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 返しそびれてしまったホル・ホースの水筒は、折角なのでこのまま使わせてもらうことにした。普段私は部屋に引きこもっているし、あちらもしょっちゅう館に来るわけではないだろうから、次に会う機会があるのかさえも分からない以上、このまま部屋に置いておくのは勿体無かった。それに、喉が渇く度に台所へ行くのは面倒臭かった。ペットボトルを当たり前としていた自分には、それが常用されていないこの時代の環境はなかなか不便だ。
 ホル・ホースの水筒に入れたカルカデティーを飲みながら(エジプトではポピュラーなお茶らしい。酸っぱい)喧騒が聞こえる外を見た。今日は1988年の1月16日。クリスマスと正月が過ぎた。
 意外にも、DIOはクリスマスや新年を祝った。祝った、といっても、食事を行事に合わせた内容にしたり、少し口上を述べたり、その程度だけれども。それでも、私には充分意外に思えた。

「名前、今日は面白いものを見せてやろう」

 ある日、DIOは上機嫌な様子で部屋に来た。DIOの言う『面白いもの』が私にとって同義になるとは思えない。

「何でしょうか」
「いいから、ついてこい」

 私が断ることなんて選択肢に入れていないらしいDIOは、そのまま部屋から出ると廊下を歩き出した。
 ついて行くべきか迷ったが、ここで変に反抗したって後が面倒になるだけだ。私はため息をこっそり吐くと、少し離れたDIOの背中を追いかけた。
 階段を下りて、下りて、下りていく。館の地下に行くのは初めてだ。地上とは違い、空気がひんやりと冷たい。
 それほど広くない廊下には、何か金属がぶつかるような音が響いている。何かが動いている、ということだけは分かった。DIOの言っていた面白いものと関係あるのだろうか。
 DIOは突き当りの部屋へ入った。私も後に続いて扉をくぐると、地下に響いていた音が何だったのかが分かった。

「ただの猿ではないぞ、名前よ。こいつもスタンドを使えるのだ」

 そこにいたのは、大きなオランウータンだった。たぶん、私と同じくらいか、少し大きいくらいの身長だろう。音の正体は、そのオランウータンと檻に繋がれた鎖だ。オランウータンが動くたびに、ジャラジャラと擦る音が鳴っている。

「はあ」

 特に驚くことも無かった。オランウータンのスタンド使いの存在は原作で知っていたし、そうでなくとも、既にスタンドを使える動物がこの館の門番として居るのだ。
 たしか、このオランウータンの名前はストレングスだったか。あれ、スタンドの名前がストレングスだったんだっけ。スタンド名がタロットに肖っているから、スタンド名がストレングスか。こいつ自身の名前は何だったっけ。重要ではないから思い出せなくても良いか。
 漫画ではあまり良い印象が無かった。敵だったし、女好きだったし、見た目もただの猿だったから良い印象を抱けという方が難しいのかもしれないけれど。だから、DIOが期待していた反応が出来るわけもなかった。

「なんだ、つまらん反応だな。動物のスタンド使いは珍しいというのに」
「そうなんですか」

 DIOはわざとらしく大きな溜息をついた。個人的には、この大きな猿をどうやってエジプトまで運んだのかという方が気になる。訊いたら部下に運ばせたとだけ言われた。私が訊きたかったのは絶滅危惧種を法に触れずにここまで運ぶ方法だったのだが、面倒臭くなったのでやめた。はいはいカリスマカリスマ。

「ペットショップがいるのに今更ですよ」

 DIOに背を向けないように檻に近付き、スタンド使いのオランウータンの前にしゃがんだ。一見すると害はないようだが、その目が何を考えているのかはわからない。確か、承太郎に辞書を使ってスタンド名を名乗っていたし、人間の女に発情するくらいだから、知能は高いとは思うのだが。人間に発情することと知能が関係するのかは分からないけど。
 オランウータンは私を一瞥すると、何も無かったように視線を戻した。家出少女には発情してた癖に、こんなにも無反応だと私には女としての魅力は無いのかと不安になる。いやオランウータンに女として見られても困るだけだし不安になる必要あるのか? 無いわ。
 それでも何も反応が無いというつまらなさに、ちょっとだけ檻を叩いてみようと思い、手を伸ばした。そのとき、横からDIOが口を挟んできた。

「オランウータンの握力は300kgらしい。貴様の手など掴もうものなら赤子の手を捻るように簡単に骨を砕くだろうな」

 そういえば原作でも似たような話が出ていた気がする。私が咄嗟に手を引くと、DIOのくつくつと喉を鳴らして笑う声が聞こえた。

「ご忠告どうも」
「わたしは別に貴様の骨が砕かれようと構わんがな」

 DIOは部屋の隅に置かれていた籠からリンゴを取り出すと(どうやら餌を入れている籠らしい)オランウータンに手渡した。オランウータンは腕だけを檻から伸ばしてそれを受け取ると、これまた無感動な様子でリンゴに齧り付いた。お世辞にも愛想がいいとは言えない。野良猫でも餌をくれる人間にはもっと愛想の良い態度をとるだろうに。

