26







 雨の止まない真夜中だった。
 突然部屋に上がり込んできたヴァニラ・アイスに首根っこを掴まれたかと思うと、乱暴に部屋から引きずり出された。そのまま館の廊下を歩かされ、歩幅の差に悲鳴を上げながらやっとの思いで後を付いていったかと思うと、3階の一室に放り込まれるように通された。
 部屋には光がなく、廊下の電灯が部屋の中を扉の形に照らしている。四角形に切り抜かれた絨毯の模様以外に、暗闇に慣れていない目では部屋の様相は分からない。
 状況が飲み込めず、原因のヴァニラ・アイスを見ると、英語で何かを言ったらしいが聞き取れないまま扉を閉められた。光源を断たれ、絨毯の模様すらも分からない闇の中で、どさりと大きなものが床に放られる音がした。それが何なのか分かってしまったとき、目が暗闇に慣れたことを後悔した。
 女性の死体だ。
 しかも、1人だけじゃなく、少なくとも3人は転がっている。
 突然飛び込んできた状況に、とにかくこの部屋から脱出しようと、扉があった方向へ駆け寄ろうとした。
 しかし、それは何者かに捕まったことで叶わなかった。一瞬の浮遊感のあと、何か柔らかいものの上に仰向けに倒された。さらさらした布の手触りから、ベッドの上だと思う。
 起き上がろうとしたら、押し付けるように首元を絞められた。呼吸が出来ない程ではなくとも、息苦しさに何度か噎せた。暗さに慣れてきた目で前を見る。
 私の喉を押し付けている主はDIOだった。赤いであろうその瞳は、明らかな殺意を持って私を見下ろしている。息は荒く、顔の筋肉も強張っている。何も纏っていない上半身は、その白い肌に点々と黒い影がついていた。たぶん、血だ。
 拘束から逃れようと、本能的に全身で暴れるが、もがけばもがく程、DIOの腕の力は強くなっていった。気道が押し潰され、混乱も相俟って呼吸が上手く出来ない。苦しい。
 殺されてしまう。

「でぃ……でぃ、お……さ……」
「……なんだ、貴様か」

 やっとの思いで声を絞り出すと、DIOは組み伏せている人間が私だと気付いた。そもそも私だと気付いていなかった事に驚いた。周りが見えなくなるような事がDIOにも起こるなんて思わなかった。
 DIOは腕の力を緩めて私の喉を解放した。正直、私だと気付いてもそのまま絞め殺されるかと思ったので、なんとか繋ぎ止めた命に感謝をした。ゴホゴホと咳をしながら、DIOから後ずさる。枕ひとつ分程の距離をとって、DIOの様子を伺った。
 DIOは息を荒げたまま、ベッドに胡座をかくような姿勢で座り込んだ。舌打ちをしながら、片手で目と額を覆って項垂れる様子は、まるで、苛立ちを落ち着けようとしている人間みたいだ。

「あの……だっ、だいじょう、ぶ、ですか」
「……何でもない。少し、夢見が悪かっただけだ」

 ベッド脇の小さな机にランプがあったので、体を起こしながら電源を入れてDIOと向き合う。視界の端に、床に横たわる女性の死体が見えたが、そんなものは無いと自分に言い聞かせた。

「DIOさんもそういうときがあるんですね」
「……吸血鬼だって夢を見る事くらいある」

 DIOのその一言を最後に、沈黙が流れた。こんなに焦燥しているDIOを見るのは初めてだったから、冗談を言う事はおろか、なんと声をかけるべきかすら頭が回らずに思い浮かばなかった。悪のカリスマとか何とか言われている吸血鬼が、こんな、人間みたいな顔をするものなのか。
 風と雨が窓を叩く。小さい音なのに、異様に部屋の中に響いているような気がする。沈黙が私に気まずさを押し付けてくるようだ。何を言うべきなのか懸命に逡巡する反面、どうして自分を殺しかけた奴に気を使わねばならないのだろうとも思う。けれど、やっぱり、この男との沈黙は好きではない。
 不意に腕を引っ張られた。不意打ちに反応出来るほど反射神経のない私は、その衝撃に抗える余裕なんて無い。腰を掴まれたと思うと、私の体は倒れていた。顔には冷たい感触があって、私の体の両脇には大きな腕が伸びていて、つまり、どういうことかっていうと。

