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 昨日は些か酒を飲み過ぎた。何か嫌な事があったとか、ストレスが溜まっていたとかでは無く、単に酒が飲みたい気分だったのだ。
 冷蔵庫に隙間を作りたい意味も込めて、ダラダラとレンタルしたDVDを見ながら孤独な晩酌を楽しんでいたら、どうやらそのまま床に寝転がるように寝てしまっていたらしい。まだ微睡みの残る中、床の硬い感触を全身で感じた。寝心地の悪さと体の節々の痛みとで唸り声が口から漏れる。ギギギと壊れた機械のように固まった体を動かし床に手をついた時、手の平から伝わる感触に違和感を覚えた。
 結論から言うと、そこは私が暮らしているアパートの一室ではなかった。勿論、酒を飲んだまま寝てしまったというのに、独りでにこんな知らない場所まで来てしまうなんて有り得ない話だ。生まれてこのかた夢遊病のきらいがあったという覚えも無い。まだ夢なのではと錯覚せざるを得ないが、体の節々の痛みや床のひんやりとした感触が、これは夢ではないのだと脳に訴えかけている。だが、それでもまだどこか夢心地のように思える。
 ここはどこなのだろう。体を起こし、周りを見渡してみる。地下なのか、それとも日が落ちているのか、外から光は差し込んではおらず、棚に並べられている蝋燭の灯りだけがこの空間の唯一の光だった。それでも目を凝らして、頼りない灯りに照らされている壁や家具を見渡すと、何やら日本ぽくないという印象を抱いた。壁も家具も、どれも西洋的というか(生憎美術の教養は無い為、それっぽいという浅く薄っぺらいイメージしか感じる事は出来ない)キリスト教の人が好みそうだな、という感じだ。ひょっとしたら、ここはどこかの教会なのかも知れない。ぼんやりと淡い光に照らされる装飾は不気味に見えた。
 ゆっくりと足に力を入れて立ち上がった。足元に気を配りながらそろそろと歩き出す。周辺を軽く見渡すが、私以外に人影は見当たらない。ペタペタと素足で歩く音だけが暗く高い天井に響く。
 床の冷たい感触がじんわりと全身に伝わってきたことで、夢の延長線にしか思えない状況を、漸く実感として脳が受け止め始めた。それと同時にぞわりと寒気が背中を走る。ひょっとして誰かに拉致されてしまったのではないか。ひょっとして誰かから恨みを買ってここで殺されるのではないか。状況が分からないからこその思いつく様々な可能性が、消化しようの無い恐怖になって心臓を支配していく。誰か人が来るのを待つべきなのか。それとも人に見つかる前に逃げ出した方が良いのか。戦争を放棄した平和な国で生きてきた身には、この場で正しい判断を下せる自信も知識も無かった。

「Who!?」

 不意に後方から声が降り掛かってきた。突然の出来事に肩を跳ねる以外に体を動かす事を躊躇う。それでも、声が聞こえる方向へ体を捻らせれば、強い光が目に入った。思わず目を瞑る。そっと薄目を開けば、誰かが懐中電灯でこちらを照らしているらしい。

「Outlanders are prohibited from entering in this building!」

 かろうじて、光の先の人影が話している言葉を英語だと分かることは出来たが、学生時代英語の成績が芳しくなかった私は、それ以上その人影が何を話しているのかを理解することは出来なかった。それでも、唯でさえ状況を飲み込めない恐怖に包まれている身からすれば、その声に威圧を感じてしまうには充分だった。
 人影の主は、右足を少し引きずりながら早足で段々とこちらに近付いてくる。人影が朧げな蝋燭の灯りの元に来る事で、それが色黒の男性だという事が分かった。黒人だろうか。白髪の坊主頭と特徴的な剃り込みに既視感を覚えたが、日本で暮らしてきて日本人としか交流を持った事の無い身に外国人の知り合いなんて居るわけがない。ましてや、こんな独特な剃り込みを持った黒人男性など。
 男性はその口を閉じる事なく様々な言葉を私に投げかけてくる。だが、時々聞き覚えのある単語があると分かる以外に、私にその内容を理解することは出来なかった。畳み掛けるように投げかけてくる言葉の数々に私の頭は最早パニック状態だ。それでも、何とかしてこの英単語のラッシュを止めたい一心で震える唇を動かした。

「あ、あい、きゃんのっと、すぴーく、いんぐりっしゅ」

 辿々しく、日本語のような発音で英語が話せない旨を伝える。これで伝わってくれるのだろうか。不安しか感じない意思表示だったが、それでも相手には伝わったらしい。男性は右手を顎に添え、少し考える素振りを見せた後、先程とは違いゆっくりとした発音で「Who are you?」と尋ねてきた。

「ま、マイネーム、イズ、ナマエ」

 男性は再度何かを考える素振りを見せると、再びゆったりと、単語一つ一つを区切るような発音で「Why are you here?」と尋ねた。
 何故ここにいるのか。
 そんな事、こっちが訊きたいくらいだ。だが、唯でさえ辿々しい英語しか話せない私が、それを男性に聞き返すことが出来る程の英語を知っている筈が無かった。

