06







 最近よく映画を見るようになったじゃない。
 ある日、母がそんな言葉をかけてきた。よく、なんて言っても、一週間に一本しか借りていないから単純計算で一ヶ月に四本だ。そして、借りるようになってから今見ているのは三本目。よく見る、という台詞に当てはまる頻度でも本数でも無いような気がする。でも、以前は半年に一本見るのかどうかというくらいだったから、今までの私と比べたら、確かに映画をよく見るようになったとは言えるのかも。
 映画を見るのはとても疲れる。テレビの前でじっとしている、という行為に慣れていないとか、二時間前後ずっと映像を見続けることに慣れていないとか、理由は色々あると思う。私の身体が映画を見ることに適応しきっていないのだ。映画に限った話ではなく、慣れない行いというのは、どんなことでもとても疲れる。
 テレビの画面は、幸せそうな音楽と一緒にエンドロールを流し始めた。麦茶で喉を鳴らしながら、読めもしない英語のテロップを眺める。あれはジムであれはアダムかな、と英語の成績が芳しく無かった私でも分かる名前の綴りを探しながら、映画の完結を見送った。リモコンの取り出しボタンを押して、プレーヤーから円盤を取り出して、半透明のレンタルケースに戻して、コップに残っていた麦茶を飲み干した。
 風呂に入っていた筈の父がいつの間にか冷蔵庫から缶ビールを取り出していたので、そろそろ私も寝る準備を済ませようと浴室へ向かった。
 明日は借りていた映画の返却日だ。



 一週間、この日を楽しみにしていた。楽しみという言葉では些か大袈裟であるかも知れない。でも、よく考えてみると、やはり楽しみという言葉が合っている。約束をしているわけではないが、予想が当たっていれば絶対にいるだろう、という確信が私にはあった。
 相変わらず元気な太陽に照らされながら、レンタル店の脇の影に真っ直ぐ向かう。影の中には、いつも通りの場所に、いつも通りの見知った姿があった。足元で餌を食べている猫もいつも通りだ。声をかけると、陰気な影は少し肩を跳ねた後にこちらへ振り向いた。

「いつもここにいない?」
「・・・・・・べ、別に」

 私を見た目は随分と見開かれていて、その後すぐに何かに気付いたようにキョロキョロと辺りを見回した。どうしたのかと尋ねると、何でもないとはぐらかされた。

「ねえ、一松くん」

 そういえば、先週本人に尋ねたのだが、彼の名前は一松くんというらしい。漢字は違うけれど、市松模様と同じ、いちまつ。松野一松。一がついているけど、長男ではないとか。何番目なのかと尋ねても答えは返ってこなかった。家族の話は好きではないのだろう。
 一松くんの隣に座り、一松くんの顔を見た。一つ年下の陰気な彼は、毎週必ずここにいる。平日の、それも昼間だけではなく、夕方にもだ。先週のことだった。本人はたまたまだと言っていたけれど。こうして一松くんと会う度に、私の予想は少しずつ確信に近付いている。
 勿論、それだけで決めつけるには早計すぎるし、他の様々な理由である可能性だって勿論ある。仕事の休みが週末じゃないとか、シフト制とか。でも、それらの可能性以上に、本人が纏っている雰囲気が、同族意識のようなものを私に感じさせていた。同族意識とは、つまり、私の現状と重なっているのでは、ということだ。

「・・・・・・何」

 ぐるぐると考えていると、一松くんの戸惑ったような声が聞こえた。無言のまま顔を見ていたら怪訝な気持ちにさせるのも当然だ。

「・・・・・・あー、いや、やっぱり何でもない」
「何それ。気持ち悪い」
「いや、たぶん、聞いたら怒ると思うし」
「まあ、別に、言いたくないなら、あれ、良いけど」
「・・・・・・・・・・・・あー・・・・・・あのさ、怒らないで欲しいっていうか、本当、他意は無いから、ほんとに」

