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「いやだから……ダメでしょこれ……」

 くそったれオランウータンの檻へ林檎やバナナを押し込み終えると、私は一言呟いて頭を抱えた。比喩的な意味ではなく、きちんと両手で包むように。
 一人でいれば冷静になれるのに、あの男を目の前にするとなかなかどうして平静を保てないものだ。頭では理解していても、現実で直面するとどうにもならない。
 フォーエバーが檻を叩いて餌を催促してくる。うるせえこちとら生死が懸かった重要な案件について必死に考えてるところなんだよ黙ってろ。空っぽになったバケツを見せると中指を立てられた。(そんな仕草どこでどうやって覚えたんだ)
 私も同じように左手中指を天井に向かって立て返し、力任せに部屋の扉を開けた。地下の廊下は冷んやりしている。まだ暑苦しい季節ではないけれど、心地良い冷たさに感じた。頭が冴えるような気分になってきて、私は歩きながら思考を巡らせることにした。
 まず、DIOについて考えよう。あの男は3部のラストで死ぬ。そうなるべきだと思う。こいつが生き永らえると碌なことにならないだろうし、プッチが行うよりもずっと早く世界を一巡させかねない。そもそも作中で起きた一巡はプッチの考えも入っているから、DIOが実現させようとしていた『天国』というものがそれと同じであるとも限らないのだ。作中でその真意が語られることは無かったから、実際に何を企てていたのかは誰にも分からないけれど。
 とにかく、DIOは死ぬべきだ。承太郎に倒されて灰になって消えるべきなんだ。承太郎の母と仗助が死んでしまう未来は一読者だった身としてもあまり快く思えない。利己主義の私にだって良心の呵責はある。
 死ぬ奴の側に居続けることは出来ない。そもそも生きていてもDIOの側に居続けたくはないのだけれど、そういう私の個人的な感情は置いておいて、とにかく、DIOの元にいることにメリットは無い。万が一にも承太郎達に敵と認定されてしまっては洒落にもならないし、どうにかしてDIOが死んだ後の身の置き場を手に入れる必要だってある。今はこうして衣食住を確保出来ているけれど、DIOが死んだ後に頼れる人間は今の私には居ないのだ。
 生きることが最低限の目標だ。そして、最終的な目標は私が暮らしていた世界へ帰ることだ。現状一切の手掛かりが無いから、雲を掴むような話だけれど。生きる目標はあればあるだけ良いし、それを忘れてこの世界に迎合するわけにはいかない。迎合して生きるにはあまりにも孤独が過ぎるし、21世紀の利便性に慣れた身としてはこの時代は不便に感じる。スマホでゲームがしたいし、4Dで映画を観たい。
 バケツを物置部屋に置いて、真っ直ぐ自室へ戻った。壁は相変わらず穴が空いたままで、物が少ないことが尚更この空間を廃墟のように仕立てている。満身創痍な中に不自然に綺麗なベッドへ、倒れるように身を沈めた。そのまま視界を閉じて、頭の中を駆け巡る思考へと意識を集中させた。
 例えば。例えばの話だ。
 このまま私が手を出さないようにしていれば、承太郎の母親は倒れて、助ける為にジョースターの血筋は立ち上がり、二ヶ月ほどの時間をかけてDIOを倒しに来る。犠牲を払いながらも目的は達成されて、1世紀以上を生きた吸血鬼は白日の下に死ぬ。
 なら、私が手を出したらどうなる? 寝込みを襲って首を落としたり、窓際に誘い込んで太陽の光を差し込ませたり、とにかく、私がDIOを殺すことが出来てしまったら。

「いやいや……無理だわ……ハハハ……」

 仮に成功したとして、私はその後どう生きていけば良いのだろう。浮浪者が行き着く先はアンダーグラウンドな世界だと相場が決まっている。身元を証明出来ない人間を保証してくれる物好きなんてそう居るものじゃない。
 溜息を吐いた。この館で暮らした月日の5倍の数は吐き出しているだろう。目を閉じて、一呼吸置いて開いたら、私が生活していたアパートの散らかった部屋の中に寝転がっていないだろうか。もう願った回数も忘れてしまったそれを思い描いて、もう一度深く肺の中身を吐き出した。
 ぐう。ため息にリズムを合わせるように腹の音が鳴った。そういえば、時計の針はどちらも頂点を過ぎていた。



「あ、えっと、ハロー、テレンスさん」
「ああ、ナマエさん、こんにちは」

 私の下手な英語よりもテレンスの日本語の方が流暢に聞こえる。やっぱり英語を教えてもらうべきだろうか、と自分の学の無さに本日3度目のため息が出た。
 だだっ広い台所で一人従事するテレンスは、コンロや洗面台や冷蔵庫の前など色々なところを行ったり来たりしているわりにはあまり忙しそうに見えない。だいぶ手馴れている所作に主婦力を感じる。語力だけならまだしも生活力に於いても負けている自分が虚しいけれど、相手はそもそも漫画の世界の人間だ、色々なところがファンタジーなのは仕方が無いんだと自分を慰めた。

