03







 今、私の目の前には、有り得ない光景が広がっている。もしも、仮に、万が一、例え、よしんば、ありとあらゆる仮定の副詞を置いて話したとしても、本来絶対に現実に起こる筈の無い光景が、出来事が、目の前に有る。
 くらくらと眩暈が起きて思わずその場に蹲った。有り得ない。有り得ない。その言葉だけが脳内で忙しく木霊する。これはきっと悪い夢だ。そうでなければ、目の前に居る男達はただの他人の空似だ。
 高校の中頃からあまり漫画を読まなくなったのだが、それでも好きで何度か読んでいた漫画が1つあった。他の娯楽と同様に、単純に一読者として楽しんでいたファンタジーの世界だった。
 その世界が、本来実在なんてし得ない筈の世界が、今目の前に、現実として、ある。
 こんな世界が実際にあればなんて夢想するような性格ではないし、第一私は非科学的なものは信じない質だ。だから、目の前のこれは、きっと違う。夢だ、そうに違いない。
 作品名を思い出したくなかった。認めてしまうことになるような気がした。血の気が引いてぼんやりと霧がかかった頭を抑えるように、両手で額と目を覆う。きっと、次にこの手を開いたとき、夢から覚めて、何事も無かったかのように目の前がアパートの部屋に戻っている。

「大丈夫かい?」

 頭上から声が降ってきた。それは最後に抱いた細やかな希望が叶わないと、現実が私に突きつけた答えでもあった。ゆっくり、恐々と、声が聞こえる方へ顔を上げた。暗がりの中で、綺麗な金色が視界に入った。

「おや、日本語では駄目だったかな。由此可以看出? あー、Монгол?」
「……あ、に、日本語で、お願い、します」

 一瞬思考が止まった。その直後、日本語で話しかけられていた事に気が付いた。
 私の言葉を聞いた目の前の星痣の男性は、その端正な顔を穏やかに緩ませると、日本語で言葉を続けた。

「先程あの神父見習いから、君が英語を話せなくてどうすれば良いのか困っていると聞いてね。良かったら力になりたい」

 とても優しい声音だった。不測の事態の連続で狼狽し混乱しきっていた身に、母国語で話しかけられたという状況は砂漠で与えられた水にも等しく、私の擦り減った精神を潤した。
 そこではっと気付いた。この男がもしも(どうしても目の前の現実を受け入れたくないが為の『もしも』だが)本当にあの作品の登場人物なのだとしたら、決して信用してはいけない。女を食料にし、人を人とも思わない化物だ。私一人の命なんて簡単に潰すことが出来る存在だ。努々忘れてはいけないと、脳内で自己暗示を繰り返した。この安堵を孕む声に身を任せてしまったら、数分後の命の保証すら無い。
 私を守ることが出来る人間は私しかいない。

「あ、りがとう、ございます」

 目の前の存在を意識した途端、目を合わせることが怖くなる。俯きながらお礼を言った。

「立てるかい?」
「……すいません」

 差し出された手を恐る恐る握り返す。酷く冷たい手だった。凡そ、人が持つ体温だとは思えなかった。その氷のような手に、果たして血は通っているのだろうか。

「……手、冷たいんですね」
「ん? ……ああ、冷え症でね」
「……それなら、その格好、寒いでしょう」

 迂闊な一言だったと、口にして後悔した。私の言葉に目の前の男は何も言わない。俯いている為、男がどんな表情をしているのかも分からない。男の顔を見上げる度胸なんて無かった。
 聡明で疑り深いこの男の事だから、変に勘ぐってくるかも知れない。馬鹿な女がたまたま気付いたどうって事無い素朴な疑問として片付けてくれない、かも、知れない。
 たった数秒の沈黙が、死神が鎌をもたげるように、じっとりと私の首筋や心臓を撫でていく。静かな建物内に私の心音が響いていないかと不安になる。動悸を悟られないように、私の呼吸がどんどん浅くなっていく。苦しい。
 最初に口を開いたのは男の方だった。

「そういえば、君の名前は?」
「……苗字、名前、です。……あの、あなたは」
「わたしは……そうだな、DIO、とでも呼んでくれ」

 どくん。心臓から一気に血液が全身に送り出される。それに反して顔からは体温が逃げていくような、色を失うような感覚に襲われた。ふらりと立ち眩みを起こしそうになるが、なんとか踏みとどまった。
 うそ。小さく、その言葉だけが音にならずに口から漏れた。まだ心のどこかで違うのだと抱いていた希望を全てぐちゃぐちゃに踏みつぶされたされた気分だ。ガツンと頭に殴られたような衝撃が走る。どうしてこんな事になってしまったのだろうと、矛先の無い不安が脳内を掻き乱す。
 じんわりと両目に涙が浮かんできた。泣いたってアパートに帰れるわけでもないと分かっているが、これからの自分がどうなってしまうのか案じずにはいられない。今の私には住む場所はおろか、着ている衣服以外に何も無いのだ。恐らく戸籍も無いのだろう。そもそもこの年代に私は生まれてすらいない。知り合いも、頼れる人もいない。正真正銘、孤独の身だ。

「さて、あの神父見習いから色々訊くように頼まれたが、わたしが貴様に尋ねたいのはたった1つだ」

 プッチの方へ向かうと思っていたDIOが突然こちらに向き直った。明らかに威圧的な、私に対して敵意を向けていると分かる声だった。
 そもそも、人を人とも思わないこの吸血鬼は、一体どうして私を助けようなどと思うのだろう。彼にとって女性は食料としか見ていない筈だ。スタンド使いであれば話は違ってくるのだろうが、そんな都合の良い話なんてある訳が無い。
 プッチは(そういえばてっきり黒人と思っていたが、確か彼は黒人ではなかった気がする)こちらの様子を訝しむように伺っているが、日本語での会話を彼が理解出来る筈が無い。DIOが明らかに話し方を変えたというのに、それに対しての反応を示していなかった。
 距離を取っていたDIOが、再び私の方へ歩み寄る。その綺麗な顔を近付けられたとき、こんな時じゃなかったら素直に喜べたのに、なんて呑気な事を考えた。そんな事したって現状から逃避出来る訳が無いのだけれど。

「貴様はわたしを知っているのか?」

 そう言いながらDIOが伸ばした右手が私の首筋に伸びてきているように思えて、反射的に叩いて弾いてしまった。ああもうどうしてこんな失態ばかり。
 まだだ。まだ、きっと、気付かれていない。そう願わずにはいられなかった。







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2014.9.6