 諄い程に何度も前置きを繰り返す度、比例するように私を見る目が訝しんでくる。言うなら早く言え。そう急かしているのだと、言葉にせずとも読み取れた。

「・・・・・・一松くんってさ、もしかして、あの・・・・・・・・・・・・し、仕事、してない?」
「・・・・・・・・・・・・」

 一松くんは表情を消して、私の方へと向けていた顔を猫へ逸らした。
 やはり聞くんじゃなかった。後悔の気持ちがムクムクと一気に肥大化する。こんなの失礼にも程がある。私なら絶対にそんな質問、されたくない。
 一松くんからの返答は無い。この問いに対して黙るということは、肯定ということなのだろうか。でも、それ以上に私に対する憤りが先行していそうだ。たぶん、一松くんは怒っている。

「ご、ごめん、今の無し。ごめん。失礼だよね、ごめん。本当にごめん」

 後ろめたさから一松くんの顔を見ることが出来ず、先ほどの彼と同様に猫を見た。一松くんが持参した餌を食べきっていた猫は、ゴロゴロと喉を鳴らしながら彼の脛に擦り寄っている。
 沈黙が続く。これ以上私から何を言えば良いのか分からず、しかし、一松くんも口を開かない。
 どうしよう。きっと、物凄く怒らせてしまったんだ。暗い雰囲気の彼だから、そういう風に見られることを人一倍快く思っていなかったのかも知れない。私だって同じことを言われたら絶対に怒る。だから、一松くんが怒らない筈が無い。

「・・・・・・い、一松くん?」

 一松くんは俯いてから一言も発していない。ここが陰りであることに加えて、一松くんの前髪が彼の目を隠してしまっているから、一松くんが今どんな表情をしているのか推し量るには情報が足りなかった。
 真綿を詰められたような長い沈黙(本当は数秒とか数十秒とかかも知れないけれど、体感的にとても長い時間に感じられた)が続いて、心地好さそうに猫がごろりとコンクリートに寝転がったとき、俯いたままだった一松くんの口から声が聞こえてきた。

「・・・・・・してなかったら?」
「え?」
「軽蔑する? するよね。良い歳して、親の脛、齧ってるんだもんな。そりゃあクズでクソ野郎だって思うよな」

 突然早口で捲し立てるように言われて私はすぐに内容を理解出来なかった。数秒の間を置いて、彼が卑下しているのだと気付いた。

「そ、そういうつもりで、言ったんじゃない」
「じゃあ何? 俺がそういう風に見えるってこと? まあ、その通りですけど。その通りだから、見下したければ見下してどうぞ。俺はどうせゴミですよ」

 慌てて否定しようとしても、被せるように一松くんは話し続けた。相変わらずボソボソとした喋り方だけれど、今までの吃音は何だったんだと思いたくなるくらい流暢に自虐の言葉を吐いている。

「・・・・・・別に、一松くんのこと見下してなんてないよ。仕事してないのかなって思ったのも、平日なのに、いつもいるからで、別に何か偏見でそういうこと思ったんじゃ、ないっていうか」
「いいよ、別に、ていうか、見た目からもうニートだってのは分かってるから、気遣いなんていらないし」

 子供か、と思わず言いたくなる喉をぐっと押さえ込んだ。確かに社会に馴染めてないような雰囲気はあるけれど、そういうところから思ったわけではないのは本当なのに。
 矢継ぎ早に言い立てる一松くんが落ち着くまで、彼の口から吐き出されていく自虐の言葉を受け流し続けた。そんなこと無いよ、なんて慰めを一言投げかける度に、私の気遣いは十倍の呪詛になって返ってきた。
 一通り吐き出し切って一松くんは我に返ったのか、先程までの自虐的な発言に対して謝った。自分が卑屈だという自覚はあるらしい。

