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「う、」

 見てしまった。女の死体だ。
 死体だと分かったのは、首元に肉眼でもはっきりと分かる大きな穴が二つ開いていて、血が流れていたからだ。他にも、明らかに目を開いているのに顔が硬直していたとか、そもそも普通の人がこんな館の廊下に寝転がる理由なんて無いとか、色んな事実を脳内で組み合わせた上で、私の脳は無造作に床に転がっているそれを死体と判断した。
 それは、綺麗な顔立ちをしていてスタイルも良い。きっと、生きていればさぞ美人であっただろう。しかし、その肌に赤みは全く無く、整った顔は不自然に硬直している。遠くを見つめるような目は、何も捉えていない。
 無意識に、いつの間にか服の裾を握りしめていた。耳に心臓が逸る音がよく聞こえる。まるで重石になってしまったように、自分の足を床から離せない。この廊下は、こんなに寒かっただろうか。
 きっと、その内見てしまう事もあるだろうとは思っていた。DIOの食料がこれだという事は既に事実として知っていたし、自分の知り合いが犠牲になるような事でも無い限りはそれに対して何かを思う事もない。
 それでも、今まで画面の向こうでしか縁の無かったものが目の前に転がっているというのは、予想よりも大きな衝撃だった。
 今まで、本物の死体なんて、葬式で綺麗に整えられたものしか知らなかった。整えられた死体というのは、人が見ても大丈夫なように加工されたものだ。ところが、目の前に転がっているそれはどうだ。明らかに人間である筈なのに、人間ではなくなってしまった『何か』であるように、理解し難い不気味さを漂わせている。
 ぞわぞわと背中が粟立つと同時に、体内から込み上げてくる感覚が襲った。後ろへ仰け反ると足が動いたので、咄嗟に両手で口を押さえ、私は目的地まで一心不乱に走った。





「Are you okay?」

 トイレに駆け込み、口に込み上げてきた物を全て出し切ったとき、戸を叩く音と共に声が聞こえてきた。聞き覚えのない男の声だ。

「お、オーケー、オーケー」

 口を押さえながらトイレに駆け込むところを見られてしまったのだろうか。無性に恥ずかしい気持ちが湧いてきて、頬に熱が集まるのを感じた。
 トイレットペーパーで口を拭い、備え付けられた汚物入れに押し込んだ。
 そういえば、エジプトは紙を流してはいけないらしい。ここに来たばかりのとき、それを知らずに一度トイレを詰まらせてしまった。日本のトイレが恋しい。
 閑話休題。
 起きてから今まで食べたものを全て吐き出した悲惨な便器の中身を流し、洗面台で口をゆすいでからトイレの戸を開けた。戸の先に立っていたのは、カウボーイハットを被った男だった。
 うわっ。
 思わず出そうになった言葉をグッと喉の奥に飲み込んだ。ホル・ホースだ。前に一度館に来ていたときに遭遇して、一方的に話しかけられた記憶がある。内容は全く覚えていない。
 この男はあまり信用が出来ない。そもそも、DIOの部下は総じて信用なんて出来る人間はいないのだけれど。それも含めた上で、このホル・ホースという男は特に信用が出来ないと思う人間の一人だ。雇い主のDIOに対してすら一度反旗を翻そうとしていたくらいだ。そんな人間と関わったって、私に生まれる利益は何も無い。

「Are you really okay? You look pale.」

 そんな私の心情なんて御構いなしにホル・ホースは話しかけてくる。英語では何を言われているのか分からない。以前会ったときに英語は分からないのだと言った気がするのだが、覚えていないのだろう。





 野暮用でDIOの館に来た。正直、こんな薄気味の悪いところに長居なんてしたくない。とっとと用事を済ませてお暇しちまおうと思っていた。

「あ?」

 女が酷い顔で走っているのを見た。確か、駆け込んで行った先は、便所だったな。口を両手で押さえていたから、具合が悪いらしい。
 女性は尊敬すべき相手だと思っている俺は、考える間も無く女が駆け込んで行った方へと足を動かしていた。あまり女性が手洗いに入っている前に立つってのは良いことじゃあないかもしれないが、あの様子では放っておく方が失礼というものだろう。
 ノックを2回し、声をかけてみた。弱々しい返事だ。オーケーって、あまり大丈夫そうに聞こえないんだけどな。
 少し待つと、戸が開いて女が出てきた。つんとした異臭が鼻を掠めたので、たぶん吐いたのだろう。
 女は俺よりも頭一つ分は小さく、DIOの野郎の飯にしては幼すぎるのでは、と一瞬だけ思ってしまったが、よくよく見ると見覚えがあった。
 確か、前に一度館に来たときにもいた。少し話をして、名前も訊いた筈だったが、えーっと、忘れてしまった。

