21







 ほとんど毎日のように家族の事を思い出す。
 家族に対しては、人並みに感謝の気持ちは抱いているし、人並みに慕っている。だから、人並みの愛も持っている。それが、夢から覚める度に私の頭を打ち付けた。
 夢と現実が逆ならばどれ程良かったのだろう。本来ならば夢に見るような事が現実で、当たり前だと思っていた事は夢でしか見る事が出来なくなってしまった。未だに時々、この世界は夢の中なのではと頬をつねってみるが、伝わってくるのは痛みだけで、それ以外には何も無い。
 母と最後に連絡を取ったのはいつだったっけ。父と最後に会話を交わしたのはいつだったっけ。
 親の有り難みが云々という話ではないが、あって当然の幸せというものがどういうものだったのかを痛感した。それと同時に、私が一体何をしたのだろうかと居もしないであろう神を恨んだ。

 この館に来て、というか、この世界に来てしまって、気が付けば二ヶ月近くが過ぎていた。帰る為の手がかりを得たわけでも無ければ(そもそも帰る方法があるのかもわからない)この世界で生きていく為の手立てを見つけたわけでもない。最初の数日こそ怒濤のように過ぎていったが、それからは驚く程穏やかだった。確かに漫画の中で描かれていたのは承太郎達が旅をした2ヶ月程の事だし、その間自体もDIOの方がどうやって過ごしていたのかはほとんど描かれていないけれど。でも、やっぱりこの穏やかさは、漫画の内容からはあまり想像が出来なかった。
 自室の窓を開け、外を眺めた。まだ明るい時間帯だという事もあり、窓の向こうは人や車が行き交っている。太陽も眩しい。この部屋が北向きでなくて良かったと今更ながらに思った。やっぱり、人間として生きている以上、太陽は必要だ。
 私はこれからどうなってしまうのだろう。飽きる程考えたその議題を、また再び頭に上げた。そしてすぐに、きっとどうにもならないのだろう、なるようにしかならないのだろう、と私の中で行われた会議が結論付ける。この館から逃げ出さない以上、きっと私が自分から何かを行動するという事は無いのだろう。幸か不幸か、この館にいる限りは衣食住の約束はされていた。
 きっと、私は、もっと大きな出来事に遭遇しない限り、この館から逃げる事は無い。臆病な人間が、右も左も分からない世界へ飛び出す度胸なんて持っているわけが無かった。生まれてからずっと、片時も離れる事無く付き合ってきたのだ。自分という人間の事はそれなりに分かっているつもりでいる。
 空は明るいのに、外は賑やかなのに、時が流れる程に孤独感は増していく。親しい人間は誰もいない。私を心配してくれる人間もいない。それどころか、私という人間を、苗字名前という人間を知っている人間は、この世には誰一人としていないのだ。戸籍とか私が生きていた時代との差とか、そんなことは些細な問題でしかない。いや、携帯が無いというのは、情報社会で生きていた身としてはとても大きな問題ではあるのだけれど。
 目の奥がじんじんと熱くなってきた。日差しや砂埃の所為ではないというのは分かっているのだけれど、それでも窓を閉めてそれらの所為にした。
 溜め息を吐き出しても、誤摩化せるわけないのに。





「今日は泣いていないのだな」

 日が沈んで間もない時間、そろそろ空腹を感じてきたという頃、DIOはそう言いながら、いつものように部屋に置かれているソファへと腰掛けた。私の部屋に鍵は無いから(以前私のスタンドが暴走したときに壊れてそのまま直していないらしい)この男の訪問をこちらから拒否する事は出来ない。
 先日、DIOに泣いているところを見られてしまった。日が沈んだばかりの時間に部屋に来るなんて今まで無かったから、完全に油断していたのだ。しかもそのまま泣き疲れて目の前で寝てしまうという醜態まで晒してしまった。何も無かったというのは、きっと、本当に、私は幸運だったのだ。
 私は、この男には弱みを見せてはいけないと思っている。いや、今まで散々自分が弱い存在である事は見せてしまっているのだけれど、そういう意味では無く、こういう形で私の弱点となりうる側面を見せてはいけないという事だ。反応として露呈させていけないというわけではなく、この男とは関係の無い部分で能動的に見せてはいけないという事だ。狡猾で聡明なこの男が、何かの目的の為にそれを利用しないとも限らない。私の頭ではその可能性の呈示までしか出来ず、具体的にどんな目的でどう利用して来るのか、予想する事すら出来ないけれど。
 勿論私は毎日泣いているわけではないのだが、反論するのも面倒臭くなり、そうですね、と素っ気ない返事をした。そして、彼と距離を取るためにソファから立ち上がると、ベッドの、ソファとは反対側の端へ腰を下ろした。

