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 ベッドに身を投げ出しながら、深々と溜息を吐き出した。胸の奥でざわざわと蠢く感情をどう名付けるべきなのか逡巡している。認めてしまってはいけないようにも思う。
 DIOが何を企んでいるのか分からない。もしかしたら、実は何も企んでいないのかも知れない。堂々巡りに陥っている自覚はあるのだけれど、こんなこと、誰にも相談出来るわけがない。
 DIOは悪人だ。ゲロ以下の臭いと称される程の、生まれながらの悪人だ。命をパンと同じように扱い、救いようのない悪に染まっていて、やがて承太郎の手によって野望半ばに死ぬ存在だ。そんな奴に対して何を思う必要があるというのか。どんな感情だって抱く必要は無い。必要無いんだ。
 脳裏に昨日の出来事が過ぎった。DIOは私に何もしないと言った。その言葉通り、明らかに私の記憶を探ることが出来る絶好のチャンスだったにも関わらず、DIOは何もしなかった。そのときも、その前の夜も。
 DIOは何かを企んでいる。私なんかに利用の価値があるのかどうかはともかくとして、とにかく、あのDIOがこんな行いをするというのは、確実に何かを企てている。そう思うべきだ。そうであるべきなんだ。それ以上の意味なんて、あの男は持っていない筈だ。
 背中に回された腕の感触と、私が触れたうなじの体温を思い出した。心臓の後ろで血の流れが激しくなるような、落ち着きの無いざわざわとした気持ちが膨らんでいく。こんなこと、考えるだけ無意味なのに。
 目を閉じた。ここ数日の出来事で疲れているみたいで、私の意識は程なくして微睡んでいった。



 誰かに揺り動かされて目を覚ました。寝惚け眼に金糸が見えて、この部屋に入ってくるのは一人しかいないことを思い出した。
 距離を取ろうとDIOとは反対方向へ寝返りをうつと、呆れたような声が聞こえた。昨日の態度とはえらく違うじゃあないか、なんて言ってくる。私としては、昨日の態度の方がイレギュラーなのだから、同じことはもう二度としたくない。
 何もしないからこっちを向け。DIOがそう言うので、私は渋々振り向いた。見下して笑うDIOの顔が目に入った。

「起きろ、名前、良いものを見せてやる」

 DIOがそう言ったときに見せてくるものは、大抵その言葉にはそぐわない。感性の違い、と言ってしまえばそれまでだが、とにかく、DIOが発するこの台詞は、私にとって決して良いものではない。けれど、変に渋ってDIOの機嫌を損ねてしまうとそれはそれで面倒なだけなので、保身的な私は身を守る為に、この男の大変有り難い講釈に付き合わせて頂くのだ。
 DIOの後ろを、引き離されないように小走りで追いかける。巨大な背中の揺れは緩やかなのに、自分の足の動きを急がせないとその足取りについていくことが出来ないというのが、無性に悲しくて惨めに感じた。
 灯りのない階段を上った。元々館の全容を把握しているわけではなかったが、こんな階段があることは露知らずだった。夜目がきくらしいDIOは薄暗い階段に物怖じする様子も無くどんどん上がっていく。私はその歩みに合わせようと(我ながらとても健気に)努めるけれど、急いだら踏み外してしまいそうでDIOとの距離がどんどん広がっていく。

「遅い」
「……寝起きなので、身体が怠くて」

 暗闇の向こうからDIOの鼻で笑う音が聞こえた。むかつくけど、機嫌を損ねられるよりはましだな、と自分を慰めた。催促の声が聞こえてきたので、私は慎重に、でも先程よりはほんの少しだけ足早に階段を上がった。けれど、先程のDIOのスピードを思うと追い付けないだろう。貧弱な私は段々と足の動きが鈍間になっていった。

「いたっ」

 下を見ながら歩いていた為に、自分の前方への注意を疎かにしていた。それによって何かにぶつかった私は間抜けな声を漏らしてしまった。

「遅い上に前を見ることすら出来ないとはな。ヌケサクでもまだ機敏に動くぞ」

 本日二度目の失笑が耳に届いた。私が追い付くまで待っていたという事だろうか。DIOには似付かわしくない気遣いに、腑に落ちない何かを感じながら再び階段を踏みしめた。
 階段を上りきると、月明かりが一筋射し込んでいる一室があった。光の先には棺桶があって、それ以外にはあまりものが置いていないように思える。室内は少し埃っぽく、普段は使われていないらしい。私の目が慣れるよりも前にDIOが何かを手渡してきた。

「落とすなよ」
「……何ですかこれ……暗くて分かんないです」

 手のひらで形をなぞりながらそれが何なのかを探るが、触感だけでは正体が分からない。球体ではないけれど、全体的に丸くて、一部には凹凸や穴があった。DIOに促され、棺桶を照らしている月明かりの下へと持って行き、両手をその一筋の中へと差し出した。

「うわっ」

 両手を引っ込みそうになったが、DIOの注意を思い出してぐっと堪えた。
 髑髏だ。しゃれこうべってやつだ。たぶん、作り物じゃない。DIOは人を馬鹿にするけれど、偽物を渡して驚かせるようないたずらをするタイプじゃない。