「ところで」

 私がDIOと距離を取るために、しゃがんでいた腰を上げたとき、DIOが口を開いた。

「貴様はいつ、ペットショップの名前とスタンドが使えることを知った?」
「え」
「わたしはお前にペットショップの名前もスタンドのことも話した覚えが無いのだがなあ?」

 しまった。失言だった。
 どわっと汗が噴き出してきた。地下の気温も相俟って、体温が急激に下がっていくようだ。思考を停止した脳を焚きつけるように、心臓が逸りだした。
 急いで今までの記憶を思い出すが、そういえば、DIOの口からその名前を聞いたことはなかった。聞いたのは、玄関にいる隼は門番の役割を果たしている、という事だけだ。スタンド使いだという事もDIOは話していない。
 やばい。どうやって誤魔化そう。

「え、っと、DIOさん、言ったこと、無かったでしたっけ」
「無いな」
「あー……じゃ、じゃあ、たぶん、アイスさんが呼んでたのを聞いたんだと、思い、ます」
「ろくに英語も聞き取れないのにか?」

 DIOが一歩近付く度に、私は一歩後ずさった。威圧感がジリジリと、私の逃げ場を奪っているようだ。事実、後ずさった先には壁があって、私はこれ以上逃げる事が出来なくなった。
 背中が壁についてしまった。横に逃げようとしたら、DIOの腕が私の顔の横を突いた。

「お前は嘘が下手だな。もっと早く気付くべきだったが」
「す、すいません」

 DIOに壁ドンされても嬉しくないし、同じ巨体なら承太郎に壁ドンされたかった。邪念が脳裏を過ってもこの場の解決には欠片も役に立たない。
 何を言われるのか分からない恐怖が、私の額や脇や背中を濡らした。スタンドがあるから万が一には対処出来ると思いたいけれど、咄嗟の判断が出来る自信も無い。もし、この男の疑心が殺意に変わったとしたら。
 私が足を震わせながら硬直していると、DIOは私の横に置いていた手を離し、予想もしていない回答を出した。

「……まあいい。理由は聞かないでおこう」
「え?」
「話したくないのだろう? 無理には聞かない。貴様の口が固いのは分かったからな」
「DIOさん頭打ちました?」
「慣れてきた相手には軽口を叩く事もな」

 思わず漏らしてしまった本音に咄嗟に口を押さえた。命拾いしてるのに自ら地雷原に突っ込んでいくような発言は控えたい。
 あれだけ私の持っている情報や私の存在を訝しんでおきながら、時にはアルコールを使ってまで口を割らせようとしていた(あれから何度か晩酌に付き合わされたのだが、DIOが妙に踏み入る質問ばかりをしてきたり距離を詰めてきたりするので気付いた)ので、突然こんな事を言いだしては私が動揺するのも仕方がない話だと思う。
 諦めたのだろうか? それとも何か思惑があって? DIOの考えている事など私に分かるわけがないから、考えても無駄なのだけれども。これは、疑っておいた方が、良いのだろうか。

「このオランウータン……名前はフォーエバーだったか。こいつの世話をお前に一任しよう」
「は?」
「フォーエバーは大の女好きでな。しかも人間の女だ。ここに連れてくるときに条件として女が世話をする事を約束したのだ」
「猿にですか?」
「馬鹿か貴様は。飼育していた動物園とだ。買い取る際に法的な事や向こうの都合など面倒な事が多くてな。この条件も動物園側から提示された。条件というよりは飼育の際の注意、という感じだが」

 このオランウータン、動物園出身だったのか。どうでもいい事を知ってしまった。
 いや、このオランウータンの出身がどこなのかは本当にどうでもよくて、重要なのはそこじゃなくて。

「私猿の世話なんてした事ないです」
「アイスが手伝う」
「うええ……」

 よりによってあのレオタード男と一緒かよ。そもそもこの女好きのオランウータンの世話をするというのも嫌だ。身の危険を感じる。女らしい出で立ちはしてない自覚はあるけれど、女だというだけで見境が無い可能性だって否定出来ない。痴漢だって顔の良し悪しよりも大人しそうな装いを狙うってネットで見た。

「悪いなあ、名前よ。生憎この館に若い女はお前しかいなくてなあ」
「部下にいますでしょ、若い女性」
「確かに何人かいるが。だがこの仕事はお前がやるのだ」
「なんで私……」

 私がいつまでも了承せずに渋っていると、壁に寄りかかっていた私にDIOは再び距離を詰めてきた。もしかして力でねじ伏せてくる気か、と私の全身が再び強張る。

「良いか、名前」

 DIOの口が綺麗に弧を描く。

「働かざるもの食うべからず、だ」

 あんたがそれを言うのか。







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2015.11.4