08







 彼女が置いていったレジ袋の中に、彼女の財布が入っていた。財布、と呼び止めようと思って顔を上げるが、逃げるように帰ってしまった彼女の後ろ姿はとうに夜の帳に溶けて消えていた。
 家族ならまだしも、赤の他人の財布を開くわけにはいかない。しかし、彼女との連絡手段も無いのに、今後あるのかすら分からない次を待つのも駄目だろう。きっと、彼女がとても困ってしまう。
 心の中で謝罪をしながら、折りたたまれた財布を手に取った。黒い革で、金色の特徴的なロゴが装飾で入っている。女性向けのブランドは全く知らないから、どこのものなのか分からないけれど(たぶん、シャネルとかヴィトンとかではないと思う)結構良い値段がしそうな雰囲気がある。ニートの俺は絶対に縁が無いだろう。
 もう一度、心の中で謝罪をして、その気品のある財布を開いた。中には本屋とかコンビニとかのポイントカードが数枚、銀行のキャッシュカード、クレジットカード。お札を入れるポケットには、お金の代わりに大量のレシートが無造作に入れられている。小銭入れのファスナーを開けると、三つに分かれたポケットに、無差別に小銭が入れられていた。整理が苦手なタイプなのだろう。
 ポイントカードの束に紛れて、彼女の保険証が出てきた。国民保険と書かれている。親の扶養に入っている俺達の保険証と違って、紙に印刷されたものをプラスチック素材のカバーに入れただけの、なんだか安っぽいものだ。
 確か、国民保険って、自営業とか、個人経営とかの、会社で働いてない人が持つものじゃなかったっけ。保険のことなんて考えたことが無かったから、ぼんやりとしたことしか知らないけれど、でも会社で働いてたら会社の保険に入るものだったと思う。
 ここで、ふと思い当たった。そういえば、彼女から仕事の話は聞いたことが無い。話したくないとか、俺は話すに値しないとか、そんな単純な理由の可能性もあるけれど。でも、彼女が帰ってしまう前に漏らしていた話が、何か簡単じゃない事情を抱えているように思わせた。
 保険証を裏返して、ドキッとした。彼女の家の住所が書かれている。
 これは、届けるべきなのだろうか。そう考えた直後に、数分前に聞いた涙交じりの声を思い出した。泣いていた彼女をろくに慰めることも出来なかった俺が会わせる顔なんてあるのだろうか。そもそも、いくら住所が書いてあったとはいえ、いきなり家に押し掛けるなんてストーカー以外の何者でもない。仮に会えたとしても、何を話せば良いのか分からないし、どんな顔をすれば良いのかも想像出来ない。
 決断をつけられず、財布を両手にベンチで座り惚けていると、視界の端で何かが動いた。反射的に顔を向けると、暗闇の中からぼんやりと人影が向かってきている。時間が時間だから居酒屋帰りのサラリーマンだろうか、なんて考えてこの場から動かなかったことを直後に後悔した。

「おっ、一松くんじゃ〜ん。こんな所で一人寂しく晩酌ゥ?」

 ゲエエエエエ何でこういうときに限って宇宙一のアホが来るんだよふっざけんなよ!
 俺が心の中で叫んでいるなんて露知らずの、この長男は酒と煙草の混ざった汚い息を吐き出しながら、危なっかしい千鳥足で数分前まで彼女が座っていた場所に汚い尻を粗雑に落とした。

「えっ、ちょ、何それ財布? 落し物? 中にいくら入ってる? 分け前はもちろん俺に九割っしょ?」
「ち、違うし、触んなバカ」
「は? じゃあこれお前の? お兄ちゃん、さすがに弟の女の子趣味は受け入れるのにちょっと時間欲しいかなあ〜」
「んなわけねーだろ」
「いや〜ん一松くんこわぁ〜い」

 俺が思わず声を荒げると、酒の臭いを纏っているカス松は両手を折り曲げて胸元に寄せながら、オカマのようにクネクネと気持ち悪く身を捩った。悪酔いにも程がある。死んでくんねーかな。

