02







 それは冬が迫ってきた頃の火曜日の夕暮れだった。
 いつも通り、教会の閉館時間に人気の無くなった館内を掃除し、正門の戸締まりを確認した。まだ雪こそ降らないものの、日の沈まない時間でも充分寒いと感じる時期になっていた。
 外は仕事帰りの大人や学校帰りの子供がちらちらと、誰もが寒そうにコートやマフラーに顔を埋めながら歩いている。僕もかじかむ手をさすりながら、通りかかる人々への挨拶もそこそこに、裏口から出る為に館内へと戻った。
 神父に正門の鍵を渡すと、納骨堂の蝋燭の火を消すよう頼まれた。快諾して神父から懐中電灯を受け取ると、ついでに読み終わった本を納骨堂の先の書庫にそうと思い、本を抱えて納骨堂へと続く階段を下りていった。
 教会の地下にある納骨堂は電気を通していない為、蝋燭以外の灯りは無い。懐中電灯で足元を照らしながら階段を下りていく。足音が壁に反響し、一段一段とその音を確かめる度に、頬に当たる空気の温度が下がっていくのを感じた。最後の一段を下り、蝋燭が灯されている先に目線を向けると、人影が目に入った。

「誰だ!?」

 思わず声を張り上げ、それと同時に左手に持っていた懐中電灯をその人影に向けた。明かりを当てても尚真っ黒なその姿に、まるで悪魔が現れたのかと錯覚しそうになった。だが、よく見るとその人影の正体は小柄な女性だ。僕は言葉を続けた。

「ここは外部の者は立ち入り禁止だ!」

 その女性は体を強ばらせながらこちらを凝視していた。
 この納骨堂へ入るには僕が先程下りてきた階段を通る以外には方法は無い。奥に書庫はあるが、そこに地上へ続く通路は無いのだ。入るにしても、日曜日以外は一般人が立ち入る事が無いように教会からの扉を閉めているし、その扉も身廊部からでも見えるくらい見晴らしの良い位置にある。
 彼女は一体どうやってここに入ってきたのだろう。懐中電灯を当てていたら、眩しそうに両手で顔を隠してしまっていたので慌てて下ろした。近付いて蝋燭に照らされた顔をよくよく見ると、どうやらアジア系らしかった。歳は僕と同じくらいだろうか。更に外出にそぐわない真っ黒なスウェット姿である。こんなに目立つ風貌なら、納骨堂へ入ろうとすれば直ちに気付ける筈だという確信が、尚更彼女の存在を謎めいたものへと仕立て上げていた。
 とにかく、彼女の存在を神父に伝えなければいけない。その旨を彼女に伝えていると、彼女は僕の言葉を遮る様にずっと強ばらせたまま固く閉じていた口を開き、お世辞でも上手とは言えない(まるで言葉を覚えたての幼子のような)、辿々しい発音でこう言った。

「わたし、えいご、はなせません」

 思わず閉口してしまった。アジア系なのは外見から分かったが、まさか英語が分からないとは思わなかった。つまり、先程まで僕が話した内容の一切は彼女には伝わっていなかったのだろう。
 英語が公用語のこの国で英語を話せないという事は、彼女は旅行者だろうか。しかし、仮にそうだったとしても、おおよそ観光客が好んで来るような場所ではないこの町の、しかも小さな教会の納骨堂に居る理由としては納得は出来なかった。それに、旅行者であるならば、彼女が荷物らしい荷物を持っていない事も疑問だった。

「きみは、だれだ?」

 辿々しくはあるが簡単な言葉は話せるらしいので、出来るだけゆっくり、それこそ幼い子供に話しかけるように尋ねてみる。単語一つ一つを聞き取れるように、はっきりとした発音で。すると、彼女は僕の話した言葉を理解出来たらしく、視線を様々な方向へ彷徨わせながら、先程と同様の覚束ない発音をその震える唇から発した。

「わたし、の、なまえは、ナマエ、です」

 ナマエ。その名前から出身を絞ることが出来る程の教養は僕には無い。いや、彼女の出身が何処なのかは大した問題ではないのだ。必要なのは、どうしてこの納骨堂に、どうやって入ってきたのかという事だ。回答次第では最悪警察に突き出す必要だって出てくる。
 出来るだけ簡単な言い回しで、先程と同様にゆっくりと、彼女の目を見ながら「どうしてここにいるんだ?」と尋ねた。彼女は僕の目を見ながらその言葉を聴くと、再び視線を右往左往させながら、いくらか困惑した表情を浮かべた。あー、うー、と言葉選びに迷っているような息を漏らした後、バツの悪そうな表情を俯かせて首を横に振りながら、再び頼りない口調で答えた。