「元気ないですか?」
「あ……いえ、大丈夫です。あー、アイムファイン。オーケーオーケー」

 冷蔵庫にあるものを適当に食べようと思っていたが、テレンスが使っている手前使いにくい。邪魔になるかも知れないという気遣いよりは、例え簡単なものでもテレンスの前で何かを調理するという行為をしたくない気持ちが大きい。だって見てよ私の目の前に置かれている料理一式。高級な料理店で一品ずつ出されるコースのメニューでしょ。スマホがあったら絶対に写真を撮ってツイッターにあげていた。時代が憎い。

「お昼ごはんですか?」
「ええ。間もなくできます。よかったら一緒にたべましょう」
「やった。ありがとうございます。じゃあこれは?」
「DIOさまの分です」
「へえー」

 解答の分かりきった質問に、予想通りの答えが帰ってきた。こんなフルコースはDIO以外に向けて作らないだろうな。というか、あの吸血鬼はワインと女の血液以外も頂けるのか。娯楽として食べているのか、人間の頃の記憶が求めているのか、なんでもいっか。
 台所前のテーブルに座って待っていると、テレンスと何度か目が合った。何かを頼みたいらしく、右手の指を折り曲げてカモンのジェスチャーをしている。

「あの、ナマエさん、大丈夫だったら、DIOさまへ運んでもらえますか? 冷めてしまうとだめなので」

 料理に手間取っているのだろうか。テレンスは足を止めないまま、フルコース料理を指差した。温かさを気にしているのはスープもあるからだろうか。

「あー……良いですよ。DIOさんは寝室ですか?」
「はい。ありがとうございます。ナマエさんにはデザートをおまけします」
「やった。へへへ、ありがとうございます」

 昼飯くれるしな、と思って了承したら棚からぼた餅も落ちてきた。良いことはするものである。あくまでテレンスに対する親切で、DIOに対するものではない。
 こぼさないように慎重にプレートを運ぶ。自分が使ってる枕よりも大きいそれは、女の腕力では少々厳しい気がする。腕が疲れきってしまう前にと足を急がせた。いっそDIOの目の前に来たらひっくり返してやろうかとも考えたけれど、テレンスに申し訳ないので止めた。
 階段を上がって、廊下を渡って、ようやくDIOの寝室の前に着いた。5分は掛かっただろうか。ここまで耐えた自分の腕を褒めたい。

「DIOさん、いますか」

 声をかけたが反応は無い。仕方無いので、塞がっている両手の代わりに足で扉をノックした。ドンドンドンと強めに音を立ててもやはりDIOの返事は無い。身体で扉を押すと、鍵をかけていなかったらしく簡単に開いた。
 真昼間の部屋とは思えない暗闇の中に、蝋燭が小さく灯っている。この部屋には一度だけ訪れたことがあるが、苦い思い出のため考えないようにした。あれは苦い思い出である。
 廊下の灯りが途絶えないように、扉を開ききってから部屋へ入った。DIOさん、ともう一度大きめに声をかけるが、ベッドの中にいるらしいDIOは反応を示さない。寝ているのだろうか。吸血鬼という存在が本当に眠りにつくのか知らないが、動物ならば皆等しく睡眠を必要とする筈だ。
 ベッドの近くに置かれているテーブルにプレートを置いた。ガチャガチャと食器が鳴ったが、DIOは少し身動いだだけで、起き上がらない。
 プレートを置いたとき、手の甲に何かが触れた。暗がりの中で手探りにその正体を持ち上げて見ると、果物ナイフらしい。近くにはりんごも置いてあった。
 机に置いたフルコース一式を見る。DIOを起こすべきだろうか。テレンスが冷める前に、と私に手伝いを依頼したくらいだ。きっと起こした方が良いのだろう。
 ふと、自室で考えていた不毛な想像を思い出した。DIOは寝ていて、私の手にはナイフがある。
 都合の良い考えだろうか。たかだか果物ナイフを手にしただけで、世紀の大悪人をひ弱な凡人が倒せるだなんて、ご都合主義な幻想だろうか。
 私の理性が正常なままでいられるのは時間の問題だという可能性がある。今は目溢しを貰えているだけで、その内都合が良いからと肉の芽を植え付けられるかも知れない。それにそもそも、私が今生きていられるのはDIOの気まぐれが大きいのだ。
 手の中のナイフを強く握った。静かなこの空間の中で、私の心臓の音だけが耳の中によく響いている。この音でDIOが起きてしまったらどうしよう。そんな一抹の不安を胸に、出来る限り足音を立てないようにベッドに近付いた。
 首を切り落とせばDIOを殺せる。ナイフを握る手はいつの間にか汗が滲んでいた。呼吸が荒くなる。今、こいつが死ねば、私が抱く不安のほとんど全てが解決する。躊躇う必要なんてどこにも無い。最大の不安因子を排除出来るのだ。その後のことなんてそのときに考えれば良い。
 当然、平凡に育った私に殺人の経験など無い。明確な意思で命を潰した経験といえば、幼い頃に蟻を踏んで遊んだくらいだ。だが、そんな事情は今これから私が行うことには関係無い。やらなくちゃ、いつか自分がやられてしまう。
 乱れる呼吸を整えて、ナイフをしっかりと握っているかを確認して、それを刺すべき場所を確認する。暗がりで分かり難いが、DIOの首には確かにつなぎ目のような痕が見える。怖々と、慎重に、手元を狂わせないように、その痕に向かってナイフを振り下ろした。







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2017.5.28