「あ、あの、ちょっと、でぃ、DIOさ」
「黙っていろ」
「す、すいません」

 DIOは両腕を私の背中に回し、思い切り、でも絞め殺さない程度の強さで抱きしめてきた。腕の中にいるのにあまり暖かくないと感じるのは、私の抱擁に対するイメージが間違っていたのか、腕を回してきているのが吸血鬼だからかなのかは、私に比較出来る経験が無いという虚しい事実故に分からない。
 スタンドを出す暇は無かった。どうやら私のスタンドは私の意識と連動しているようだ、なんて考える余裕は私の頭にはあるらしい。それか、自分でも不思議なのだけれども、今の状況に嫌な気がしないから出てこなかった、のだろうか。いや、それはたぶん、気のせいだろう。うん、気のせい。気の迷いだ。一瞬脳裏をよぎった考えを即座に打ち消した。
 黙れと言われてしまった為、口を開かずにDIOの抱擁を身に受ける。腕の力が緩んだので、先程の事も含めて何のつもりだろうかと見上げると、少し身を起こしたDIOと目が合った。暗がりでハッキリとは見えないが、でも、綺麗な顔立ちだと、素直に見惚れてしまった。心なしか、良い匂いもする。
 DIOは表情を変えないまま、ゆっくりと私の方へと顔を近付ける。DIOの顔が、私の顔に重なるように、眼前へと迫ってくる。
 え、いや、ちょっと、まさか。
 体が硬直したまま、反射的に目だけをぎゅっと閉じた。再びDIOの両腕が私を包み、顔に来ると思っていた感触は、その横を過ぎて肩に来た。直後、耳元から笑い声が聞こえた。

「間抜けな顔だったな。キスでもされると思ったか?」
「きっ、や、そ、そういうのじゃ、ないです。あと、くるしいです」

 かあっと顔に熱が集まった。からかわれただけだったらしい。勘違いをした自分が恥ずかしくて、惨めな気分になった。
 くつくつと笑う声と振動が耳のすぐ横から伝わってくる。DIOが喋る度に息が肩にかかってむず痒い。結構心臓がうるさく鳴っているのだけれど、これはDIOに露見しているのだろうか。気付かれていないことを祈るけれど、これだけうるさいと気付かれているのだろう。顔が熱いせいか、DIOのむき出しの肌の冷たさが心地良くすら感じた。
 DIOは肩口に鼻腔と口をぴたりとくっつけ、何度も深い呼吸を繰り返している。血を吸われるのかも、という恐怖も一瞬脳裏をよぎったが、そういえばこの吸血鬼は指を刺して吸血していたと思い出して、少し気持ちを落ち着けるために私も深呼吸をした。先ほど感じた良い匂いが再び私の鼻腔をくすぐった。
 シャワーを浴びたあとで良かった、なんて考える私は間抜けなんだと思う。まさに無抵抗の今なら、念写されてもおかしくないし、殺される可能性だって充分にある。あれだけ警戒していた事を、こうもあっさりと突破されてしまったのだ。今のDIOが何を考えているのかなんて見当もつかない。見当がつかないからこそ、何をされてもおかしくない。なのに、なのに。
 再び沈黙。
 自分の脈が激しく打つ音が、殴りつけるように耳の奥へよく響いた。呆けてる脳に目を覚ませと訴えているのかも知れない。けれど、間抜けな私はこの腕の中から逃げ出す事は出来なかった。警戒をしているのなら、暴れてでも抜け出すべきなのに、私は、どうしてかこの抱擁を甘んじて受け止めてしまっている。打ち消したはずの考えが再び意識の底から顔を出してきた。
 やっぱり、沈黙は駄目だ。

「……DIOさん、質問して良いですか」
「なんだ」
「どんな夢見たんですか」
「……答える義理は無い」

 私の体を覆っている腕の力が強まった気がする。息苦しいが、それを訴える勇気は無かった。たぶん、この質問は、今のDIOには地雷だ。うっかり苛立たせてしまった所為で体が背中に向かって二つ折り、なんて事態は避けたい。知らぬが仏、言わぬが花、というやつだ。

「……てっきり、暴れるかと思ったが」
「何がですか」
「お前がだ」
「暴れたところで吸血鬼の腕力には勝てませんし」
「吸血鬼じゃなくても勝てないだろうな」
「そーですね」

 首元のくすぐったさに身を捩らせたとき、DIOの顔が肩から離れた。息苦しさからは解放された筈なのに、どこか名残惜しさを感じてしまったのは、気のせいだと思いたい。
 DIOは最初に私を抱きしめてきたように、私の横に寝転がった。でも、腕はまだ私を拘束したままだ。この男の真意がいまいち分からない。今までも散々分からなかったけれど、今の状況は殊更理解が出来ないと思った。
 行き場を失ったまま胸の前で硬直させていた腕を、左腕だけ、ゆっくりと、DIOの背中に回した。どうしてそんな事をしようと思ったのか、自分でもよく分からないのだけれど。たぶん、この異質な雰囲気に流されてしまっているだけだ。それ以外の理由なんて無い。無いに決まってる。
 恐る恐るDIOの背中に触れた。ピタリと手のひら全体を当てる。大きな背中だ。そんな安易な感想しか出てこなかった。もう片方の手は、流石にDIOの巨体の下敷きになるように背中に回せないので、そのままDIOの胸元に置いた。私の手と大差の無い体温なのか、温かくも冷たくもない。何かを言われるかも知れないと思ったが、意外にもDIOは何も言わなかった。
 DIOの胸に置いた右手の奥から、心臓が動いているのを感じる。ジョナサンのものであった筈のこの体は、心臓は、今はDIOを生かす為に動いている。死人に口はないけれど、もしジョナサンの意思が一欠片でもこの体に残っていたとしたら、彼はDIOの為に自ら心臓を動かしているのだろうか。そんなわけ、ないだろうな。

