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「いやだめでしょこれ」

 勢い良く起き上がった私は思わず口に出していた。独り言は誰に聞こえるわけでもなく、一人ぼっちの部屋の中で消えていった。
 いやでもだめでしょこれ。冷静に考えたらだめでしょ。冷静にならなくてもだめだと分からなきゃだめでしょ。いつ分かるの、今でしょ。やかましいわ。
 思わず両手で頭を抱えた。奴の声は酷く安心するなんてよく言ったものだ。あの吸血鬼がどんな畜生なのか充分な程に知っている私がこのざまだ。何も知らない人間じゃ抗えないのも頷ける。花京院もポルナレフも悪くない。相手が悪すぎたんだ。
 DIOの存在は心地が良い。この男の側にいれば何も心配することなんて無いと思ってしまう程に心が安らいでしまう。一緒にいても良いのかもしれないなんて思ってしまう。
 これは、私の意志とは関係ない。魔術のようだ。催眠術のようだとも思う。抗うだけでも相当な気力が必要だ。
 逃げるべきだ。あの誘惑から逃れる為には、一刻も早く。
 顔を覆っていた両手を下ろして、俯いていた上半身を起こした。鍵が壊れたドアが目に入った。
 逃げるとして、だ。
 私の頭は否定的に出来ているから、すぐに自分の考えを打ち消す事例ばかりが思い浮かんでくる。逃げるとして、私はどこに逃げようというのだろう。そもそもあのDIOから逃げ切ることは可能なのだろうか。ジョナサンのスタンドは恐らくジョセフのものと能力はほとんど同じだろうし、カイロ内であればペットショップの行動圏内として充分に機能するだろう。地理だってあちらの方がずっと把握しているだろうし、パスポートどころか戸籍も無い私はこの国の外へと出る手段を持てない。スタンドでの戦い方も知らなければ武器も持っていない私が逃げ切る為の条件が何一つとして満たせていない。無計画に飛び出すのは自殺に等しい。私という人間が逃れる方法なんて存在するのだろうか。
 煮詰まり始めた頭を元に戻す為に窓を開けた。外は憎らしい程に天気が良い。風が優しく顔を撫でた。門の上にペットショップが止まっている姿が見える。こちらをチラリと見てから何処かへ飛び立った。
 窓から少しだけ身を乗り出して下を覗いてみた。この部屋は二階だから、たぶんここから飛び降りても死ねないだろう。精々どこかを骨折する程度だと思う。
 いや、頭から落ちれば、打ち所によっては……。
 そこまで考えて、我に返った私は頭を振った。死ぬのは怖い。自殺は贅沢だとが誰かが言っていたし、私もそう思う。でも、と考える。死ぬのは怖いが、DIOの下に居続けることや、これから起きるであろう事柄達はそれに劣るのだろうか。既に決定付けられた出来事を回避する為に、いっそ此処から飛び降りてしまうのはどうなのだろう。
 ソクラテスが死刑を受け入れたのは、実は彼は死を自ら望んでいたという説をどこかで読んだことがある。七十まで人生を往生した彼にとって、その後生き続けたとしても身に起こるであろう出来事は高が知れていて、ただ老いていく惨めな晩年を過ごすくらいなら自らの手で人生に区切りを付けたかったのではないか、という説。もう充分に生きたから、満足したからという、見方によっては実にポジティブな理由での自殺と言える。その説が本当かどうかは置いておいて、そんな理由で死ぬことが出来るのは幸せだろうと思った記憶がある。
 もし、今、私が死んだら、それは前向きな死になるのだろうか。たかが二十年程の人生は、恐らく大して酸いも甘いも経験はしていないだろう。だが、それでもDIOの下から確実に逃げることが出来て、これからエジプトを舞台に起こるであろう戦いを免れる為の確実な方法である。それに、もしかしたら、この世界で死ぬことが、アパートに戻る手段になり得ることも……これは、あまり期待しない方が良いか。
 死ぬのは怖い。事故でも、病気でも、自然死でも、意図的なものでも、とにかく、死んでしまうということへの恐怖は感じる。これは、命を持っているものなら身を守る為の本能として細胞に擦り込まれている、純粋な恐怖だ。畏怖だ。
 でも、戦いに巻き込まれることも怖い。命が脅かされる、物語に巻き込まれてしまうことへの不安、仮にそれを乗り越えたとして、物語の先に私の身は保証されてない。考えれば考える程きりも無く浮かんでくる。
 誰にも話せないこともストレスになっていた。風船だって空気を詰めすぎると破裂してしまう。溜息を吐き出したけれど、パンパンに詰まった空気はほんの少しも抜けてはくれない。
 空は快晴だ。私の考えていることなんて何一つとして知るつもりも無いのだと言わんばかりの。

