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 目を覚ますと目の前に吸血鬼がいたときの心情を10字以内で述べよ。死ぬかと思った。8文字。いやそうじゃなくて。
 冗談じゃなく、死ぬかと思った。
 目の前の男はまだ眠っているのか(そもそも吸血鬼は睡眠を必要とするのだろうか)均一な呼吸音が微かに聞こえた。互いに寝相が良かったのか、単にDIOの腕力が強かったからなのか、眠りに落ちる前の姿勢と今の姿勢はほとんど変化が無かった。つまりは、私はまだDIOの腕の中にいる。潰されなくて良かった、なんて思うのは寝呆けているせいだ。
 昨晩の一件を考えれば考えるほど、今こうして自分が無事でいることが不思議でならない。運が良かったのだろうか。それとも、DIOが何かを企んでいて、これもその策略の一端……なんていうのは、さすがに考えすぎか。
 動けない身体を少しずつ捩って、ようやっとDIOの腕から抜け出した。身体を起こし、暗がりの中で眠っている吸血鬼の顔を覗き込む。本当に寝ているのか、DIOは呼吸も乱さなければ、長い睫毛を震わせもしない。寝ている振りなんていくらでもしていそうな癖に。
 試しに、と腕を突いてみたが、一瞬反応を見せただけで瞼を押し上げることはなかった。手のひら全体で腕を触れてみても、撫でてみても、反応らしい反応はない。
 これは、本当に寝ているらしい。
 日が出ていない事をこれ程悔しいと思ったことはない。今が夜明け前なのか、日が落ちた後なのかは分からないけれど、日が昇っていたら、今すぐにでもこの部屋の窓を開け放っていたのに。きっと昨晩死なずに済んだ事で運を使ってしまったのだろう。運の良い奴め、と心の中で毒と唾を吐いた。
 ベッドの端に座ろうとして、暗闇に慣れた目と忘れっぽい脳を恨んだ。足を投げた先に、冷たくて嫌な感触がぶつかり、反射的に足元の女性の死体を見てしまった。小さな悲鳴を飲み込みながら、急いでベッドの上へと足を戻し、体内で暴れる心臓がDIOを起こしてしまわないように、ベッドの後方、出来るだけDIOから離れた位置で深呼吸を繰り返した。
 私は生きている。私は生きている。
 あれはただの食料だ。私とは違う。似た姿をしているだけで、あれはただのDIOの食料だ。
 震える両手で溢れ出す涙を拭った。恐怖を掻き消すには、床に横たわっているあれらを人と認めるわけにはいかなかった。あれはDIOの食べ物で、私と同じ人間ではないのだ、と自分で自分に暗示をかけるしかなかった。
 目を閉じて深呼吸を繰り返していると、ゆっくりと胸を叩く律動が激しさを消していった。深く細くフーッと息を吐き出すと、ようやく鼓動は穏やかさを取り戻した。一気に緊張した所為か、無性に怠さを感じたので、DIOの足にぶつからないようにベッドに寝転がった。
 今は何時なのだろうか、と視線を部屋の上部に寄せながら部屋を見渡した。どうやらこの部屋に時計は無いらしい。永遠を生きる吸血鬼様には時間という概念は必要ないのだろう。しかもこの後かもう能力に気付いたのかは知らないけれど時を止めるしな。お強いことで。まあ死ぬけど。
 ……死んじゃうんだよなあ。
 吐き出した息に声にならない程の独り言を混ぜて、暗闇の中に溶かした。DIOの肩は静かに上下している。
 目の前にいる男はやがて死ぬ。本人が思っているよりも、ずっと早く、ずっと無様に。永遠を生きるであろう筈だった吸血鬼にも、死と無縁でいる事は許されなかった。そうであるべきだとも、そうならなければならないとも思う。
 ンドゥールに会ったときもそうだったが、今こうして目の前で生きている人が、いつ、どうやって死んでしまうのか知っているというのは、些かおかしな気分だ。そもそも、現実には有り得ない世界が現実になっている、という事からもう既におかしいのだけれど。
 身体を起こして沈黙しているDIOを見た。私の頭がおかしいだけで、実際は私はどこの世界にも迷い込んではいないのでは、なんて事は数え切れないくらい考えた。長い夢だとも考えた。けれど、いつまでも目は覚めない。だって、もう既に目は覚めている。
 裸足のまま、抜足差足で、床に転がっている物に触れないように、ベッドから離れてゆっくりと扉を開ける。ギリリと蝶番が軋む音に急き立てられながらも、慎重に部屋から抜け出した。一度ベッドが軋む音が聞こえたが、何事も起きなかった。幸い、廊下は灯りがついていた。
 できるだけ早くDIOから離れようと、小走りで廊下を進んだ。頭の中で昨晩の記憶がぐるぐると巡っている。DIOに触れられた背中や頭、DIOに触れた手のひらが、熱を思い出した。引きずられるように、顔の温度も上がっていく。
 私が抱くべき気持ちは、後悔や恐怖や嫌悪でなければいけないはずなのに、そのどれにも当てはまらない気がした。胸中を燻るこの感情は、人間を辞めた化物に対して、死ぬと分かっている男に対して、抱くべきものではない。
 認めない。私は絶対に、認めない。
 だって、これが、もし本当にそうなのだとしたら、自分があまりにも大馬鹿もので、愚かで、救いようがないじゃないか。





