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 目が覚めた。
 目を覚ました事によって、今の今まで自分が寝ていた事に気が付いた。
 長い夢を見ていた気がする。気がするというのは、目を覚ました途端に忘れてしまったからだ。どんな内容だったのか思い出せないが、夢とはそういうものである。あまり気にする必要はないだろう。
 ただ、ぼんやりとだが、誰かに何か大切な事を尋ねられて、断ったような気がする。

 起き上がろうとしたとき、左腕に違和感を覚えた。枕の上で頭を動かし、違和感の正体を確認する。左腕には点滴の管が繋がれていた。
 身体を起こそうとすると、ギギギと関節が軋んだ。まるで長い時間寝続けた後のような気怠さを感じる。頭も重く、寝起きだからか妙にぼうっとする。お腹も空いていて、それに気付いた私へ返事をするようにお腹からぐうと音が聞こえた。
 毛布の柄がヴァニラ・アイスが持ってきたものと違う事に気付いた。周りを見渡してみるが、部屋は相変わらず私が押し込まれたあの埃っぽい部屋だった。目を覚ましたらアパートに戻れていたら良いのにと願うのは、もう諦めた方が良いのかも知れない。
 だが、部屋を見回して異変に気が付いた。壁にはいくつもの穴やひびが入っている。まるで巨大な銃弾が山ほど撃ち込まれたような酷い有様だ。まさかとは思うが、この点滴は、壁が物語る惨劇と何か関係があるのだろうか。
 寝る前の記憶を思い出そうとする。確か、DIOが部屋に来て、矢を。
 そこではたと気付き、慌てて首に手を当てた。首を満遍なく触るが、傷跡らしい傷跡の感触は無い。脳裏に残る記憶の通りなら、確か、石の矢が、私の首に刺さったような気がした、のだが。
 ひょっとして私の思い違いだろうか。だとしたら、あれは悪い夢だったのだろうか。そう考えたら、DIOとのあの一連のやりとりが現実だったという自信も無くなってきた。夢を見ていただけのような気すらしてくる。慣れない環境に体調を崩して、寝込んでいる間に見た悪夢だったのかも知れない。そう思いたい。

「起きたか」

 顔を上げると、DIOが部屋に入って来た。相変わらず背中を大きく開いた格好で、原作のあの特徴的な黄色い上着は羽織っていない。
 DIOの手には透明な液体が入った瓶とコップがあった。中身をコップに注いで渡してくるのを怖々と見つめていると、ただの水だと笑われた。彼の甲斐甲斐しい態度に警戒心を抱きつつも、恐る恐るその液体を口に含む。無味無臭だった。水だというのは本当らしい。

「あの」
「スタンドを手に入れた気分はどうだ?」
「え?」

 今の自分の状況について尋ねようとしたら、私の言葉を遮ってDIOが予想もしなかった事を言ってきた。スタンドが、何だって?
 私の脳裏に残っていた夢とも現実とも分からなかった記憶が、現実のものとして具体性を持って浮かび上がってきた。もし記憶が現実に起きた事だというのなら、私は、賭けをしようと言われて、DIOに矢を刺されて。
 でも、私は生きている。全身は私が思った通りに動かせるし、両目は確かに目の前の景色を見る事が出来ている。深く息を吸えば肺は膨らみ、胸に手を当てれば心臓が確かに鼓動をしている。
 それらが意味するのは、私が生きているということは、私は矢に選ばれたという事で、つまりは、私にもスタンド能力がついてしまった、と、いう事、で?

「う、うそ」

 ふるふるとコップを握る両手が震えた。信じたくない気持ちと、否定するにはどこから否定すれば良いのかという疑問が胸中を掻き乱している。

「覚えていないのか? 自分がどうして今点滴を打たれているのかも?」
「わ、私は、矢を、打たれたんですか?」
「貴様がこうして生きている事が何よりの証拠だ。良かったな、これで貴様は意味も無く死なずに済んだのだ。賭けに勝利した事を、まずは祝福するとしよう」

 絶句した。喜ぶ事なんて出来なかった。
 ガツンと頭を殴られたような目眩がした。何で私が。意志薄弱で、到底能力を得るに至れるとは思えない自分が、どうして。
 まるで予定調和とでも言うように、じわりじわりと、確実に彼らの物語に巻き込まれているように感じた。どうして彼らの、既に結果が決定付けられている問題に足を踏み入れる必要があるというのだろう。
 このままでは、いずれ此処は戦場になる。この人の下に居ると、やがて此処に来るこの人の因縁の人達に殺されかねない。例えそれが光の立場にある人達であっても、こいつの下に居たというだけで生かしてくれる保証なんて灰燼になって消えてしまったようなものだ。
 DIOは、私が寝ているベッドの横へ椅子を持って来ると、そこに腰を下ろした。足を組み、肘掛けに肘を置き、頬杖をつきながら、私の顔をじいっと見つめ、重々しくその口を開いた。