「私も、そうやって昇って落ちるだけの生活がしたいよ」

 私の独り言は風に掻き消された。





 鬱屈とした時間だけが過ぎ、気付けば昇っていただけの太陽は呑気な仕事を終えていた。四角に区切られた外からはぽつぽつと人工の灯が見える。
 カーテンを閉じて、自室の扉を開けた。蝋燭に照らされた廊下は昼夜問わずの薄暗さで、人気を感じさせない闇が孤独感を更に強くした。
 私はどうしてこんなところにいるのだろう。
 今更すぎる疑問が浮かんで、漠然とした不安が背中にのしかかった。もう数ヶ月はこの屋敷にいるけれど、帰る方法はおろか、ここに来てしまった原因も分からない。日が経つ毎にその日の前夜の記憶は曖昧になっているけれど、でも、何一つとして特別なことなんて無かった筈だ。何もなかった。極々ありきたりの普通の夜だった。私以外の全ての人間はいつも通りに眠って、数時間後の朝にいつも通りに目覚めただろう。なのに、何で私だけ。
 つらい。さびしい。こわい。かなしい。箍が外れたようにどんどんと消極的な気持ちばかりが溢れてきた。
 得体の知れない何か(何者かによる任意的なものか、事象としての偶発的なものなのかも分からない、何一つとして正体の見えない「何か」)が私をこうしてしまった。あまりにも非科学的すぎて、私以外の誰一人として信じてなんてくれないだろう出来事だ。それこそ、神とかいう存在しか為し得ることが出来ないようなことだ。
 うう、と声が漏れて、その場に蹲った。泣いてしまうかと思ったけれど、涙は出てこなくて、ひたすら頭に大岩を乗せられたような怠さばかりが私を床に縛りつけた。

「豚が迷い込んでいるかと思ったら貴様か。こんなところで何をしている」

 最悪のタイミングだ。ついでに最悪の一言だ。私に力があったら殺してた。
 泣いてはいなくとも酷い顔をしている私は、顔を俯かせたままDIOの質問に返答した。

「DIOさんは何してるんですか」
「質問を質問で返すんじゃあない。何をしているんだとわたしが訊いている」
「……別に、何となく蹲ってるだけです」

 早くどっか行ってくれないかな、と蹲ったまま待っていると、視界の端に見えたDIOの足が私の前に来てしゃがんだところが見えた。何してんだこいつ、と思ったところでDIOの両手が私の頭を掴んで力付くで持ち上げた。

「酷い顔だな」
「知ってます」

 DIOの手を振り解きたくて頭を振ったけれど、DIOの力が強いらしくて失敗に終わった。こんな奴の前で無様に泣きたくないけれど、そんな気持ちに反して私の両目はじわりと揺らいだ。目の奥の熱さを認めないようにぐっと息を止めた。

「……DIOさんはこんなところで何してるんですか」
「通りかかっただけだ。書斎に用がある」
「じゃあ早く行けば良いじゃないですか」
「随分と偉そうな口を利くじゃあないか」

 私がもう一度頭を振るよりも前にDIOは両手を離した。じんわりと熱を帯びた目の奥を冷ますように、私は素早く頭を下げた。頭上からDIOがせせら笑う声が降ってきて、ただでさえ沈んでいた気持ちは更に地面の下へと落ちて惨めになっていった。

「岩にでもなるつもりか」

 DIOはまだその場から動かない。

「DIOさんがどっか行ったら部屋に戻ります」
「なら、貴様が岩になるまで待つとするか」

 糞野郎、と言いかけて口を噤んだ。少しだけオブラートに包んで、意地が悪いですね、と反論すると、DIOの短い笑い声が聞こえた。

「書斎で何するんですか」
「大したことじゃあない。新しい本を仕入れたから読もうと思っただけだ」
「そうですか」

 だったら早く書斎に行けば良いのに。腕の隙間から見えるDIOの足は立ち上がる兆しを見せない。私を揶揄ったって楽しくないだろうに。
 DIOの手が弄ぶように私の頭を撫でた。驚いた私は反射的にその手を払ってしまったが、DIOは何も言わなかった。
 接触を許してからというもの、DIOが私に触れる頻度が増えたような気がする。私が過敏になっているだけかも知れないけれど。