「アイ、ドント、ノウ」

 必死に首を横に振りながら答える。言葉は伝わったらしいが、私の回答に男性は首を傾げて困った様子を見せる。申し訳ない気持ちになるが、私にはどうしようもなかった。
 困った様子で思案する男性と、その後ろの建物内を眺めながら、どうしてこんな状況になってしまっているのだろうと考えた。昨日、酒を飲みながら寝てしまうまでは全く何の変哲もない普通の生活を送っていたと言うのに、目を覚ましてみると知らない場所にいて、外国人の男性を困らせている。夢だと思いたいが、目を覚ましてからこの瞬間までに五官を伝わってくる情報達がそれを否定しているし、今まで夢の中でこれは夢なのだと認識出来た経験も無かった。
 一つ安心出来る事と言えば、目の前にいる男性が私を拉致してきたというわけではないらしい、という事だった。これが時々テレビで流れるような拉致事件と同じものであったら、今頃私はこうして呑気に目の前の男性と覚束ない英語で会話なんてしていられなかっただろう。
 男性はふと時計に視線を移すと、何かを思い出した様子で「Please wait」と言い残し、階段がある方向へ右足を引きずりながら小走りしていった。その手には懐中電灯の他に数冊の本を抱えていた。
 彼は留学生か何かなのだろうか。そもそもここは一体何処なのだろう。頭はすっかり冷静になったが、そのお陰で浮かんでくるのは疑問ばかりだ。彼は何者なのか、ここは何処で、今は何時なのか、私をここに連れてきたのは誰なのか、私はこれからどうなってしまうのか。
 唯一分かるのは、現状頼ることが出来るのはこの黒人の男性しか居ないという事だ。藁にも縋りたい私にとって、彼は偶然流れてきた藁と同様、若しくはそれ以上の存在だ。とにかく、何とかして、それこそ身振り手振りや絵(学生時代に美術の先生の苦笑を買ったしょっぱい思い出有り)を駆使してでも彼から現状の情報を聞き出したい。もしくは、誰か日本人か、日本語を話せる人を連れてきて欲しい。
 そうやってぐるぐると次に取るべき行動を考えていると、何かが倒れるような音が聞こえた。反射的にその音の方へ振り向くと、先程の男性が何かに躓いたらしく倒れていた。ぶつかった衝撃で棚に並べられている蝋燭がゆらゆらと危なっかしく揺れる。男性はそれらを素早く抑えて立て直すと、自身が躓いた先の床を見下ろした。

「Who's there!? What are you doing there!?」

 男性は声を荒げながら床に膝をついた。大きな台の下を覗き込んでいる。相変わらず何を話しているのかは分からないが、その声は躓いた事への苛立ちをぶつけると言うよりは、台の下に何かが居て、それへ話しかけているように思えた。
 ふと、黒人男性とは別の声が聞こえてきた。ここに居たのは私と男性の2人だけだった筈だ。私が目を覚ましてから、あの黒人男性以外に人が来る気配など無かったのだ。
 得体の知れない声の主に、体が恐怖で強ばるのを感じた。1人で立っている事に不安を感じ、待っていなければという思いを押し切り黒人男性の近くへゆっくりと動いた。男性も私を見ると、勝手に動いた事を咎める事も無く、むしろ私と同様にその声を不気味に思ったのか、私を庇うように横に並んだ。黒人男性が柱の方向へ声をかける。柱から男の人が出てきた。
 目に入ったのは蝋燭に照らされた金糸の髪と、この室温にそぐわない服装と(そういえばこの空間はいくらか肌寒い)そして、首元にある星形の痣。

「……うそ」

 息のような声が口から溢れる。目を見開かずにはいられなかった。柱から姿を現した男の姿は、その特徴的な痣は、私が、いや、私だけではなく、その作品が好きな人なら確実に知っているものだった。
 刺青には見えなかった。そうであったとしても、厚手のスウェットを着ている私ですら寒いと感じるこの空間で、普通の人間が肩から腕を露出させて背中を大きく開いた服を着て、身震いひとつせずに平然となんて出来るとは思えなかった。
 思えば、この黒人男性にだって最初既視感を感じていた。その既視感の正体が、パズルのピースが一気に組み上がっていくように、はっきりと私の中に浮かんできた。
 知り合いに心当たりを探しても思い当たる筈なんて無かったのだ。その特徴的な剃り込みは、星形の痣の男性と同様にその作品に出てくるものだった。目の前の男性2人は英語で何かをやり取りしているが、もう私の耳には入ってこなかった。会話の内容を理解しようとしなくとも、何を話しているのか私は既に知っていた。

「……DIO、と、プッチ?」

 ほんの小さく漏れてしまった呟きを、目の前の2人に聞かれていない事を祈った。







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2014.9.4
英文間違ってても許してちょんまげ