「DIOさんって、寂しいって言葉とは無縁そうですよね」
「不躾に何だ」

 ぽつりと零した小さな言葉も、DIOはしっかりと拾っていた。石仮面による脳の異常な発達が聴覚にも影響を及ぼしているのだろうか。そういえば、私がこの屋敷にいるそもそもの原因も、私が漏らしてしまった呟きをこの男が拾ったからだった。

「いえ、別に」
「ホームシックにでもなったか」
「ここに来る前からとっくにホームシックですよ」
「行く当ても無いのにか」
「帰りたいところには帰れないっていうだけです」
「帰りたいところとは?」
「ここには無い場所ですね」

 要領を得ない回答ばかりだと自分でも思った。だが、これが事実なのだから仕方がない。
 両親の事だって、2人が死んだわけでは無いし、家族が離散したわけでもない。両親の年齢を考えれば今の年代には生まれている筈だが、2人が既に出会っているのかとか、そもそもこの世界にも存在しているのだろうかとか、不明瞭な疑問ばかりが浮上してきて断言にまでは至れない。
 あまりにも非現実的な私の事情を除いて説明しようとすると、どうしてもこのように曖昧な返事になってしまう。これ以上に当を得た説明が出来るだけの語彙も知力も私には無い。

「今日は何の本読んでるんですか?」
「マキャヴェッリの『Il Principe』だ」
「まーきべ……?」
「マキャヴェッリ、だ」
「マキャベリ……『君主論』ですか?」
「ほう、知っていたか。確かに日本語でのタイトルはその通りだ」
「まあ、名前だけですけど」

 貴様では内容までは理解出来まい、とDIOは鼻で笑った。その言葉に私は少し苛立ちを覚えたが、この男が人を見下したような態度を取るのは今に始まった事ではない。百年以上も抱えた性格は、私などが到底矯正出来るものではないだろうし、しようとも思わない。
 会話が途切れた。DIOは本を読んでいるため、私の方から話しかけなければそれは当然に起こる事だ。
 外から車のクラクションの音が聞こえてきた。窓越しに見える景色はもう暗く、街灯の明かりが人魂みたいに浮かんでいる。耳をすませば、街を歩く人々の声も聞こえてきた。ほとんど外に出ないので忘れがちだが、そういえばこの館は街中にある。
 ちらりとDIOの様子を伺った。DIOはソファに深く腰掛け、本から目を逸らさない。私の視線に気付いて一度こちらを見るが、すぐに本へと意識を戻した。まるで、私の事など意に介していないようだ。実際、本当にそうなのだろうけど。
 これでは一方的に警戒している私が馬鹿のように思えてくる。事実、本を読んでいるだけの相手に、全てに於いて敵うはずもない癖に警戒心を抱いている私は馬鹿なのだろうけど。
 何度も言うが、この男との沈黙は嫌いだ。

「そんなに知識を詰め込んでどうするんですか」
「百年も海底で眠っていたからな。その間に地上に出たら調べたい事を考えていた」
「百年間ずっとですか?」
「ずっとだ。……驚かないんだな」
「何がですか」
「私が百年海底で眠っていた事を驚かなかったのはエンヤ以来だ」
「あ、えーと、まあ、そうですね」

 まさか、その事も既に知ってました、とは言えないので、曖昧に言葉を濁した。ただでさえ色々と不審に思われているところがあるというのに、これ以上その材料をこちらから渡すわけにはいかない。

「吸血鬼っていう時点で既に人智を超えてますし、今更ですよ」

 DIOはこの言い分に納得したのだろうか。分からないが、追及を止めたので良しとしておく。
 窓の外からチラリとDIOへ視線を動かすと、DIOは相変わらず本から目を逸らしていなかった。私は本を読みながら他人と会話をするなんていう器用な事は出来ない。

「吸血鬼って、要は不老不死って事ですか?」
「……ふむ、少なくとも人間は辞めているな。人のように簡単に死ぬ事は無くなったが、老いる事があるのかはわからん」
「人の血は美味しいですか?」
「そうだな。人間の頃に感じていた鉄臭さも無くなった」
「普通のご飯は食べないんですか?」
「全く食べないわけではない。ワインだって飲むしな。だが、それよりも若い女の血を吸った方がよっぽどエネルギーにはなる」

 そう言うDIOの目が私の首筋に向かっているような気がして、私は反射的に顔を顰めてしまった。それを見たDIOは小さく鼻で笑った。

「なあに、貴様の血は吸わない。貴重なスタンド使いだ。殺すのは惜しい」
「……どうも」

 未だに自分の能力を弄んでいる私にかける言葉が信用に足りるものだとはとても思えなかった。
 先日少しだけ能力の片鱗らしいものを見せたが、完全に偶発的に起きたもので、私自身も発動の条件が分かっていない。たぶん、今迄の様子を鑑みるに、身を守るような能力ではあるのだと思うのだけれど。
 そもそも、この男との信頼関係など無いに等しいし、こうして居住の許可が下りているのもこの吸血鬼の気まぐれが大きいだろう。情報を提供しあぐねていると、いずれは身が危険に陥るかも知れない。DIOが時止めの能力を自覚してしまった後が何よりの不安だ。

