07







 肩書きから職業が無くなって一ヶ月が過ぎていた。
 小学生の頃、夏休みの一ヶ月というのはとても長く感じていたような気がする。学校がある日よりも早い時間に起こされて、寝惚け眼をこすりながら公民館前の駐車場にラジオ体操をしに行っていた。とても面倒で嫌いだったけれど、私以上に朝に強くない父親が頑張って起きるものだから、まだ負けん気の強かった幼い私は父に対して意地の張り合いをしていた。そうやって早起きした分だけ、夏休みの一日というのは今の何倍も長かったような印象が記憶に残っている。昔も今も、二十四時間は全く同じ長さの筈なのに。
 年を重ねる度に、日が落ちていくことを惜しむ気持ちを忘れていっている。それは大人になっているのだと綺麗に受け止めるには、あまりにも寂しい感覚だ。けれど小学生の頃のような感覚はもう思い出せない。やることが無いという暇な気持ちも、自分には使い切れないほどのたくさんの時間が用意されているのだというワクワク感も、何も思い出すことが出来なくなった。早起きだって、仕事を辞めてからは一度もしていない。昔は躾に厳しかった筈の母も、大人になった私に対してうるさく言わなくなった。でも、時々何かを言いたげな顔をしているから、娘に対して我慢をしているのか、期待を諦めているということなのかも知れない。でも、それで良いと思う。それで良いんだ。私に期待なんて、するものではない。
 不思議なことに、無職でいることに対して家族は何も言ってこない。すぐに新しい仕事を見つけろとまでは言わずとも、近い内に再就職に関する話をいくらでもしてくると思っていた。私の様子が明らかに気落ちしているように見えるらしいから、気を遣われているのかも知れない。鬱だとか、無気力症候群だとか、そういうものになったつもりは無いし、私自身はいたって健康体のつもりなのだけれど。そういえば、最近体重計に乗っていないけれど、ジーンズの腰回りに余裕を感じるようにはなった。季節的に夏バテだろうけど、家族に余計な勘違いをされていそうだ。
 別に、無職のままでいるつもりは無い。_今の時代、実家暮らしとはいえど、独身女が無職でいることに対して、世間の眼差しの色は白い。仕事をするということは、社会に馴染むことが出来ている証だ。人間が人間として生きる為には必要不可欠で、人間が人間たらしめる前提条件とされている。
 でも今の私は、それすら出来ていないのだ。人間は社会的な生き物の筈なのに、その社会に馴染めていないなんて、そんなの、惨め以外の何物でも無いじゃないか。
 惨め。そう、惨めだ。
 今の私は、とても惨めだ。



 家の近所に小さな公園がある。
 本当に小さな面積で、たぶん我が家よりも狭い。小さな砂場と、ブランコと、大人三人が詰めればなんとか座れるくらいのベンチがあるだけの、質素な公園だ。公園と呼んで良いのかすら怪しい。でも一応遊具は置いてあるから、便宜上公園ということにしておく。
 質素すぎるからか、私はここで子供が遊んでいる姿を見たことが無かったし、それよりも、酔っ払ったサラリーマンがベンチで寝ていたり、合コン帰りの大学生が必死に女の子を口説いていたりする姿の方が印象強い。そういう人達の仲間になりたくなくて、私はその公園の敷地内に一度も入ったことは無かった。
 そんな小さなこの公園は、家からコンビニへ向かう道中にある。一本道の横にあるか為に、避けて通ることも出来ない。
 夜中の公園は存外不気味に見えた。それは、人がいないとか、街灯の電球が切れかかっているとか、そういう人が怖いと思う条件を揃えているからだと思う。カップルがいたり、空が晴れて星が綺麗に見えたりしていれば、たぶん同じ夜でももっと雰囲気は違っていた筈だ。あの公園にカップルがいたことなんて無いけれど。
 街灯の明滅に気を取られていた所為で、私は公園のベンチに人が座っていることに気が付かなかった。誰もいないと思っていた暗闇から突然声が聞こえてきたものだから、心臓が飛び上がった私は、心臓と一緒に体全体を跳ね上がらせて小さな悲鳴も零してしまった。

「あ・・・・・・ご、ごめん」

 暗闇から飛び出した声には聞き覚えがあった。この暗さによく似合う、陰気な声。
 一松くんだ。

「え、あ、なんだ、一松くん、か、びっくりした・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・えっと、な、何、してんの、こんな時間に」
「・・・・・・さ、散歩。い、一松くんこそ、こんな時間までお友達と戯れてんの?」

 そういえば、あのお店の脇以外の場所で会うのは初めてだ。一松くんの周囲に猫はいない。こんな時間だし、さすがに野良でも寝ているのだろう。
 一松くんは何をするわけでもなく、本当に、ただベンチに座っているだけにしか見えない。両手もパーカーのポケットに突っ込んでいる。私の問いにも、言葉を濁すように曖昧な返事しかしない。何かを隠しているように見えるが、それが何なのかを推し量るだけの情報も知能も私は持ってない。
 何を話せばいいのか分からないけれど、このまま立ち去るのも気まずい選択だ。どうしようかと俯いたとき、先程コンビニで買った物を思い出した。