「わかりません」

 僕は彼女の言葉に困惑の色を隠す事が出来なかった。嘘を吐いて誤摩化そうとしているのかも知れないが、英語を話せない以上彼女からこれ以上の事を聞き出すことは出来ないのだろう。
 やはり、神父を呼んで彼に任せた方が良い。時計を確認し、まだ神父が帰る時間ではない事を確認する。女の子にここで待つように伝え、教会にまだ残っているであろう神父を呼びに早足で歩き始めた。頼まれていた蝋燭は、まず彼女を神父に任せてから消してこよう。
 歩きながら足元を照らそうと懐中電灯のスイッチに指を掛けたとき、何かに躓いてしまった。考え事をしながら、しかも両手にはそれぞれ本と懐中電灯を抱えていた為に受け身を取ることが出来ず、全身をそのまま床へと打ち付けた。転んだ拍子にぶつけてしまったらし祭壇の蝋燭が危なっかしく振動する。それらを慌てて抑え、躓いた床を一瞥した。

「おい何なんだ!? 誰だ!?」

 その時、棺の下に人の足が隠れていくのが見えた。僕と先程の女の子以外に、人がいる。
 2人も部外者が入ってくるとは今日は一体何の日だというのだろうか。いや、ひょっとして女の子の連れなのかも知れない。先程の女の子を見るが、暗くて彼女の表情は見えなかった。

「誰だそこにいるのは!? そこで何をしている!? おいッ!」

 隠れていった足を追いかけるように棺の下を覗き込んだ。
 しかし、そこには何も居ない。初めから何も居なかったかのように。
 逃げたのかも知れない。そう思い顔を上げたときだった。近くの柱から声が聞こえてきた。
 男の声だ。明らかに棺とは距離があり、這いずって出てきていたのなら絶対にその姿を確認することが出来る筈だった。狐につままれたような出来事に一瞬何が起きたのか分からなかった。
 先程の女の子が僕の傍に近付いていた。横目にその顔を見ると、狼狽や慄然の表情が見てとれた。知り合いだとしたらこんな態度は取らないように思えた。立ち上がりながら、彼女を庇うように柱の方へ向き合った。

「君は誰だ? どうやってここに入った? ここの納骨堂は日曜日以外は一般の立ち入りは禁止になっている」

 威圧気味に叫べば、柱の向こう側から男が姿を現した。穏やな蝋燭の灯りに金糸の髪が揺らめいて、その長い前髪の下の顔は端正な作りをしていた。そして、この季節に似つかわしくない程の薄着に、僕の後ろに立っている女の子に対する違和感と似た感覚を抱いた。
 その時、女の子が小さく何かを呟いた気がしたが、男が口を開いた事に気をとられていた僕は気付くことが出来なかった。

「太陽の光にアレルギーの体質なんだ。今日の日没は確か6時19分。それまで家に帰れないのでそこで休んでいたんだ」

 男はそう言いながら手にしていた本を僕に渡した。稀に紫外線にアレルギー反応が出る人がいるという話は耳にした事がある。実際にそれを持つ人に出会った事は無いが、わざわざ嘘に選ぶような話ではない事が男の言葉の真実味を感じさせた。手伝える事があるのかと尋ねると、「別に」と素っ気ない反応をされた。

「そうか……気の毒だね……6時19分まで神父様には黙っててやるから日が沈んだら出てってくれ」

 散らかしてしまった本と懐中電灯を拾いながらそう言うと、面白い奴だと笑われた。僕から見たら、随分と肌を露出させたファッションの太陽アレルギーの男の方がよっぽど面白い存在であるように思う。
 いくらか男と会話をしてから、ちらりと先程まで怯えていた女の子に視線を向けた。英語の分からない彼女は僕達のやり取りをどう見ているのだろう。この男が(充分怪しい存在ではあるが)危害を加えるような者では無いという事を伝えた方が良いのだろうか。彼女の口元が何かを呟くように動いたが、その音はこのしんと静まった堂内でも響く事無く、呼吸と共にかき消されてしまった。男もまた彼女を一瞥した。

「ところで詮索するようだが、彼女は?」
「ああ、君同様にどうやって入ったのか分からない迷子の子さ。言葉が通じないらしくて、君のようにここにいる理由を尋ねる事が出来無いんだけどね。彼女の事は今から神父様に任せようと思っていた所さ」
「ふむ……」

 男はじいっと彼女を見ながら何かを思案する様子を見せると、僕に再び顔を向けた。

「良かったら、彼女の事はわたしに任せてくれないか。これでも語学の教養は深くてね。ひょっとしたら彼女の通訳が出来るかも知れない」







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2014.9.4