「そういえば、日本語の本も数冊仕入れたぞ。暇で死にそうにしている貴様の為にな。前にやったものは全部読み終わったのだろう?」
「頼んでないです、そんなこと」
「人の親切は素直に受け取るものだ」

 親切だの素直だの、DIOには無縁すぎる言葉で違和感だ。DIOが他人を気遣うなんて天地がひっくり返っても有り得ないのに。

「岩になるのに飽きたら書斎に来い。わたしが読まない本を棚に置いていても邪魔になるだけだからな、部屋に持っていけ」

 DIOはそう言うとようやく立ち上がり、廊下の奥の闇へと消えた。私はDIOの足音が聞こえなくなったのを確認してから鉛になっていた体を持ち上げた。部屋に戻ろうとドアノブに手をかけて、少し考えた後に離した。
 このまま書斎に向かったらDIOの言いなりになっているようで負けた気分だ。行く義理も、行かなきゃいけない理由も無い。このまま部屋に戻ってベッドに身体を預けていたずらに時間を浪費してしまう方が、無闇にDIOに関わるよりもずっとリスクが少ない。気が滅入っていることだって、時間が少しずつ癒してくれるだろう。だから、書斎に行く必要なんて、どこにも無い筈だ。無い筈なんだ。
 なのに。

 仰々しい扉をノックすると、中から誰だと問う声が聞こえた。私です、と名前を名乗ると扉は独りでに開いた。目の前に大きな影が現れて、それがDIOだと気付くのに時間は必要無かった。来たな、と影は微笑んだ。意地悪そうに。
 書斎に入るのは初めてだった。書斎の存在も場所も知っていたけれど、私自身が来る理由は無かったからだ。原作にこんなところの描写なんて無かったから、DIOがこの場所を当たり前のように扱っているのは変な感じがする。
 DIOは私を迎えると、そのまま部屋の中央に置かれているロングソファーに腰を下ろした。書斎というだけあって、一般家庭のリビングくらいありそうな広さにも関わらず、壁には本棚が所狭しと並んでいる。
 触って良いのか分からない為、美術館の作品を前にするように眺めた。中に収められている本も、ざっと見ただけでも数百冊はありそうだ。ローマ字以外にも色々な文字が背表紙に並んでいるので、古今東西片っ端から集めているらしい。
 何を突っ立っている。DIOが声をかけてきた。私は口で返事をする代わりに、ソファーに座った。DIOのすぐ隣に。

「……珍しいな。これは地面から雨が降るかもな」

 DIOは鼻で笑った。こういう態度は今に始まったことでは無いけれど、 今日は何故か無性にチクチクと心臓に刺さった。じわりと滲んだ視界を瞼で無理矢理遮った。

「本当は、嫌ですけど、DIOさん以外に話せる人がいないんで」

 口にしてからしまったと思ったけれど、反射的に叩き返すように吐き出した言葉はDIOの癇に障らずに済んだらしい。DIOは思ったよりもずっと穏やかな声音で返答をした。

「……フン。良いだろう。このDIOの隣に腰を下ろすことを許可してやる。光栄に思え」
「わ〜ありがたきしあわせ〜」

 棒読みで感謝を述べてから、サンダルを脱いでソファーの上で三角座りをした。左からDIOが本のページを捲る音が一定のリズムで聞こえてくる。本に集中しているのか、私には何も言ってこない。
 部屋の前で蹲っていたときと同じように自分の顔を膝に埋めた。目を閉じると時計の秒針がとてもよく聞こえる。実家の壁時計が壊れかけていたことを思い出した。物を捨てることが下手な両親のことだから、きっとまだ居間に掛かったままなのだろう。

「DIOさんの親ってどんな感じでした?」

 ふと浮かんだ疑問が口から漏れた。
 父親はほんの少しだけ原作に出てきたが、それ以外のことは知らない。何となく予想はつくけれど。

「……随分と胸糞の悪い問いだな」
「言いたくないなら別に良いです」

 DIOは大きなため息を本に吐き出した。そのままそれを栞代わりにするように本を閉じて、もう一度大きく息を吐いた。
 軽率に踏み込み過ぎてしまっただろうか。ジョナサンのこと以上に、他人に触れてほしくない事柄だった可能性もある。原作の中でこの男が自分の親について他人に話す姿は見なかった気がする。

