04







 女の子と知り合った。
 彼女の名前は、・・・・・・そういえば、名前は聞いていなかった。名前も知らない相手を、知り合いと言えるのだろうか。でも、俺は友人がいないから、名前を知らなくても顔を知っているのなら、知り合いとカウントしたって誰にも文句は言われないだろう。俺に女の人の知り合いがいるなんて、兄弟が知ったら卒倒するだろうし、絶対に良からぬ事態に転がるだろうから、絶対に言わないけれど。
 いや、別に彼女と仲良くなりたいとか、あわよくば良い関係になりたいとか、そういう期待持ってるわけじゃないけど。そんな期待は持っていても意味が無いし、俺なんかがそんな都合良いことになれるわけないし。だから兄弟に隠す必要も後ろめたさも、本当は無い筈だ。それでも隠すのは、何というか、俺もそれなりにクズだけれど、そのクズと同じ血を流す兄弟に知られるというのが、無性に腹立たしいというか、それだけのことだ。それに、たぶんもう再会することも無いだろう。俺も彼女も、互いに名前も知らなければ連絡先だって知らない。
 彼女は、見た目からたぶん俺とそう年は離れてなかったと思う。俺が年齢を言ったあとは敬語で話さなくなったから、同い年か、いくつか上なのかも知れない。どちらにせよ、同世代だろう。
 同世代。つまり、社会人。
 平日の昼間だったから、たぶん夜勤とか、シフト制とか、あまりよく分からないけれど、そんな感じの働き方なんだろう。それか、たまたま休みなだけなのかも。働いたことが無いから、平日が休みになる普通の職業って、いまいち分からないけれど。
 でも、少なくとも、俺なんかよりはずっと普通で、ずっと真っ当で、ずっと幸福に生きているのだろう。いい歳をして親の脛を齧って、いい歳をして人との付き合いを避けている俺なんかよりは。
 ずっと。



 玄関でサンダルを履いているタイミングでトド松が玄関前を通りかかった。兄弟の中で一番他人への関心があるらしい末っ子は、普段外に出ない俺が何の用で出かけるのかを知りたいらしく、何処かに行くのかと尋ねてきた。

「・・・・・・ちょっと出かける」
「また野良猫の餌付け?」
「まあね」
「好きだよね〜」
「そうっすね〜」

 その言葉、一生懸命スマホの画面を見ているお前にも言いたい。掘り下げる程の話でも無いから、一瞥だけして俺は玄関を出た。いってらっしゃいという律儀な見送りの挨拶が聞こえたので戸を閉めきる前に振り返ってみると、律儀な弟は携帯に片手で一生懸命何かを打ち込みながら背を向けていた。



 普段は色んなところに行って、それぞれにいる友達へ平等におやつをあげているのだけれど、最近はずっと同じところに来ている。
 別に、何か変な期待を持っているわけでも、誰かが来ることを待っているわけでもない。強いて言うなら、気分、そう、そういう気分なだけだ。レンタルショップのところにいる友達に無性に会いたいという気分が、たまたま一週間連続で続いているだけだ。だから、別に、もう一度あの子に会えたら良いのにとか、見かけたら頑張って会話が出来るかも知れないとか、そういう都合の良いようなことは考えてないし、思ってもいない。期待なんてしていないし、するだけ無駄だ。
 一週間連続で顔を合わせている友達は、一週間連続で同じメニューであることには文句の一つも言わずに、野性的に食らいついている。
 足音と女の人の声が聞こえて、咄嗟に振り返った。俺のいくらか後ろを、知らない女の人が男と二人で歩いていた。なんだ、とため息を吐いて、身体を友達の方向へと戻した。間抜けな自分にもう一度ため息が出た。
 友達がご飯を食べ終わったら帰ろう。そうした方が良い。わざわざ自分から虚しい思いをする必要なんてどこにも無いだろう。そもそも、どうして虚しい気持ちになる必要があるんだ。まるで、自分がもう一度彼女に会いたがっているみたいじゃないか。俺は一週間も何をしているのだろうか。そっちの方がずっと虚しいじゃないか。
 二回。会った回数は、たった二回だ。大した会話もしていなければ、互いの名前すら知らない。彼女はきっと、俺の顔どころか、話したことすら覚えていないだろう。俺という人間は、他人にとってはその程度の存在だ。
 友達は変わらぬ勢いでご飯を食べ続けている。気付けばタッパーの中身は残り僅かになっていた。もう少しゆっくり食べろよ、なんて声をかけるが、俺の言葉は届いていないらしい。分かったように鳴く癖に。

