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 目を覚ました。
 思ったよりも深く寝入ってしまったらしい。夢を見ぬ程寝入る事など、もう無いと思っていたのだが。
 腕の中に名前はいなかった。普段なら女一人が部屋から出て行く気配なんて簡単に気付ける筈だというのに。昨晩の行動といい、夢といい、わたしらしくもない。
 夢、か。
 昨晩は嫌な夢を見た。思い返す事すら胸糞悪い、昔の夢だ。もう終わった事を自らの脳に掘り起こされるとは。たかが夢に。我ながらなんと情けない事よ。
 身体を起こすと、床に転がる数人の女が視界の端へ入ってきた。そういえば、昨晩気が立って食い荒らしてしまったのだったな。
 スタンドを出して転がっている女の一人の頭を掴み上げる。身体が硬直しているのか、首が曲がりきらずに上半身も少し浮いた。持ち上げた女の顔は不自然な方を見ながら固まっている。血を大して吸っていなかったらしく、絨毯は女達の血が滲んで染みになり、広範囲が赤黒く汚れていた。なかなか気に入っていた柄だったのだが、まあ、また買い直せば良いだろう。
 外は日が昇りきっているらしい。完全に封鎖した窓の向こうから、僅かにだが人間共の喧騒が聞こえてくる。
 昨晩の事を思い出す。
 夢見の悪さに焦燥していたとはいえ、昨晩は些か愚行であった。本当に、らしくもなく、気が迷ってしまった。名前の秘密を探る絶好のチャンスでもあったというのに。時間はいくらでもあるとはいえ、こう何度もチャンスを逃しているようでは、慢心しているとしか言えまい。わたしの悪い癖だ。治すよう、意識をせねば。
 だが、昨晩の反応を見るに、わたしに対する警戒心は減っているように見える。スタンドを出す事も無ければ逃げるような態度も無かった。存外、懐柔させるまであまり時間は掛からないのかもしれない。
 確か、今日は特に用事も無かった。日が出ている時間は館から出る事は出来ない。ならば、本でも読もうか。漠然と考えている内容を具体化させる為にも、知識がもっと必要だ。まだ、知らなければならない事が山ほどある。





 マライアの爆弾発言による精神の乱れを落ち着ける為にパンとスープをひたすら胃に流し込んでいたら胃が破裂しそう。馬鹿なのは私だという事は重々承知している。やけ食いしないとやってられない。
 右を向いて寝転がっていた身体を仰向けにした。お腹の苦しさが増したような気がして、再び右へと転がった。壁には、何時ぞやに私が空けたのだという穴が点々と開いている。
 こちらに来てから、人と会う事が恐ろしい程に疲れるようになった。この館の人間は気を許せない人しかいない。元々人見知りが激しいけれど、今回ばかりは私の性格じゃなくて会う人間達が原因だと思う。私は悪くない。
 誰か、誰でも良いから、気を休める相手が欲しい。この人は私に何もしないと確信出来る人が欲しい。その人の隣で安心したい。今のところテレンスが1番それらしい候補な気がするけれど、趣味が趣味だしな。無理だわ。
 陽はもう傾き始めていた。今日もまた夜が来る。吸血鬼の活動時間である、夜だ。たぶん、そろそろDIOは起きてくる。
 あんな事の後だから顔を合わせたくない。DIOがこの部屋に来るのは不規則的だから、今日は来るかも知れないし、来ないかも知れない。来ない事をひたすらに祈るばかりだけれど、来てしまうような気がする。ここ2日くらい来ていなかったし、昨晩の一件について何も言わないままでは終わらないように思えた。
 何を言われるのか分からないというのは恐怖だ。相手の反応が怖い。侮辱されるかも知れないし、怒りをぶつけられるかも知れない。どちらにせよ、惨めな気持ちにさせられるのだろう。自分が愚かであることを知らしめられるのは悲しい。いくら自覚していても、その苦痛は和らがない。

 いつの間にかうつらうつらとしてきた頃、ノックの音が3回鳴った。ハッと覚醒した脳が、訪問客の正体を予想して、ほとんど反射的に己の気配を感じさせないように息を潜めて身体を固めた。けれど、鍵の壊れた扉ではその努力も虚しく、訪問客の侵入はいとも簡単に行われた。その正体は、寝起きの頭が立てた予想の通りだった。私の顔を見た真っ赤な目が見下すように笑った。

