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 これはあまりにも大きな失態だ。
 まるでそう言わんばかりに名前の顔は強張り、絶望の色に染まっていた。このわたしが階段から落ちそうになっているのを助けてやったのにも関わらず、だ。今までもそうだったが、わたしは相当に嫌われているらしい。
 ザ・ワールドは、名前の背中と膝裏を両手で抱えたまま空中で静止している。名前が階段を踏み外したとき、確かに射程距離内ではあったが、それとは別の奇妙な出来事が名前を抱きとめることを成功させていた。奇妙だった、と認めていいものなのか、わたしの錯覚か何かなのではないか、と疑問が浮かぶのも致し方ない、本当に奇妙な出来事だ。
 一瞬だ。ほんの一瞬、それこそ目の錯覚で終わらせるのが当然の刹那だ。名前が、階段を踏み外した名前の身体が、静止していたように見えたのだ。
 気のせいで終わらせてはいけない出来事に思う。名前が以前言及していた、わたしのスタンド能力の事を思い出した。静止。時。時を静止。安直に繋げて良いのかも分からないが、試してみる価値はあるだろう。
 ザ・ワールドがいる真下が階段である事を知らないのか、名前は手足を大きくばたつかせて、己よりもずっと屈強な腕から逃れようとしている。明らかに無駄な足掻きだというのに。

「や、だ、やだ、やだ!」

 ずるり、と名前の身体から液状のスタンド(確か、名はエデンと名付けていたか)が発現される。しかし、それが名前の身体を包み込むよりも前に、ザ・ワールドで名前の首を緩く掴んだ。出来る限りの優しい声音でスタンドを仕舞うように頼めば、名前は従順に己のスタンドを肌から消した。
 一歩ずつ、ゆっくりと名前に近付く。挙動不審に右往左往している名前の目線は、わたしに焦点を合わせることは無く、名前のすぐ前に着いたとき、弱々しく怯えた声だけがわたしの元に届いた。

「は、はな、して、ください」
「それは無理だ」
「……」

 両手を震わせる名前は、ザ・ワールドが首から手を離すと、不自然にわたしを見て、何かのタイミングを窺うように慎重に自分の手を胸元へと持っていった。わたしの隙を見て再びスタンドを出す気なのだろう。怯えている癖に図太い神経は持っているようだ。

「スタンドを出したら殺す。貴様のやわなそれが己の身を守るよりもザ・ワールドが貴様の首の骨を砕く方がずっと早い。試したいというのなら、わたしは止めないが」

 図星だったらしい。わたしの言葉に身を震わせた名前は消えそうな声で何度も謝りながら、精一杯身体を小さく丸めて両腕で顔を隠した。抵抗のつもりだろうか。まるで子猫を抱えているような気分になる。
 わたしが名前の肩に触れると、名前はその肩を大きくびくつかせた。恐怖から荒くなった呼吸の音が聞こえる。

「何もしないと言っている」
「う、うそ、嘘、うそ」
「嘘ではない」
「お、おろ、して、ください」
「それは無理だ。貴様が逃げるだろう」

 顔を隠している名前の両腕を掴んだ。最初は抵抗していたらしいが、人間の女(しかも名前は女の中でも非力な部類だ)がこのDIOの力に敵うわけもなく、名前の腕はあっさりと隠していた顔を見せた。色を失って怯えた目と視線が交わった。

「名前、怖がるんじゃあない」

 振り払おうとする腕を押さえたまま、もう片方の手で名前の頬を撫でた。名前の口から引きつった声と乱れた呼吸が漏れ出し、双眸はわたし以外の方向へと右往左往している。顎の震えが小さな振動になってわたしの手の平を僅かに揺らした。

