私は確かにナイフを振り下ろした。つまり、ナイフはDIOの血で塗れてる筈で、DIOは上手くいけば絶命していた筈だ。乃至失敗していたとしても、私の背中がベッドについている、なんていうのは有り得ない。どんなに素早く動けたとしても、ベッド脇で立っていた人間が、自分が知覚出来ない程の速さでベッドの上に寝転がるだなんて、余りにも無茶で荒唐無稽な話だ。有り得ないことでなくてはいけないのに、有り得たらいけないのに。
私は今、DIOが寝ていた筈のベッドに背をつけている。
DIOは厭らしい笑みでこちらを見下ろしている。ベッドに寝転がる私に馬乗りになり、マウントポジションを取る姿勢になっている。
逃げようと身を捩るが腕を動かせない。どうやら拘束されているらしい。頭上を見ると、ザ・ワールドが無表情でこちらを見下ろしている。拘束を解こうと腕に力を込めたら、ザ・ワールドの手の力が強まって私の腕をミシミシと締め付けた。思わず苦悶の声が漏れて、それを聞いたDIOは目尻を細めた。
「わたしを殺そうとするとはな。首を切り落とそうとしたのは中々良い判断だ」
ニヤニヤとした笑みでこちらを見下すDIOは、先ほどまで私が握っていた筈のナイフを両手で弄んでいる。私の手には仰々しかったそれは、DIOが持つと遊び道具のようだ。玩具のようなナイフは乱暴に壁に放り投げられて、みっともなく音を立てながら床に落ちた。
「貴様如きに殺されるわたしではないがな」
DIOはそう言うと、ゆったりと優しい手つきで私の頬を撫でた。指はそのまま首筋の脈へと滑っていく。するりと撫でるDIOの指先へ、私の意識の全てが集中していく。耳の奥で心臓の音がうるさく喚いた。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
頭が真っ白だ。考えなきゃいけないのに、DIOのこの手から逃げないといけないのに。恐怖が思考を麻痺させている。殺される。怖い。助けて。誰か。
「惜しかったなあ、名前よ。今までのわたしならば可能性は無くはなかっただろうなあ。だがな、つい先日のことなのだが、わたしのスタンドにも固有の能力が発現した。素晴らしい能力だ。名前、貴様のお陰でこうして実践し、成功出来たのだから、わたしは非常に気分が良い」
DIOはニタニタと笑みを浮かべている。首筋を撫でていた手は再び私の頬を包み、太い親指が唇を撫でた。
スタンドが発現した。DIOが時を止める力を得た。つまり、先程の私の奇襲が失敗したのは、どうしてか私の行いを察したDIOが(単純に寝たふりをしていただけだったのだろう。私はその程度の欺きすら気付けるタイプではない)時を止めて先手を打ったということだ。
「確かに、貴様の言う通り、『時』に関する能力だった。『世界』を名乗るに相応しい、此の世を支配出来る能力だ。まだほんの数秒しか発動出来ないが……フフ……」
ぞわぞわと嫌な寒気が背中を這っている。スタンドを出すべきか。でも、時を止められるようになったDIOの前ではきっと役に立たない。スタンドが全身を覆う前に首を千切られてしまう。
唇を震わせながら押し黙っていると、頬に添えられていた手は私の頭を撫でた。その手つきがこの状況には不釣り合いな力加減であったことが尚更私の恐怖を煽っている。DIOの唇は滑らかに弧を描いた。
「わたしは感謝しているのだ、名前よ。貴様のヒントのお陰で己の能力に気付くことが出来た。何も知らなければきっと、能力の発現はもっと遅れていただろう」
この言葉が事実なのかどうかは推測の域を出ない。予定調和なタイミングなのか、本来なら起こり得ない時期だったのか。DIOが最後の戦いの最中に話していた能力の目覚めはいつだったのか思い出せない。
「ククッ。まるで鷲に捕まった鼠のようだな。何を怯えている? よもや先程の愚行をその命で贖わされるのではとでも思っているんじゃあないだろうな。だとしたら愚かな妄想だ。わたしは約束を守る男だぞ」
約束。約束って何のことだ。
冷静に考えれば先日の「何もしない」という口約束のことなのだろうと分かる筈だったが、今の私にそんな余裕は無い。締め上げられる手首に血が通っていないのか、だんだんと手の平の感覚は失われていた。
歯がぶつかり合うくらい震える唇が、私の意識とは関係無しに謝罪の言葉を象ろうと必死に動いている。声帯が震えない所為でそれは何とも間抜けに見えることだろう。
「だが、確かに約束を交わしているとはいえ、わたしの寝首をかこうとしたのは許されることじゃあない。お仕置きをせねばなるまい、なあ?」
「えっ」
ポキ。
一瞬、音の意味が理解出来ず、けれど、頭が理解するよりも先に痛覚が伝わった。
「あ、ああ……あああああ! ああああああああ!」
左手から激痛が走る。咄嗟に右手で押さえようとするが、指が触れるだけで痛みが何倍にもなるような感覚に襲われる。
見ると、左手の人差し指が反り返るように手の甲へ向かって曲がっている。自分の指が有り得ない方向へ曲がっているという異常な光景に、視界が遠退くように真っ暗になった。
*
頭を誰かに撫でられていることに気が付いた。いつの間に閉じていたのかも思い出せない瞼を押し上げると、テレンスが私を見下ろしていた。
「おはようございます。からだは大丈夫ですか」
「えー……あー……大丈夫、です、たぶん」