「……何の用ですか」
「随分と不機嫌じゃあないか」

 DIOと顔を合わせるときに機嫌が良かった記憶が無いのだけれど。余計な事は言わないでおくのが吉だ。DIOの顔を見る事が出来ない私は、誤魔化すように壁に空いた穴を見た。DIOは何も言わない。
 沈黙が苦痛に感じたのは何度目だろう。今すぐ耳を塞ぎたい。DIOの口からどんな言葉が出てくるのか分からない。怖い。惨めになりたくない。

「……と、トイレ行きます」

 たった数秒の沈黙にも堪えきれなかった私は、DIOが数歩こちらへ近付いたタイミングを見計らって、DIOから離れるように扉へ走った。ドアノブを握りながら押して、DIOの顔は見ないようにして。

「待て」

 無視をすれば良いのに、臆病な私はDIOの声に身体を怯ませた。恐々と回れ右をする。不満げな顔をしていた。
 DIOが一歩を踏み出すと、私は一歩と少し後ずさった。DIOが二歩踏み出す。私は三歩後ずさる。DIOの顔が段々と怪訝な表情になってきた。

「名前」

 低い声が、地底から轟くように私の名を呼ぶ。床へ根付きそうになる足を引き千切るように、後ろへ、後ろへと動かした。DIOは私の目を真っ直ぐに見ている。

「な、んですか」
「何故逃げる」
「なぜ、って、別に」
「逃げるんじゃあない」

 DIOのスタンドの射程距離を思い出す。確か、承太郎が2mくらいだったから、DIOも同じくらいだったと思う。今、私とDIOの間にある距離は、たぶん目測で3mくらい。この距離は何としても保たねばならない。

「て、丁重に、お断りします」
「昨晩は逃げなかったじゃあないか」
「だ、って、昨日は、突然、でしたし」
「では、不意打ちなら逆らわない、と?」
「そういうことじゃ、ないですけど」

 気不味く視線を右往左往させると、DIOはこの上なく優しい声音で、けれど厭らしさを垣間見せる笑顔で言葉を続けた。

「わたしは何もしない。スタンドも使わない。貴様が隠している何かを無理に暴くような事もしない。約束しよう」

 DIOの真っ赤な目が、私の両目を真摯に見据えている。表面だけ見れば、の話。
 嘘だ。絶対に嘘だ。
 DIOの人間性に誠意という言葉は無い。私が知っている過去と未来がそう語っている。私なんかを信用させようとするなんて、絶対に何かを企んでいる。確信を得るだけの情報を、私は持っている。

「……く、口では、いくらでも言えるじゃ、ないですか」
「ふむ。では、どうしたらわたしを信用する?」
「……ど、どうやって、って」

 じり、じり。DIOは躊躇いもなく、一歩一歩確かに距離を詰めてくる。私は同じ歩数だけ後退しながら、この廊下の長さを思い出そうとした。後ろを見る事は出来ない。きっと、振り返った瞬間にDIOに捕まってしまう。
 どうやっても何も、私がDIOを信用する事など有り得ない。彼に対しての持ち得る知識がそう言っている。だって、この男は、悪い奴だ。
 私が首を横へ振る度に、比例するようにDIOの眉間は深い谷を作っていく。これ以上この男の神経を逆撫でしてはいけない。そう分かってはいるが、だからと言って歩み寄っても結局同じ結果が待っているだけだ。
 何歩目か分からない後退をしたとき、不意に足の力が抜けた。いや、抜けたというよりは、足の力を受け止める先が無いというか、足が不自然に空ぶっているというか。
 つまり。

「……あっ」

 私は今倒れようとしている。倒れる先が階段の下だという事も分かっている。けれど、それを防ぐ術なんて持っていないし、何より身体が動けるだけの余裕も無い。打ち所が悪くない事を祈って、背中に来るであろう衝撃への心構えとして目を閉じた。
 心構えはしていた。
 なのに、どうした事だろうか。想定していた衝撃らしいものは一切無い。1秒。2秒。落ちるには長すぎる時間を感じて、流石に違和感を覚えた私は瞼を開いた。
 不自然に浮いた自分の身体と、それを支えている黄色い影。この影は、人じゃない。スタンドだ。

「……射程距離からそう離れていなかった事を有り難く思うんだな」

 全身の血が何処かへ消えてしまったのかと錯覚した。私を支えているのは、DIOのスタンドだ。ザ・ワールドだ。
 私は、DIOの接触を許してしまった。







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2016.8.23