 部屋に戻ってすぐに寝てしまったらしい。人の声と、差し込む日の光で目が覚めた。時計と外の景色で、もうとっくに日が昇りきっている事を知った。鳥の鳴き声が聞こえる。あれは、ペットショップだろうか。
 窓を開けて、ぼんやりと遠くを眺めた。頭の中だけが忙しなく思考を巡らせている。自分にしか理解出来ない言語と感覚で、目紛しく色々な事が駆け回った。
 DIOは何故あのような行動を取ったのだろう。何故私と気付いた途端に首から手を離したのだろう。何故ジョナサンのスタンドを使わなかったのだろう。
 考えても考えても、私の思考が及ぶ範囲では答えが出せない。自分が特別であるという都合の良い捉え方だけはしたくない。知っている人間だから殺さなかっただけだ。きっとそうだ。私が考えすぎるだけで、物事というのは兎角単純なものだ。
 そうであるべきだ。
 不意に、ぐううと腹が鳴った。そういえば、今日はまだ何も食べていない。テレンスかエンヤ婆がご飯を作り置いてくれていると期待して、部屋から出る事にした。この時間のDIOは部屋に引きこもってるだろう。たぶん。DIOの部屋が一番日光対策してるみたいだし。
 外は眩い程に明るかったというのに、廊下は相変わらず薄暗い。家主の命取りになってしまう以上は仕方がないとはいえ、この館は人間にとってつくづく不健康的だ。私の部屋が南向きで本当に良かった。何度でも思う。
 サンダルでペタペタと野暮ったく階段を下りて、ダイニングルームへと向かった。丁度お昼時だったのが幸いしたのか、誰かが昼食を取っていた。テレンスかな。

「ぐっどもーにんぐ」
「You finally got up.」
「あっ、お、おはようございます」

 食事中だったのはマライアだった。まさかこの人がいるとは思わなかったので咄嗟に通じもしない日本語で挨拶し直してしまった。英語で何を言われたのかは分からないけれど、たぶん優しい言葉じゃない。
 恐らく彼女からは良いように思われていないので、無駄な摩擦が起こらないように台所へと直行した。テーブルの上にはマライアが食べている分のご飯しかなかったので、何か食べるものがあるとしたら台所だろう。案の定、マライアの皿に盛られていたものと同じスープと買い置きされたパンがあった。スープはテレンスかエンヤ婆が作り置いたのだろうか。ありがたく頂きます。
 パンを切ってマーガリンを雑に塗ったくり、皿にそれっぽく並べて、別の器に注いだスープと一緒にテーブルへと運んだ。一方的に気不味い気がして、マライアとは少し距離を取って座った。いただきます、と小さく呟き、スープを口に含んだ。美味しい。
 マライアも私も無言のまま、スプーンが食器を擦る音だけが聞こえる。漫画として楽しんでいた頃は結構気に入っているキャラクターの一人だったけれど、言語の壁もあってか、出会う人々に対してどんどん苦手意識ばかりが固まっていく。いやでも、言語の壁が無くてもたぶん上手に仲良くなれない。テレンスとホル・ホースは例外すぎた。
 当然だが、マライアが先に食事を終わらせた。食器を片付けると、そのまま部屋から出て行くのかと思いきや、再び同じ椅子に腰を下ろした。お代わりを持っているわけでもないし、食後にコーヒーを一杯というわけでもない。頬杖をつきながら、私の方を見てくる。とても気不味い。スープは冷めてきてるのに今になって汗が出てきた。

「Hey.」
「へっ、あ、はいっ」

 マライアが椅子から立ったかと思ったら、遂に私に話しかけてきた。そのまま、躊躇う事もなく私の隣の椅子へと腰掛けた。綺麗な足を組み、頬杖をついて、私の顔を見た。何の感情も込もっていないような表情で、どんな考えで私に声を掛けたのかは全く分からない。
 緊張から不自然に声が裏返ってしまった私は、マライアの視線に耐えられずに俯いた。あの、私のようなゴミがDIOに生かされていてすいません。

「Have you had do with DIO?」
「え、え? DIOさん? え?」

 DIOとなんだって? ネイティブな英語にいつまで経っても慣れない。他言語に囲まれて数ヶ月経った人間とは思えない能力の停滞っぷりである。テレンスに英会話教室を頼んだら引き受けてくれるだろうか。

「Ah... Sex? With DIO?」

 せっくす? え? セックス?
 今この美人セックスって言った? DIOと? 私が?
 手に持っていたパンが床に落ちた。

「せっ、はあ!? ノー!! ネバー!! ノー!!!!」

 思わず立ち上がって声を荒げてしまった。必死に首を横に振り回したら頭から血の気が引いたのか立ち眩みが起きたので、転ばないように両手でテーブルを掴みながらゆっくりと椅子に座り直した。驚きのあまりスープを吐かなくて良かった。

「あ、えと、あの……、私とDIOさんそういう関係じゃ……の、ノーせっくす、あいむ、ば、ばーじん、です」
「He-he-he, pray forgive me. You've gone all red!」

 宥めるように肩を軽く叩かれた。笑われている事から、邪険にされているわけではないらしい。
 顔の熱を散らしながらこの会話は一体何なんだと今私の身に起きている事を冷静に認識しようと努めていると、マライアは自己紹介をしながら握手を求めてきた。握手に応じながら、あなたの事は漫画で少しだけ知っています、と心の中で挨拶をした。マライアは私を知っているらしく(たぶんエンヤ婆とかDIOとかから聞いてるのだろう)自己紹介をするより前に私の名前を呼んだ。
 それ以上は何か会話をするわけでもなく、マライアは一言二言何かを残して部屋を出て行った。たぶん私が英語を話せないから会話を諦めたんだと思う。なんかそれっぽい顔してた。日本人でごめん。







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2016.3.31
マライアは女の子の事を邪険にはしてませんが下には見てます。