「それにしても、今日は随分と積極的に話しかけてくるじゃあないか」
「そうですか?」

 DIOに言われてから、そういえば今迄で一番DIOと会話をしているような気がする、と気付いた。アルコールが入っていた時を除いて、だが。
 私がDIOの方へと体を向けると、DIOは本を自分の横に置き、会話に集中させる姿勢を見せた。

「では名前、貴様に問おう。『生きる』とは何だと思う?」
「また突然ですね」
「いいから答えろ」
「……人生を全うする事じゃないですかね」
「曖昧な言い方だな。では、全うする、とは?」
「……えーっと、夢を持ったり、友人や恋人を作ったりする事、とか、ですかね」
「凡人の考えだな」

 悪かったな。
 DIOは私の考えを鼻で笑って一蹴すると、組んでいた足を左右組み替えた。その目は、やっぱり私のことを見下しているのだと雄弁に語っていた。

「わたしが思うに、人は『恐怖』を抱えて生きている。争いに敗れる恐怖、手にしたものを失う恐怖、死への恐怖、……それらを克服する事こそが『生きる』という事だ。そして、それを達成し、安心を手に入れたときこそ、人は幸福になれるのだと思う」

 ふと、DIOのこの言葉にデジャヴを感じた。
 そういえば、原作でも似たような事を言っていたような気がする。どこでどういう風に、という細かいところまでは思い出せないが、安心とか、天国とか、そんな話だ。確か、三部の終盤の方だったような。あれ、プッチと話してたんだったっけか。

「DIOさんはもう幸福なんですか? 怖いものなんて何も無いように見えますけど」
「わたしは……そうだな、まだ、完全ではない」

 たぶん、ジョースター家の事なのだろうな、と思った。もちろん口には出さないのだけれど。
 恐怖ではないのだろうけれど、懸念材料として頭の隅に居座っているのだろう。そうでなければ、原作であれだけ執拗に貴重なスタンド使いの部下を送り続けない筈だ。
 確か、原作の中でもジョースター家について言及しているシーンがあったような気がするが、うまく思い出せない。

「じゃあ、例えば完全に恐怖を克服して、そうして手に入れた幸福の先には何があるんですか?」
「…と言うと?」
「えーっと、人は80年くらいあれば寿命で死にますから、その間に恐怖を克服できれば万々歳じゃないですか。でも、ほとんど死なないような存在のDIOさんは、恐怖を克服したらその後どうするんですか?」

 私は、話を聞きながら気になった疑問を投げかけた。よくよく考えてみると、原作でも海底から蘇ったDIOの目的が何だったのかも、思い出す事が出来なかった。

「永遠にも等しい若さと、富と、たくさんの部下を持って、知識を詰め込めるだけの素養もあって、そうして手に入れようとしてる幸せって、何なんですか?」

 承太郎達がDIOを倒す目的は、母親を助ける為だったり、己の尊厳の為だったりと、とても簡単に思い出せるのに、諸悪の根源とされる目の前の吸血鬼が抱いていた目標がなんだったのか、これだとはっきり明言出来るものが無かった。そもそも目的なんて描かれていたのだろうか? 確か、プッチが引き継いだ目的があった筈だが、それはそもそもDIOの目的と同じだと呼べるものだったのだろうか?
 もっとよく原作を読み込んでおくべきだったと、今更な後悔が浮かんできた。知っていれば回避したり対処したり出来るものだってたくさんあるかも知れないのに、この2ヶ月で更に記憶が薄まった気もする。
 何かにメモを残すべきだろうか? しかし、言語が堪能らしいこの男に見つかってしまったら意味が無い。やはり、どこにも出さずに、自分の中だけに抱えるしかない。

「貴様には到底理解は出来ないだろうな」

 DIOは再び私の言葉を鼻で笑った。たぶん、その通りだから、反論する気にはならなかった。
 ここでヴァニラ・アイスが私の夕食を運んできて、会話は切られた。DIOも空腹を感じたのか、自分も食事をしてくると言い残して部屋を出ていった。ただ、本は置いていったので、ここに戻ってくるかも知れない。
 ベッドに足を伸ばして座り、腿の上に夕食のプレートを乗せた。エジプトの料理は全然分からないが、鼻腔をくすぐる香りは、私の空腹になった胃を刺激した。両手を合わせていただきますと呟き、スプーンを手にしながら、先程のDIOの言葉を思い出した。

「あんたが考える事なんて、理解したくもない」

 スープと一緒に飲み込んだ。







|





2015.6.17