「あの、DIOさん」
「……なんだ」

 黙れと一蹴されるかと思ったが、DIOは私が口を開くことを許した。

「DIOさんの体って、別の人のものだったんですよね」
「唐突になんだ」
「……体の元の持ち主の人って、どんな人でしたか」
「……とんだ愚問ばかりをしてくるんだな」
「別に、ちょっと気になっただけなんで、言いたくないならいいです」

 これも地雷だったのだろうかと焦ったが、DIOはこれまた何かをしてくる事は無かった。それどころか、今度は私の頭を自分の胸元に引き寄せてきた。そして、頭に何かを当て、ちゅうという音と一緒に離れた。
 私には経験が無いので、あくまでドラマや映画で見たという知識と想像から抱いた印象なのだけれど、まるで、そう、それは、まるで、恋人に対してするように、私の頭へ口付けたのだ。驚きすぎて声も出なかった。
 この男は、本当にDIOなのか。
 原作にこんなDIOはいなかった。私が覚えていないだけかも、とも思ったが、やっぱりこんなDIOは記憶に無い。人間を辞めて100年は生きてきた癖に、しおれた声で、仕草で、まるで、私に縋り付いているようだ。
 こんなDIO、私は知らない。

「……アイスは」

 DIOが口を開いた。

「恐らく、荒れているわたしに貴様を押し付ければ食事と一緒に始末してくれると思ったのだろう」

 あのレオタード本当早く死んでくれねえかな。

「じゃあ、アイスさんにとっては残念な結果でしたね」
「そうだな」

 この言葉を最後に、何度目か分からない沈黙が訪れた。雨は相変わらず窓を叩いている。雨の音に混ざって、DIOの胸から脈打つ音が聞こえた。静かな音で、私のように緊張なんてしていない音だった。
 何故DIOはこんな行動をしているのだろうか。何故私はそれに応えているのだろうか。
 まるで水底に沈むような静けさが、じわりじわりと私の脳裏に疑問を添えてくる。理由を考えるにはこの状況はあまりにも異質すぎて、眠気もあって、頭が上手く回ってくれない。せめてもの救いは、こうした考え事のお陰でDIOとの沈黙の苦痛さが和らいでいるというくらいだろうか。
 寝首をかかれたくない一心で重たい瞼を開かせていると、数分ぶりかにDIOが口を開いた。

「……部屋に戻りたければ戻れば良い。自由にしろ」
「どっちでも良いってことですか」
「好きにしろ」

 DIOの腕の力が緩むのを背中で感じた。
 用が済んだら問答無用で放り出されると思っていたから、DIOのこの言葉には本当に驚いた。そもそも、拒否をしていたのは私の方だけれど、でも、こちらから歩み寄ることを拒まない姿勢を取るなんて、DIOが、私のようなただの女を、餌としてではなく、一個人としてここに居る事を認めるなんて、誰が思おうか。
 この男は信用出来ない。何を企んでいるのか分からないし、言葉の一つ一つに何か裏を持っている可能性も充分にある。
 このまま起き上がれば、私はDIOの腕の中から安全に逃げ出せる。念写や命の危機から脱出出来る。私はいち早く自室に戻り、DIOと物理的な距離を取るべきだ。それは、充分過ぎるほどに理解している事だ。
 でも、それでも、この雰囲気のせいなのか、どうしてなのか、本当に分からないのだけれど。

「……部屋に戻るの、面倒臭いんで、このまま寝ます」
「うっかりのしかかっても恨むなよ」
「DIOさんそんなに寝相悪いんですか?」
「フフ、さあ、どうだか」

 DIOの声は随分と穏やかに聞こえた。でも、私の思い込みかも知れないから、本当に穏やかだと言い切れる確証は無い。
 我ながら何を言っているのだろうかと思う。けれど、これで良いと思ってしまっている自分もいる。雰囲気に流されるなんて、女としても人としても駄目だなあなんて気持ちが脳裏を擽るが、今日だけは、許してほしい。もう眠いから、きっと判断力が鈍ってるんだ。それに、ほら、床に転がってる死体、踏みたくないし。

「DIOさん、……おやすみなさい」
「……ああ」

 DIOの片手が、似つかわしくない程に優しい加減で私の頭を撫でた。緩やかに頭上で刻まれる一定のリズムが、ずるずると私の意識を暖かな暗闇へと誘い込む。それは、あまりにも心地が良かった。







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2016.3.10