「その様子では、やはり矢の事は知っていたようだな」

 その言葉にはっとした。
 迂闊だった。本来、矢の事を知る人間なんて、そう簡単に居て良いわけが無い。
 心臓がけたたましく鼓動を早めていく。緊張が、コップを握る私の両手に力を加えた。
 誤摩化せるだろうか。これも理由は覚えていないのだけれど、何故か知っているのだと、そう言って信用されるだろうか。

「え、っと、あの」
「恍けるなよ」

 鋭く言い放つDIOの声に、私の身体は恐怖で硬直した。誤摩化しても無駄だと感じた。根拠なんて無いが、きっと聡明な吸血鬼には見抜かれているのだろうと直感した。
 私の顔を見るDIOの目が鋭く光る。口元は笑みを浮かべているのに、その目は全く笑ってなんていない。
 逃げなければ、と思った。
 だがどこに?
 不法に入国をした無籍の人間を保護してくれる人なんて、どこにいる?
 こつん。部屋の電気に誘われた虫が窓ガラスにぶつかる音がした。それ以外の音は聞こえてこない。部屋の中は勿論、廊下からも人の気配は感じられなかった。そういえば、今は何時なのだろう。
 たった一瞬、次にDIOが口を開くまでのその一瞬が、果ての無い永遠のようだ。脳内を一瞬で様々な情報が駆け巡る。私がDIOに話した事、訊かれた事、石の矢、まだ知らない自分自身のスタンド。これだけの情報が一瞬で脳内を巡るわけが無いから、ひょっとしたらDIOが時を止めているのかも知れない。でもそれだと、私が認識出来ないか。

「全く不思議なものだな。わたしのスタンドの事も、首から下の事も、部下しか知らない筈だ。なのに、部下は皆、口を揃えて貴様の事など知らないと言っている」

 愉快そうな話し方だった。引っくり返した亀が起き上がれずにいるのを面白がっている子供のような、純粋に見下した目だ。
 DIOの視線から逃げたくて、コップの水を再び口に含んだ。

「何故だと思う? 記憶を無くしたという貴様が、狙ったかのように自分の事以上にこのDIOの事を覚えている。まるで狙ったかのように、だ。……いや、わたしの考え過ぎかな、フフ」

 せせら笑いを浮かべながらDIOは饒舌に話し続ける。流暢な日本語で発するその言葉一つ一つが、ゆっくりと、一歩ずつ、じわじわと私を追いつめて、谷底へと突き落とそうとしている。
 まるで、私の事なんて全て分かっているのだと、暗に言ってきているようにも感じた。その表情や言葉から彼の真意を読み取れる程私は賢くない。

「名前。わたしには今、一つの仮説が浮かんでいる。折角だ、貴様の意見も伺いたい」

 ピンと人差し指を顔の前に立てながら、足を組み替える仕草が何だか艶かしく見えた。DIOが口を動かす度に見え隠れする鋭い犬歯が、私のDIOに対する恐怖を助長させているような気がする。
 仮説、なんて言うが、その顔は先程の直感も相俟って、ほとんど確信をしているように見えた。かも知れない、では無く、そうに違いない、と言っているような。私の事など見通しているのだという、そんな顔だ。

「わたしは、貴様が嘘を吐いている、と考えている」
「……う、そ、って」

 何とか声を絞り出すと、口の中が渇いている事に気が付いた。コップの水はもう飲み干してしまった。

「人間誰でも嘘は吐く。わたしだって嘘を吐く。それは然したる問題ではない。重要なのは、貴様の言葉のどこからが嘘なのか、ということだ。なあ、名前よ。今から尋ねる事には、是非とも嘘偽り無く答えて頂きたいものだ」

 一瞬の沈黙。DIOも、私も、口を開かずに見つめ合う。
 音の消えた部屋の中で点滴だけが、規則的にポタポタと薬液を私の体内へ流そうと動き続けている。
 DIOは椅子から立ち上がり、私に顔の高さを合わせるように身を屈めると、恰も優しく宥めるような手つきで私の頬を撫でた。その目は、私を品定めするというよりは、私の反応を楽しんでいるかのように細められている。
 決断を迫られている。きっと、答え方次第では恐らく私は死ぬ、かも、知れない。この頬を撫でている手で、あっさりと首を切られて、ゴミと同様に捨てられて。
 私の中で天秤がぐらぐらと揺れている。自分の命を取るべきか、まだ見ぬジョースター家の命を取るべきか。
 もしジョースター家とDIOの因縁が、目の前の男が勝利する形で終わってしまったら、この世界はどうなるのだろう。承太郎の母が死に、恐らく杜王町に居る幼い仗助も死に、徐倫は生まれない。そんな世界になってしまったとしたら。

「記憶喪失だというのは嘘だな?」

 それでも、私は死にたくない。







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2014.11.29