テレンスの問いの意味を今ひとつ理解しきらないまま返答すると、左手に違和感を覚えた。その正体を毛布の中から目の前へ動かすと、それは仰々しくギプスを巻かれて真っ白になっていた。
途端に、DIOにされたことが脳裏に蘇った。折れた指の光景がフラッシュバックしてまた血の気が引くような感覚に襲われたが、視界は明瞭なまま頭の中だけに遠のく感覚が走って終わった。
腕や足の骨折ならまだしも、指で失神なんて。
自分の気の細さが情けなく思った。この有様でもし原作の戦いをどれか一つでも目の当たりにする羽目になったらショックで心臓麻痺でも起こすんじゃないだろうか。この先の自分の身があまりにも心配だ。
「なかなかもどらないので、ごはんつめたくなるから、DIOさまのへや、行きました。そしたらDIOさま、ナマエさんが倒れたと」
「あ、……あー……すいません、だいぶご迷惑をおかけしたようで……。介抱まで、その」
「かいほ? あー、てあてはDIOさまです。わたしは医者よんだことだけ」
身体を起こすと視界の既視感でDIOの部屋だと分かった。部屋の主を探そうと周囲を見回そうとしたとき、すぐ横から声が聞こえて私の肩が跳ねた。声の主は喉を鳴らして笑った。
「神経が細すぎるだろう。たかが指一本でなんと無様な姿を晒せたものだ」
声が聞こえるまですぐ横に指を折った張本人が寝ていたと気付けなかった自分に落ち込んだ。寝起きで意識がハッキリしてなかった所為だ。自然と眉間に皺が寄っていくことを欠伸で誤魔化して、私は再び自分の左手を見た。
「……充分な罰にはなりました」
「ククッ、その程度で充分? 貴様はとんだ腑抜けだな。……本当に、何故スタンドが開花したものか」
DIOの手が私へ伸びる。反射的に仰け反るとDIOはくつくつと喉を鳴らした。
「わたしは非常に残念に思う。なあ名前よ、わたしは貴様が心を許してくれていると思っていたのだぞ。仕置だって指の一本では全く足りないくらいだ。せめて、両腕と片足くらいは差し出すべきだと思っている」
「……そう、ですか」
「だが、わたしも温情というものは持っている。そうやってまたこのDIOの手が触れることを拒むというのなら、わたしは指一本触れぬようにしよう。名前よ、仲直りをしようじゃあないか」
「……仲直り」
DIOの言葉を頭の中で反芻させて、その真意を考えた。違和感のような、腑に落ちない気持ちになったからだ。なんだか私にとってあまりにも都合の良い温情に聞こえる。
最初に寝首を掻こうと行動を起こしたのは私で、その失態を(指を折られたとはいえ)許して不問にしようというのだ。DIOが私をこのまま放っておく利点がまるで考えつかない。
「……何か、企んでますか」
「ククッ、まさか。前に言ったことを忘れたか、何かを企むならわたしはもっと上手くやると。……それに、こんな回りくどいことをするくらいなら、すぐにでもジョジョのスタンドで吐かせるさ」
そう言いながらDIOは右腕から茨のスタンドを発現させ、すぐに消した。
確かに時を止める手段を得たDIOなら私を容易に拘束出来るし、私の記憶を調べることだって簡単にやってのけるだろう。それをしないことでDIOが得られるメリットというのが何なのか、私には想像がつかない。
ぐるぐると思考を巡らせていると、DIOの手が再び私へ伸びていた。身を強張らせると、表情から察したらしいDIOは私の頭から程ない距離で手を止めた。
「わたしが怖いか?」
「……えっと、そりゃあ……それなりに……」
逃げるように視線を落とした。
怖いというか、嫌だというか。モゴモゴと不明瞭な返事を漏らしながら、私はDIOから距離を取ろうとベッドの上を後退りした。
指まで折られたのだ。否定的な感情を持っている筈なのに、私の口は何故か曖昧に誤魔化そうとしている。正直に言ったところで、今更DIOは怒らないだろうに。
「わたしに触れられるのは嫌か?」
「…………その……」
DIOは私の応答を待たずに次の質問を投げかけた。その質問すらもすぐに反応出来ず、視線を上げるもすぐにベッドへ落とした。
嫌だと即答すれば良いのに。DIOの言葉を鵜呑みにするならば、私が拒否をすれば触らないって言っていたじゃないか。
いや。いや。いや。い、や。
何度も声に出そうとするが、喉に何かが詰まって上手く出てきてくれない。たった2文字、幼児にだって言える言葉なのに。
私が答えないことに痺れを切らしたのか、視界の端にあったDIOの手が再び動いた。ひっ、と喉が鳴ってギプスの巻かれた左指が軋んだ。
「怖がるんじゃあない」
DIOはゆっくりと、慎重な手つきで、私の髪先に触れた。そこから辿るようにじわりじわりとその指先を私の耳元へと伸ばしていく。程なくして、体温の無い手の平が私の頬を包んだ。
蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちだったのだろう。この感覚を上手く言語化をしようとしても、心臓が喧しく何かを警告してくるから、うるさくて集中出来ない。
低い声が私の名前を呼ぶ。名前。名前。身体の奥深くに落ちていくような声と、撫でられる頬が心地良くて、心臓がうるさいのはこれの所為なのだろうかとすら思った。
恐れる必要はない、とDIOは言う。そんなわけないのに、その言葉に涙が滲みそうになって下唇を噛んだ。
DIOの厚い唇が弧を描く。
「なあ、名前よ。わたしの部下になる気は無いか?」
ちょっと何言ってるのかよく分からないです。
← | →2017.10.13