「一松くんって、友達とかいないの?」
「・・・・・・何でそんなこと聞くの」
「いや、気になっただけ、なんだけど」
「いるように見える?」
「そういう質問の返し方って意地悪だと思う」

 たぶん、いないんだろうな。先程の自虐と口ぶりから、何となくそんな気がする。

「友達がいないのって、寂しくないの?」
「・・・・・・別に。こいつら、いるし」

 そう言いながら、一松くんは自分の足元で寝転がっている猫を優しく撫でた。腹を撫でられた猫は遊び道具を出されたと思ったのだろうか、一松くんの少し骨ばった手にじゃれついている。一松くんが指の動きを緩やかにすると、なかなか捕まえられずにいた猫はチャンスと言わんばかりに一松くんの指に噛み付いた。痛そうに見えたけど、遊びだから本気で噛み付いてるわけじゃないのだろうか、一松くんは猫を振りほどかない。

「・・・・・・そう」

 ため息のような返事が出た。
 猫が友達でも別に構わないとは思う。世の中には漫画やアニメの世界にしか居場所を見出せない人もいるらしいし、相手が生き物であるだけでも充分健康的だろう。
 でも、それでも、動物は人間と違う。猫は言葉を話さないし、人間の話す内容なんてこれっぽっちも理解してくれない。社会的なコミュニケーションが成り立たない相手しか友達がいないなんて、結局寂しいだけだ。

「・・・・・・私はね」

 口を開くと一松くんが私を見て、互いの目線が交わった。前髪の隙間から覗く目は以外と大きい。大きいからこそ、尚更その目の暗さが見えた。

「私は寂しい。ひとりって、本当に寂しい。世界に私しかいないのなら大丈夫なのかも知れないけれど、これだけ大勢の人が蔓延ってて、その中にぽつんと取り残されてるのは、寂しくて仕方がない」
「・・・・・・そりゃ可哀相なことで」
「別に、働いてないことは悪いことじゃないと思うよ。理由は、何かこう、うまく言えないけど、別に、良いんだよ。親の脛なんて、齧れるときに骨までしゃぶってれば。でも、ひとりでいるのは寂しいし、かなしいことだと思う。家族だからこそ話せないことってあるし、それを誰かと共有しないでひとりで抱え続けるのって、どんなに体力があっても耐えられないよ。無理だと思う。私には出来ない」
「働いてないことと一人でいることって関係無くない?」
「関係、は、あると思う。うん、あるよ。あるの。うまく説明出来ないけど」
「うまく言えないって、そればっかじゃん」
「ボキャ貧なんですぅ」

 話しながら無意識に逸らしていた視線を、もう一度一松くんへと戻した。向こうは話している間も私の方を見ていたようで、再びお互いの目が合った。一松くんの目は変わらずどんよりと暗いけれど、会話が少し砕けたからか、表情が薄っすらと緩んでいた。

「あ、あ〜・・・・・・いや、こういう話をしに来たんじゃなくて、あれ、あれなの、一松くん、この間借りたやつ見終わったよ」
「・・・・・・ああ、えっと、あの、あれだよね、ジム・キャリーが主演の、えっと」
「トゥルーマンショー」
「そうそうそれ。あれ、あの、面白かったでしょ」
「うん、あの、何ていうか、すごい話だった。面白かったよ。教えてくれてありがと」

 まだ二回だけだけど、一松くんは面白い映画を教えてくれている。一松くんは映画が好きらしく、このジャンルで、と言うと必ず数本のお勧めタイトルを教えてくれた。私一人がぼんやりと店内を歩くよりもずっと早く、ずっと確実に面白いものを見つけられる。

「ねえ、今日もお勧め教えてよ。今回はコメディだったから、次はちょっと怖いのが良いな。ホラーじゃなくて、何かこう、ミステリーみたいな」

 そう言うと、一松くんは少し得意げに笑って頷き、私よりも先に立ち上がった。



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