「・・・・・・あの、良かったらさ、一緒に、どう、ですか」

 右手に下げたコンビニのレジ袋を軽く持ち上げた。空いている左手で、袋の中から缶チューハイを一本取り出して見せた。何の誘いか合点した一松くんは、それでも躊躇うように視線を宙に彷徨わせている。

「あ、もしかして下戸?」
「・・・・・・い、いや、そうじゃない、けど」
「まあ、私もあまり強いほうじゃないし、買ったのアルコール弱いやつばかりだから」

 持っていた缶をベンチに乗せ、レジ袋の中に入っている残りの酒を全部ベンチに並べた後、袋をひっくり返してつまみと菓子をベンチに落とした。バラバラと軽い音を立てながら、一松くんの隣、ベンチの中央に、色とりどりの袋が散在した。
 私が並べた缶の中から一番アルコール度数の低いものを差し出すと、一松くんは一瞬躊躇ったらしいが、反論もお得意の卑屈な台詞も無いまま大人しく受け取った。受け渡すときに一瞬だけ触れた、一松くんの指先は乾燥していた。
 散らばった袋を軽く整頓してから、私はつまみの山の左隣に座った。山から一つ手に取って封を開ける。財布にあまりお金が入ってなかったので、ベンチに積まれたつまみ類は、柿の種とかスルメイカとかの安いものだけだ。私はビーフジャーキーとかサラミとかの方が好きなんだけれど、さすがにちょっと高くて諦めた。安物だらけの安っぽい飲み会。働いていない身分には丁度良いだろう。
 私の価値観で言えば、一松くんも私と同様に惨めな存在だ。無職で、働いたことも無くて、他人とろくにコミュニケーションも取らず、親の脛を齧り続けている。
 お揃いの、惨めな者同士の、傷を舐め合う慰安会だ。こんなこと、一松くんに言ったら怒られるかもね。

「あんたも悪趣味だな。俺なんかと晩酌とか」

 一松くんが缶のプルタブに指をかける。プシュッと発泡の音が聞こえた。

「物好きではあるかもね」

 私も一松くんに倣うように、手に持った缶のプルタブを引っ掛け上げる。真似事のように、二人で缶を合わせて乾杯をした。何に乾杯するのかを決めていないので、取り敢えずお互いにお疲れ様と労い合った。

「まあ、別に疲れてないけど」
「フフ、確かにね」

 まだ酒を口にしていないのに、どこか互いに上機嫌だ。
 呷った酎ハイは甘酸っぱい味がする。ジュースみたいな味の中に、ほんのりとアルコールの熱さを感じた。

「そういえば、一松くんってラインとかやってる? 教えてよ」
「・・・・・・やってない」
「えっそうなの。今時珍しいね」
「べ、別に、必要ないし」
「あ、そういえば人間の友達がいないんだもんね。そりゃ使わないかぁ」
「喧嘩売ってんの」
「いやいやごめんごめん。ヘヘヘ」

 一松くんはたった三パーセントのアルコール度数の、ジュースみたいな甘いカクテルを、初めてのお酒に戸惑う女の子のようにちびちびと飲んでいる。高いお酒でもないのに、と言うと、あまり酒に強くないのだというモゴモゴとした返答があった。私もお酒は弱い方だと思っていたけれど、一松くんに比べたらずっと強い方なんだと思った。
 段々と酔いが回ってきたのか、頭が浮いているような感覚だ。最後に居酒屋に行った日を思い出せないくらい、しばらく他人と盃を交わしていなかったから、こういう感覚はとても久しぶりに思える。とても快い気分だ。安酒の癖に、私の口を緩くしていく。

「・・・・・・ねえ、一松くんってさ、生きるの楽しい?」

 普段なら絶対に他人に尋ねないような質問だ。何を聞いているのだろうと思う反面、麻痺した脳は否定的な考えを蔑ろにしていく。自制が効かない、とはこういう気分を意味しているのだろう。一松くんがおかしい人を見るような目をこちらに向けている。きっと、普段の私なら、その目を向けられたら萎縮して発言を誤魔化そうとしていただろう。
 でも、今の私は、酒を飲んでいる。何かもうどうでも良いじゃん、と脳の奥でアルコールが微笑んでいる。