「本当に大丈夫か? 顔真っ青だぜ」

 話しかけると、女はぞんざいな相槌を打ちながら俺の手を払った。1人でも大丈夫だと言いたげだが、顔を青くして足取りもふらつかせながらそんな反応をされても、説得力は微塵も無い。
 案の定、歩き出そうとしたところで大きく体をぐらつかせたので、咄嗟に脇腹を抱えるように支えた。
 どうやら貧血を起こしているらしかった。これでは、ますます放っておく事は憚られる。

「お嬢ちゃんよォ、フラフラじゃあねえか。歩けるか?」

 目線の高さを合わせ、ゆっくりと話しかけるが、女は反応するどころかこちらを見もしない。目が虚ろになっているので、意識が朦朧としているのだろうか。こりゃあ、自力で歩くのも難しそうだ。
 仕方ねえなあ、と溜息を吐いてから、女の脇腹を支えていた腕を離して、女をその場にしゃがませた。俺は女の腕を取って自分の首に回させると、女の足を持ち上げ、背中に背負う形にして立ち上がった。だいぶ具合が悪いのか、女はぐったりとした様子で俺の肩口に頭を傾けている。首に当たる髪の毛がむず痒い。
 屋敷の人間に任せようと思い、いくらか歩き回ったが、運が良いのか悪いのか誰も見つからなかった。声を上げても反応は無い。ここに来たときは、嫌という程あの口うるさいエンヤの婆さんや、よく分かんねえファッションのヴァニラ・アイスを見たというのに。
 途中、DIOの野郎の食べカスと思しき死体があった。こんなもの平気で放置すんなよ、と苦い気持ちにならざるを得ない。生きていればさぞ良い女であっただろう。勿体ねえなあと思った。
 吸血鬼だかなんだか知らないが、女を平気で殺して放置しておく雇い主の気が知れない。金の羽振りが物凄く良いので口には出さないが。犠牲になる女も女で自分からこうなることを望んでいるらしいから、俺にはいまいち理解しがたい世界だ。
 結局、エンヤ婆もヴァニラ・アイスも見つからないので(ヌケサクは見たが、こいつに具合を悪くした人間の世話が出来るとは思えず無視をした)客間に入り、ソファに下ろして寝かせた。DIOのところへ運んだ方が確実なのかも知れないが、個人的にあの野郎とは必要なとき以外で顔を合わせたくない。
 客間は玄関に近い場所に位置している。具体的に言うと、戸を潜って4歩進んだ左手だ。昼間は窓を開け放っているらしく、全体的に暗闇に包まれているこの館の中では、一番明るくて人間らしい部屋だ。
 程なくして、女は身体を起こした。先程のような覚束ない身のこなしでは無くなったので、意識がはっきりしたようだ。俺を見る目もしっかりと焦点が合っている。

「よう、気分はどうだ。貧血か脱水症状か分かんねえが、とりあえず水分を取った方が良い」

 自分の荷物から水筒を取り出し、女に差し出した。女は警戒をするような目つきで睨んでくる。水筒を受け取ろうとする様子はない。
 オイオイ、 ここまで運んでやった恩人に対してその態度はねーんじゃねえの。
 そう思ったとき、女が口を開いた。

「わたし、えいご、はなせません」

 拙い発音と内容に、前回女と交わしたの会話の内容を思い出した。
 そうだ、確かこいつって英語分かんねえんだ。
 以前も話しかけたときに同じような反応をされたことを忘れていた。この理由なら先程までの反応にも合点がいく。理解出来ない言葉で話しかけられながら渡された物をおいそれと口にする程、単純で能天気な女ではないのだろう。

「あー、そういや英語分かんねえんだったな。忘れてた。日本語だとなんてーんだ? えーっと、『ごめんなさい』?」

 日本語はほんの少ししか知らないが、まあ何とかなるだろう。コミュニケーションに言語の共有は絶対不可欠ではない。

「えーっと、『これ』『みず』分かるか?」

 ソファの前に膝をつき、女に目線の高さを合わせた。言葉が通じたのか、女は警戒の表情こそ崩さないものの、俺の手から水筒を受け取ると、恐る恐ると中身を口に含んだ。日本語で礼を呟いたのが聞こえたので、俺も日本語でどういたしましてと応えた。

