来ないので、その視線がどこを向いているのかはわからない。
 今すぐ逃げた方が良いのかも知れない。少しずつ足の動きを緩めて、少しずつ距離を取って、すれ違う人達に紛れるように。でも、逃げるとしても何処へ? 逃げ切れたとしても、その後はどうする? 追いつかれたら? 今のDIOがザ・ワールドの力を自覚していたのかなんて分からないし、例えスタンドの力が無くたって、私が逃げた事に気付けばあっという間に追いついてしまうだろう。
 足元を眺めながらぐるぐると思い倦ねていると、不意に肩を抱かれるように方向転換を強いられた。突然の事に少し足をふらつかせながら、左肩へ回された大きな腕に色んな感情を含めた緊張を感じながら、顔を上げた。視線の先にはカフェがあった。

「わたしとお茶をするのは嫌か?」
「あ、……いえ、そういう、わけじゃ」

 どっどっどっ。
 全く予想すらしていなかった行き先に目を丸くしていたら、DIOはくすくすと先程と同様の口調で尋ねてくる。殺す気は無いのだろうか? それとも油断をさせる為? 男の行動の意図が読めない。
 そして、こんな事を考えている場合ではないのだが、私がカフェへ入る事を躊躇ってしまう理由がもう一つ。

「あの、私、お金持ってなくて」
「そんな事を心配しているのか? 気にする必要は無い」

 DIOはそう言うと、再び私の肩を抱いてカフェの扉を開けた。抵抗をする事も出来ず、DIOに連れ添うように大人しく私もその扉をくぐった。カウンターで注文を取り、さっさと会計を済ませてしまったDIOは(ブランド物に疎いのでわからないが、高級そうな黒い長財布だった)注文したコーヒーとミルクティーを受け取ると空いている席へ向かった。慌てて私もその後ろを付いて行った。
 窓際の奥の席へ腰掛けるまで周りの女の人が何人かこちらへチラチラと向ける視線が痛かった。その視線がこの男の格好に対するものなのか顔に対するものなのかは、私が気にする必要なんて無い筈だ。
 確かに、この吸血鬼ほど一緒に連れ歩いて女としての優越感を感じる事の出来る男はそうそう居ないだろう。黙っていれば、の話だけれども。
 受け取ったミルクティーを一口含む。寒さで冷えた身体に、ミルクティーの温かさがじんわりと広がり、甘さが緊張を解してくれるように感じた。

「さて……話す気にはなったか?」

 私がマグカップをテーブルに置くと同時にDIOが口を開いた。何を、と口から出かけた声は、喉に詰まって出てこなかった。そんなの分かりきっているじゃないか。

「……さっきは手を弾いてしまってすいません。くすぐったがりなので、あまり人に触られたくないんです」

 分かりきっているが、それでも意地のようなものが事実を喉の奥へと押し込んだ。正直に話したところで、そっちの方が嘘だと思われるのが落ちに決まっている。吸血鬼なんかよりよっぽど気違いだ。
 視線が右下へ逸れる。無性に首筋がむずむずしてくるような気がして、自然と左手が首元を触れた。
 目の前の男はまだコーヒーに手を付けない。

「下手糞な嘘は止めろ。誰から聞いた?」
「……何、を、ですか」
「わたしの事を、だ」

 ミルクティーで落ち着いた心臓と身体が再び戦慄き始める。慣れない嘘は吐くものではないと、数十分前の自分を恨んだ。平和な人生を歩んできた身にとって、人を騙す事も人から疑われる事もとても生きた心地のするものでは無い。相手が相手な所為もあるかも知れないが。
 それでも、もし引き下がったらどうなってしまうかなんて想像に難くない。いや、突然カフェに連れていくなんていう予想外な行動を取るくらいだから、ひょっとしたら私が想像した展開にはならない可能性だってあるのかも知れないけど。期待はしない方が良い。
 まるで博打をしている気分だ。初めての博打の賭物に自分の命なんて、冗談だって笑いたくない。だが既に賽は投げてしまった。やり直しは出来ない。それがどんな結果に転がろうと、私に出来る事は腹を括る事だけなのだ。

「……まあいい、調べる方法はあるしな」

 目の前の男はそう言いながらテーブルに肘をつけている右腕を眺めた。肘から手の甲までの滑るような、まるでそこに腕以外の何かが存在しているような視線に、彼の持っているもう一つのスタンドの存在を思い出した。本来、首から下の持ち主だった茨のスタンドの能力は、今の私にとって実に都合の悪い能力だったという事も。

「や、やめて、やめてください」

 思わず身を乗り出すように懇願をすると、彼は僅かに瞳に訝しみを浮かべた。しまった、と気付いたときには遅かった。こんな反応してしまっては、彼の言葉の真意を知っていると告白しているようなものだ。
 どっどっどっ。
 失態に混乱する頭を必死に落ち着かせる。目の前の男がどんな顔をしているかとか、今私がどんな表情をしているのかとか、そんな事を考えている余裕は無い。このままでは私の博打は大敗北だ。もし私の後ろに死神が佇んでいたら、今正に私の首を切り落とさんと振りかぶっている状態に違いない。
 考えろ、考えろ。納得とか、説得とかはしなくて良い。とにかく、今、この場で目の前の男を言いくるめる事が出来れば良い。

「……き、記憶、が、無いんです」

 咄嗟に浮かんだ嘘だった。先程までの真実を少し含めた嘘ではない、全くの、純粋な嘘だった。子供騙しのような、浅はかな、苦し紛れの虚言だった。

「ごっ、ごめんなさい。さっきまでのは嘘です。あなたの事、し、知ってます。ど、どうしてか、わかりませんが、知ってます。知ってる事、ぜんぶ、言います。だから、ど、どうか」

 どっどっどっ。
 心音が秒針のように、一瞬の沈黙を刻む。耳の良い彼にこの音を聞かれていたらどうしよう。
 どっどっどっ。
 視界がじわりと霞む。唇が明らかに震えている。
 どっどっどっ。
 どっどっどっ。

「た、たすけて、ください」







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2014.9.12