「・・・・・・何それ。働いてないのを非難したいわけ?」
「あ〜違う。そうじゃないの。そうじゃなくて、ヘヘヘ、ごめん、上手い言い方分かんなくて」

 ヘラヘラと笑っている私の顔は、たぶん、とても失礼に映ってるのだと思う。冷静に分析している私も、私自身の行動を咎めることはしない。私って、こんな酔い方をするタイプだったっけ。
 間抜けに笑う私を、一松くんは仄かに赤らめた顔で見ている。その目は呆れているように見えて、そう思われたくない私は、ふざけてるわけじゃない、と弁解した。そう、ふざけているわけではないのだ。これでも。

「別にさ、働いてるか働いてないかとかじゃないの。そういうわけじゃなくて、難しい話でもなくて、単純に、って話なんだけどさ」

 元々あまり頭が良くない癖に、酔ってきている所為か、分かりやすく噛み砕いた説明をしようとすればする程ややこしく話しているような気がする。とにかく、難しく考えないで良いから、と念を押した。

「ねえ、一松くんは、楽しく生きてる?」

 もう一度繰り返して問うと、訝しんでいた一松くんは、それでも暫し考える様子を見せてから小さな声で、楽しいよ、と返答してくれた。
 楽しい。そうか、一松くんは楽しいのか。
 彼の返答が、ずんと私の身体を重くした。私と一緒で働いていない癖に、私と一緒で自己肯定感が低い癖に、友達は猫しかいない癖に、一松くんはこの人生を謳歌しているのだ。私と同じで、いや、私よりもずっと社会から外れた生き方をしているのに、それを良しとしている姿勢が何だか気に入らなくて、それと同時に、私には選択の権利が無いところすら許せずにいる自分の心の狭さに、どんよりとした色々な感情が綯い交ぜになった。

「そっか、へえ、良かったね」

 自分でも驚くくらい、そっけない返事が出た。一松くんは私の質問の意図が読み取れず、訳が分からないと言いたげな顔をしている。

「私はね」

 残り僅かになっていた缶の中身を飲み干して、押し込むようにスルメイカを食んだ。

「私が我儘なだけかも知れないし、理想が高すぎるだけだとも思う。でも、それでも、私は、生きるのはかなしいし、つらい」

 一松くんは何も言わない。

「周りは当たり前に出来るんだよね。いろんなこと。器用に、上手にやり過ごしてる。それを当たり前にやってる。私には出来ない」

 私は何を言っているんだろう。忙しなく口を動かしている自分を、どこか他人事のように眺めている自分がいる。他人事だからか、止めようとは思わなかった。

「頑張ってるつもりなのに。皆と同じようにやろうとしてるのに。出来ないの。怠けてるつもりも無いし、そりゃまあ、時々は手を抜いちゃうときもあるけど、でも、一生懸命やってるつもり。一生懸命やってるの。本当に。必死で。なのにさ、なのに」

 あ、これ、やばいやつだ。そう思って、歪んだ視界に一松くんを入れないように咄嗟に俯いたら、瞬きと一緒に目から何かが剥がれるような感覚があった。剥がれ落ちた先を見ると、足元の砂に小さな丸い染みがある。ほら、やっぱりやばいやつだ。私、泣き上戸じゃない筈なんだけれど。

「こんな筈じゃあ、なかったのに」

 ぽろり、ぽろり。目から沢山剥がれ落ちていく。喉がひくひくとしゃくりあげだして、咄嗟にベンチの上に足を乗せて、膝に顔を押し付けた。
 さっきの質問で、私は一松くんにどんな返答を求めていたのだろう。私のように、悲しいとか、辛いとか、そういうネガティブな感情をお揃いで持って、こう感じているのは自分だけじゃないんだって、共感出来る人が他にいるんだって、安心したかったのだろうか。

「・・・・・・あ、・・・・・・あの・・・・・・・・・・・・だ、だい、大丈夫?」

 一松くんの戸惑っている声が聞こえた。私は一松くんに何をしているのだろう。飲めない酒を強要して、一人で酔っ払って、一人で泣き出してる。間抜け以外の何者でもないじゃないか。
 深呼吸を繰り返して、半ば無理矢理息を整えた。それでも生理現象には抗いきれなくて、時々ふがふがと情けない音が口から漏れている。コンビニと家を往復するだけのつもりだったからハンカチなんて持っていない。品が無いけれど、Tシャツの襟ぐりを引っ張って顔を拭いた。
 時間が夜であることと、街灯が切れかかっていることに感謝した。一松くんにはっきり見えない状況なのは不幸中の幸いだ。私の顔、絶対に汚い。
 視界の端で一松くんが狼狽えている。目の前で突然泣かれるなんて、気分が悪いだろう。

「・・・・・・ごめん、変なところ見せた。ごめん、こんなつもりなくて。本当、ごめん。開けてないの、全部一松くんにあげるから、家族で食べて」
「え、ちょっと、え」

 一松くんが戸惑っていることも構わずに、私は彼と飲みかけの酒を置いて逃げた。一松くんが私の名前を呼んだような気がしたけれど、振り返るだけの図々しさは持ち合わせていなかった。



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