「………………両親とも、愚かで、大馬鹿だった。それだけだ」

 しばらくの沈黙の後、DIOが口を開いた。返答があるとは思わなかったから驚いた。

「……そう、ですか」

 それ以上言葉が続かなかった。なんとなしに浮かんだ疑問だったから、その先に踏み込むための言葉を選ぶ資格は無いと思った。例え言える立場だったとしても、きっと私はその言葉を飲み込んでいただろう。
 DIOの言葉がどんな意味を持って出てきたものなのか、私には分からない。言葉そのままの意味だけではないような気がする。彼の境遇に対する勝手な同情や、こうであってほしいという一方的な希望的観測によるものかも知れないけれど。
 きっとこんなことを考えてしまうのは気分が滅入っているせいだ。そうじゃなければ、こんなところで、こんな奴の隣に座って、こんなことを考えないのに。
 考えるだけ無駄なのに。分かっている筈なのに。

「100年って、長かったですか?」
「……そうだな。長かった。途方もなく、時間という概念も見失う程には」
「簡単に死ねないことが憎くなりそうですね」
「それはない」
「そうなんですか」
「過程は重要じゃあない。どうであったにしろ、私は死なずにこうして地上に出た。その結果が重要なのだ」
「……そう、ですか」

 そういえばこの男は結果だけを重要視する考え方だった、と承太郎に殺される直前の悪足掻きを思い出した。100年も堪えた結果がジョースターの血筋への敗北なのだから、救われない男だと思った。今のDIOはそんな結末を迎えるなんて露とも知らないけれど。
 100年。ざっくりと人間の寿命が80年だと仮定しても、更に加えて20年。私の年齢の5倍だ。そんな途方もない時間を海の底で孤独に生き長らえるというのは、一体どんな気分なのだろう。窮屈な棺桶の中で、暗闇の中で、誰と話せることもなく。
 考えるだけでも恐ろしい。私が数ヶ月で根を上げ始めている現状よりもずっと凄惨な孤独だ。自分を認識してくれる誰かがいないのならば、自分が生きていることすら証明出来ないのに。
 私が黙ったままでいると、DIOは再び本を開いた。私の頭の中は、DIOに対することや自分のことが忙しなくぐるぐると回っているのだけれど、それを上手く言葉にして吐き出すことが出来ない。霞みがかったような晴れない気分だ。私は何がしたいんだろう。どうしたらいいんだろう。どうしてこんなところにいるんだろう。私はDIOのように強くない。
 とん、と押されるように、私はDIOにもたれかかった。目の奥がじいんと熱くなってきて、無性に息を止めたくなる。二酸化炭素を吐き出そうとしたら、心臓まで吐き出してしまいそうな気がした。
 DIOは怒るだろうか。呆れるだろうか。機嫌を損ねて私の首を刎ねるのだろうか。それでも良いような気がする。私の気まぐれな行動をDIOの気まぐれで殺して欲しい。

「……重い」
「少なくともDIOさんよりは軽いつもりです」
「読み辛い」
「すいません」
「謝ることは出来る癖に退く気は無いのだな」
「……すいません」
「涙声だな」
「…………分かってる、なら、わざわざ、言わないで下さい」

 隠そうとしていた目の奥を見抜かれてしまった所為か、抑えていた嗚咽が溢れ始めた。この涙は何の為の涙なのだろうか。ぐるぐると駆け巡った情報が多すぎて、どれがスイッチになったのか自分でも分からなかった。
 抱えた両膝に瞼を押し付けた。しゃくり上げる喉を抑える為に何度も深く呼吸をした。自暴自棄になっているのはよく分かっている。DIOの力に怯えている癖に、このまま死んでしまっても良いようにも思っていて、矛盾した自分の気持ちを上手に組み上げることが出来ない。

「……私、知らないんです」
「何のことだ」
「あの教会に居た理由。分からないんです。気付いたら、あそこに居たんです。信じなくても、別に、良いですけれど」

 突拍子もない話だから一蹴されるだろう。そう思っていたが、意外にもDIOは話の続きを促した。息を整えながら、少しずつ薄れ始めているあの日の記憶を手繰り寄せた。

「……私、大学通ってて、それで下宿してて、その日、お酒飲んだら眠くなって、いつの間にか寝てたみたいなんです。起きたら、あそこにいて、わけ、わからなくて」

 上手く説明出来ているのだろうか。こんな話、上手く説明する方が難しそうだけれど。
 我ながらあまりにも現実味の無い話だ。話せば話すほど、思い出せば思い出すほど、スタンドが存在する世界でも現実味が無いのではとすら思えてくる。こんな話、DIOは信じてくれないだろう。

「…………帰りたい」

 絞り出した声を最後に、喉から出てくるのは嗚咽だけになった。

「そうか」

 DIOはそれだけ言うと、私の体を抱くように回した腕で、震えている私の肩を宥めるように撫でた。







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2016.12.28