「名前」

 もう一度、名前の名を呼ぶ。わたしを見ろ、と俯いていた顔を無理矢理上げさせた。怯えた瞳が、わたしの瞳と絡まる。

「最後にもう一度だけ言う。わたしは何もしない。お前には、何もしない」

 名前の口は何度も、嘘、と零し続ける。思った以上に疑り深い。どうやって信用させるべきか。

「怯える必要は無い。安心しろ、安心するんだ」

 言葉ではいくらでも言えるが、名前にはあまり効果を示さないらしい。何を言っても目の色は恐怖から変わらないし、全身の震えも止まない。昨晩は全く抵抗しなかったというのに。どうしたものか。
 ジョジョのスタンドを使ってしまうのも始末が悪い。ここまできたらという意地も若干あるが、それよりもこの女は信用させた方が利益があるように思う。以前の戯言を本気にしているわけでは無いが、そういうつもりは毛頭無いのだが、仮に、もし本当に『この先起こることを知っている』とするのなら。そうでなくとも、予測であったり、予知であったり、何かしら情報を得る手段を持っているのだとするのなら……いや、考えすぎか。この女のスタンド能力は見ての通りで、通常はスタンドを二つ以上持つことは出来無い。この世の中にスタンド以外で超能力のような力が存在するというのなら話は別だが、それは最早御伽噺の類だろう。
 しかし、名前のスタンドは恐らく防御に特化したものだ。今の所自分の身を守ることしか出来ないようだが、発現時のようなコントロールを自分の意志で出来るようになるかも知れない。単純な話、これを手放すのは惜しい。

「名前」

 もう一度名前を呼んだ。名前の身体は震えたままだし、呼吸も荒いままだ。わたしは抵抗されなかった昨晩のことを思い出しながら、あまり気が進まないのだが、ザ・ワールドから名前を降ろした。意外だったのだが、名前は逃げようとはしなかったので(足がすくんでいるのかも知れない)わたしはそのまま名前を腕の中へと導いた。抱き上げられたことに名前は小さな悲鳴こそ上げたが、抵抗する様子は無い。身体が硬直しているからそこまで頭が回っていないのだろう。

「わたしを信用してくれ」

 名前は身体を硬直させたまま何も反応しない。あまりにも無反応のまま沈黙が流れるので、もう一度名前を呼んだ。名前は意識が飛んでいたのか知らないが、我に返ったように身体を一度震わせると、まだ混乱が残ったように辿々しくだが、幾許か振りに口を開いた。

「あ、の、お、降ろして、ください」
「逃げるだろう」
「に、逃げない、です、だから、あの、お、おろ、降ろして、ください」

 震えた声には涙が混ざっている。そんなに怯えられるようなことはしていない筈だが。まあ、良いだろう。
 腕の中に収めていた身体を床に降ろすと、名前は足をもたつかせながら床に尻餅をついた。たかがこれくらいで腰を抜かすとは情けない。笑うと、真っ赤な顔で睨まれた。

「……ほ、本当、に、私に、何もしませんか」
「何度も言わせるな。わたしは無駄なやり取りは好きじゃあない」
「……す、いません」

 これは、そろそろ大丈夫だろうか。
 わたしは座り込んだ名前に視線を合わせるようにしゃがみ込み、涙で潤ませた目の下に指を這わせた。ほろり、と零れた涙はわたしの指に乗り、曲げた関節の隙間へと吸い込まれた。
 最後にもう一度、名前を呼んだ。俯いた顔を優しく持ち上げ、逸らされていた目線を合わせた。

「わたしを見ろ」

 名前と視線が交わった事を確認し、わたしは両手を軽く広げた。名前はその意味を察したのか、いくらか躊躇う様子を見せたが、そろそろと鈍間な動きでわたしの首へ腕を回した。わたしも名前の背中へ腕を回す。名前の腕が強張ったのをうなじで感じた。
 面倒な女だ。いや、女がそもそも面倒な生き物なのだから、この女もそれに忠実に動いたまでだろう。これは無駄な行為ではない。この女を利用出来るようにする為の第一歩となる筈だ。
 わたしの微笑みを名前は知らない。







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2016.8.30