「そういえば、名前なんてーんだっけか? あー、『なまえ』『なに』?」
「……ナマエ」
「ナマエか」

 そうだ、そういえばそんな名前だった。異国の名前ってのはどうにも覚えにくい。水分を取ったからか、安静にしていたからか、ナマエの顔色は赤みが差してきて、良くなっているように見えた。
 そういえば、こいつもDIOの部下なのだろうか。食料ではないらしいから、残る選択肢は部下くらいしか残らないのだが、それにしてもスタンド使いには見えない。戦う人間特有の空気……というと変かも知れないが、とにかく、ただの一般人にしか思えなかった。
 試しにエンペラーを出してみるか? スタンド使いなら視認できる筈だ。減るものでもないし、見えたとしても反撃の心配も無いだろう。そう思い、ナマエの目の前でスタンドを発現させようと、彼女の顔の前へ右手を翳した。

「何をしている」

 不意に、背後から声がした。蛇に睨まれた蛙のように、俺の身体が固まった。暑いわけでもないのに、顔から汗がブワッと吹き出す。ナマエがとても嫌そうな顔をして、俺の後ろを睨んでいた。
 俺は、ゆっくりと振り返りながら、声のする方へと視線を動かした。声だけでも誰なのかは充分分かった。DIOだ。

「何をしているのか、と訊いているんだ」
「あ……あの、女が、ナマエが具合を悪そうにしていたので、介抱してました」
「ここには何をしに?」
「エンヤの婆さんに呼ばれてたんですが、それはもう済んでます。ナマエももう元気になったみたいなんで、俺はもう帰ります」
「そうか、世話をかけたな」
「い、いえ、お構いなく」

 吹き出した汗も拭わずに、俺は急いで(だけどDIOの野郎の近くは通らないようにして)客間から出た。外に出ても、逸る心臓はすぐには治まらなかった。





「体調を悪くしていたようだな」
「……お陰様で、もう大丈夫です」

 ホル・ホースからは香水の匂いがした。さすが女たらしのキャラクターなだけある、と我ながらしょうもない感心を抱いた。
 そんな女たらしも、この男を前にすると情けないほどに萎縮してしまうらしい。私が鈍いだけなのか、DIOが意図的に隠しているのか、私はこの男に対して屈服するほどの威圧感を感じたことは無かった。不快感はあるが。
 ホル・ホースが部屋を出て行ってから、自分がまだ彼の水筒を持っていることに気がついた。受け取る暇も惜しむくらい、DIOとの会話が嫌だったらしい。
 DIOは私を見下すような嫌らしい笑みを浮かべている。吸血鬼は体調を崩すことが無いのだろう。人間は脆弱だな、と鼻で笑った。

「……階段近くの女の人、片付けましたか」
「女? ……ああ、アレか。アイスに後始末を頼もうと思って忘れていたな」

 DIOは突然振られた話題と私の表情から、何かを察したようにニヤリと笑った。

「そうか、貴様は死体は見慣れていないのだな。体調を崩したのもそれが原因か?」
「……普通に生きてたら見ませんよ」

 小馬鹿にした態度のDIOに、私はこれ以上何かを言う元気は無かった。不毛な会話をしながら、数十分前の恐怖心が蘇ってくるようだった。もう胃に吐き出せるものは残っていないのに、喉まで何かが出かかったような不快感すらあるようだ。
 目の前にいる男が、その手であの女の人を殺した。同じように今までも何十人、もしかしたら何百人という数を殺してきてるのだろう。私が直接目にしていないだけで、それは整然と佇む事実だ。
 DIOの気分や考え次第では、私も彼女のようになりかねない。何度も言うが、DIOの口約束は信用出来るものではない。

「体調不良に鞭を打つようだが、今日は客間を使わなくてはならないのでな。いつまでもそこで寝られると困る」
「……すいません」

 立ち上がろうとしたら、目が眩んで再びソファに尻をついてしまった。その拍子に、水筒が手から膝上へと転がり落ちた。もう一度立ち上がると、今度は上手く立つことが出来た。まだ少しだけ、頭がぼうっとするが。

「まだフラフラじゃあないか。部屋まで運んでやろうか?」
「え、い、いいです。結構です。一人で行けます」

 何だコイツ意味わかんねえ。口に出さなかっただけ賢明だったと思うが、動揺して扉の枠に頭をぶつけた。







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2015.8.28