「以前、私の首から下の持ち主がどんな奴なのかと尋ねただろう。教えてやる」

 そいつだ、とDIOは私が持っている髑髏を指差した。

「名を、ジョナサン・ジョースターという。わたしが吸血鬼になるまでの10年足らずを共に暮らした義兄弟だ」

 これが、ジョナサン。ジョジョ。この物語の最初の主人公で、因縁を生み出した片割れで、目の前の吸血鬼が恐らくは唯一尊敬の念を認めている人物。この、私の大きくない両手で簡単に抱えることが出来てしまう、これが。
 促されるままに、私は棺桶に腰を下ろした。そんな事をして大丈夫なのかと不安を感じたが、DIOが良いと言うのだから大丈夫なんだろう。100年もその身を抱かれていた癖に、これ自体には大した思い入れは無いのかも知れない。
 DIOが私の隣に腰を下ろすので、私は反射的に距離を取った。いつまでそれを続ける気だ、とDIOの怪訝そうな声が月明かりをなぞって私の元に届く。だって、と口を開きかけて、それ以上を言葉に出せずに私は俯いた。
 DIOは溜息を一つ吐いてから、自分がただの人間だった頃のことを話し始めた。自分がどんなところに生まれて、どんな親を持って、何故ジョースター家に来て、どうして吸血鬼になったのか。漫画で知っているそれらを聞きながら、私は頭の中でテストの答え合わせをしている気分だった。
 淡々と事実だけを掻い摘んで話しているので、それらの出来事に対してDIOが何を思っているのかは分からない。月明かりはDIOの顔を照らしてくれなかったし、目が慣れてきてもDIOの表情の細かいところまでは見えなかった。唯一話してくれた心情は、DIOはジョナサンに負けた、ということだけ。ニュアンスとしては、試合に勝って勝負に負けた、という感じらしい。DIOはプライドが高いから不服に思っていそうだ。

「DIOさんの昔の話って、他に知ってる人はいるんですか?」
「いない。話したことなど無いからな。まあ、ジョースターの子孫が、もしかしたら伝聞で知っているかも分からんが」
「……そう、ですか」

 DIOは私の両手からジョナサンの頭蓋骨を取ると、何かを思案するように空洞になったその双眸を見つめた。何を考えているのか分からないこの沈黙が居心地悪くて、二人の間に立ち込めた霞を掻き消すように、私は浮かんでいた疑問をDIOへと投げかけた。

「あの……なんで、私には話したんですか。そんな、誰にも話したことが無いのなら、尚更」
「……さあな。貴様に信用してもらう為だろう」

 自分のことの癖に他人事のように話すので、少し違和感を覚えた。どこまでが本音なのかは分からない。本音なんて少しも出してないのかも知れないし、むしろ可能性としてはそちらの方が大きいと思う。

「……じゃあ、どうして私に信用してもらいたいんですか」

 薄闇の中で、DIOの眉根がピクリと動いた、ように見えた。しまった、と思ったけれど、DIOが理由を尋ねてきたので、躊躇ったけれど、私はそのまま言葉を続けた。

「……だ、だって、DIOさんにとって、私は、信じてもらいたい存在なんですか? 隠し事だってあるし、本当は、DIOさんにとって不都合な存在かもしれない」

 DIOは私の言葉を遮らず、黙ってこちらを見ている。

「実は殺した方が都合が良い、なんて可能性だってあるじゃないですか。いくら私のスタンドが邪魔するからって、昨日だって、絶好のチャンスだった筈で、なのに、何で、どういうつもりで」

 私は何を言っているのだろう。あまり余計なことを口走ってしまうと、本当に殺されてしまうかも知れない。
 それ以上言葉が続かなくなって黙っていると、話が終わったのだと判断したDIOが口を開いた。

「何だって良いだろう。わたしが話したいから話したのだ。……なあ、名前よ」

 DIOは前屈みの姿勢のまま顔だけをこちらに向けた。赤い目が光っているように見えて、私は両手を膝の上できつく握りしめた。

「貴様はそんなにわたしが信用出来ないか?」

 答えの決まり切った質問に、返事をしようとして言葉を詰まらせた。
 DIOは信用したらいけない男だ。だって、こいつは主人公の敵で、救いようのない悪人で、他人を簡単に殺す男だ。私の事だって、ほんの気まぐれで赤子の手をひねるように息の根を止めてくるかも知れない。信用に足る要素なんて何一つ持っていない。そんな奴を、どうして信じることが出来るっていうんだ。
 けれど、そんなことを当の本人に言えるわけが無い。言えないから、私はこうしてずっとこの男のところに居る。
 返答を躊躇っている間、DIOは私の言葉を待っていた。催促もせず、堪えきれずに話し出すようなこともせず、私の顔をじっと見て待っていた。今日のDIOは妙に優しい気がする。気味が悪いくらい。

「……DIOさんは、どうして私に何もしないって言ったんですか」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか」

 回答を渋りそうな質問だと思ったのに、予想外にあっさりとした反応だった。話術に長けてるこの男のことだから、それらしい理由を並べることは造作も無いのかも知れない。質問の選択を間違えたような気がする。

「殺すには惜しいと思った。それだけだ」
「……そうなんですか」
「物事というのは案外単純なものだ、名前」

 いつの間にか私との間を詰めていたDIOの手が伸びて、私の頭に触れた。人に自分の頭部を撫でられることなんてそうそう無いのだけれど、あまり嫌な気がしなくて、そういう自分が信じられなかった。
 DIOを信用してはいけない。信用なんてするべきじゃない。なのに、私は、とても恐ろしいことなんだけれど、この悪党を、信用したいと思ってしまっている。







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2016.9.10