「あっ! 俺分かっちゃった〜この間一緒に大通り沿いのレンタル店で一緒にいた子のでしょ! 合ってる? ねえねえ合ってる?」
「は? べ、別に」

 今のおそ松兄さんが相手ならいくらでも簡単に誤魔化せた筈なのに、酒に酔っただらしない脳味噌で言い当てられたことに戸惑ってしまった俺は、言葉に詰まって視線を逸らしてしまった。やばい、と確信するよりも先に、心底意地悪そうにクソ長男の口が弧を描いた。

「なになになになになに? 何だよ何だよォ〜お前まさかここで密会してたのか! カァーッふざけんなよ! 死ね! ドブに挟まって死ね!」
「ち、ちげーよバァカ! た、たまたま会ったから、ここでちょっと喋ってただけで」
「どぉ〜こがたまたまだよ! 俺知ってんだかんな! お前先週もあの子とレンタル店で会っててよォ〜店の前で別れたふりしてこの辺まで彼女の後をつけてただろ! ストーカーかよ気持ち悪ィ! やっぱり死ね!」
「お、お前も俺の後つけてたんじゃねーかそれ! ふざけんな!」

 言われたことは事実だから反論しようが無い。ただ誤解しないで欲しいのは、ストーカーをしたのではなくて、たまたま彼女の家路と俺が会いに行こうと思った友達の縄張りが同じ方向だったってだけだ。断じて俺はストーカーじゃない。マジで。いやでもあれはストーカーだったのか? 松野一松はストーカーだった? 駄目だこいつと話してると自我が揺らぐ。

「ちょ、あれ、ゴミ松兄さんと話してると疲れる。俺帰るし、兄さんも死なない程度に酒抜いてから帰って」
「さすがの俺もこんなところで抜かないよ〜抜けるオカズも無いしよ〜」
「死ねシコ松」

 俺はチョロ松じゃねえ、というカス松兄さんの声を聞き流しながら、俺は早足で公園から離れた。咄嗟に立ったから、彼女の財布を持ったままだ。いや、でもあそこに置きっ放しにはしておけないし、あのクソ長男の手に渡ってしまうよりは俺が持っていた方がずっと良い。

「ねえそれ返さないの? 返しに行かないの?」
「うっわ何で一緒にくるの」
「家族なんだから帰る家が同じなのは当然だろォ〜?」

 酒臭いおそ松兄さんが俺の肩に腕を回してくる所為で、どぎつい口臭がダイレクトに俺の鼻腔を抉ってくる。俺にもう少し腕力があれば背負い投げで一本決めてた。

「どうせストーカー松くんはあの子の家知ってるんだろ? 教えてくれれば俺が代わりに返しに行ってやるよ」
「誰がストーカーだふざけんな。家なんて知らないし、天地が引っくり返ってもお前には頼まないから」

 おそ松兄さんの腕を振り払いながら、彼女の財布を奪われないようにポケットに突っ込んだ。財布を横取りしようとしていたおそ松兄さんの腕は俺の胸元の空気を掴んだ。

「ちぇっ。じゃあどうすんの? その財布」
「どうするって、別に、おそ松兄さんには関係無いでしょ」
「カァーッ! バッカお前、優しい長男様が折角可愛い弟の恋路を心配してやってんのによお! まあニートじゃそもそも対象外だろうけど」
「べべ、べ、別に、そ、そういうのじゃ」
「そんな分かりやすい顔しといてよく言う・・・・・・う、やばい吐きそう」

 酔いどれ松兄さんが口を両手で押さえた直後、その指の隙間から唾液にしては多すぎる量の液体が溢れ出した。やばい、と思うと同時に死に物狂いで後退したお陰で、ゲロ松兄さんのどくどくからの回避に成功した。吐瀉物独特の酸っぱい臭いが鼻を通った瞬間、それが喉の奥から何かを引っ張り上げてきた。ふざけんなよ、という怨念を込めて目の前で息を切らしているどくタイプの長男を一瞥した。
 その直後、俺もどくどくを吐き出した。



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