「嘘つき。めっちゃ怖かったんだけど」

 突然、聞き慣れない声がした。跳ね上がる心臓に気付かないふりをしながら、もしかしてという期待に知らないふりをしながら、ゆっくりと体を動かした。
 まさか、まさかだろ。どうせ、誰かがたまたま俺の近くで、一緒に歩いている友達に話しかけてるとか、電話をしながら歩いているとか、そんな感じだろう。期待するだけ無駄だから、緊張する意味なんてどこにも無い。どこにも無いんだ。期待は、裏切られるものである筈だ。
 結果を見て失望しないように、必死に自分に言い聞かせながら、俺は振り返った。
 けれど、俺の予想は、俺が思い描いていた都合の良い方向へと裏切られた。
 彼女がいる。先日知り合った、ホラー映画を借りていた、名前も知らない彼女。

「・・・・・・は?」

 聞き取れていた筈なのに、自分の期待通りの出来事が起きてしまった所為で、彼女が何を言ったのか分からなくなってしまった。俺の様子を見ていないのか、目の前にいる彼女はそのまま言葉を続けた。

「悪魔のいけにえ」
「え? ・・・・・・え?」
「だから、めっちゃ怖かった。悪魔のいけにえ」
「え? あれで?」
「あれで」

 彼女はそう言いながら俺の隣に腰を下ろした。すぐ隣だ。恐らく、俺との間にはこぶし一つ分くらいしか隙間が無いだろう。幼馴染のトト子ちゃんだって、ここ数年は俺達とこんなに近い距離で座ったことなんて無い。彼女の纏っている空気が布越しに伝わってくるような気がして、上昇しているであろう俺の体温が彼女まで届いていないように祈った。
 俺の不安なんて露知らずだと言わんばかりに、隣に腰掛けている彼女は不機嫌な表情のまま、捲し立てるようにホラーの名作を批難している。

「怖いし不気味だしグロいし気持ち悪いし。借りるんじゃなかった。酷い映画だった」
「・・・・・・それ、あの、ホラーの中では傑作なほう、なんだけど」
「うっそ。あー、酷い言い方かも知れないけど、ホラー好きな人達って相当な悪趣味。理解出来ない」
「ま、まあ、ホラーが好きって時点で、もうとっくに、ほらあれ、あの、悪趣味だし」
「・・・・・・確かに」

 彼女はへへっと笑った。
 よく見ると、彼女は薄っすらと化粧をしているらしかった。綺麗なピンクの唇に視線が吸い寄せられる。服装も、先週は寝巻きみたいな緩い格好だったのに、今日は何処かに出掛けるような綺麗な格好だ。こんな所で俺なんかと話すにはとても不釣り合いで、勿体無いと思った。

「映画好きなの?」
「・・・・・・そんなこと、き、聞いてどうすんの」
「お勧めの映画教えてもらおうかなって」

 ドッドッドッドッ。俺の心臓が唸っている。緊張が悟られないように、慎重に口を開く。

「・・・・・・ひ、羊たちの沈黙、とか」
「あ、タイトルは聞いたことある。あのーなんだっけ、サスペンス?」
「・・・・・・そ、そんな、感じ。まあ、あれ、気持ち悪いのが、嫌いなら、ちょ、ちょっと、合わない、かも、だけど」

 俺は、ホラーとかサスペンスとかの映画が好き。だから、知ってる作品もどうしてもそれらに偏ってしまう。それに、家族ならまだしも、他人と、しかも女の子と映画の話をすることなんて無かったから、好きな映画とか、人に勧めたい映画とか、本当は沢山ある筈なのに、俺の口が上手く動いてくれない。十四松とかチョロ松とかになら、もっと具体的にどこが面白いとか、何がすごいとか、そういう話が出来るのに。今だって、『羊たちの沈黙』がどんな映画なのか、何一つとして言えていないじゃないか。秋葉原によくいる典型的なオタクの喋り方みたいになっているという自覚が、俺を益々惨めな気分にさせた。

「えっ気持ち悪いの?」

 彼女の顔が苦虫を噛んだような渋いものになった。様子からして恐らく、ホラーのようなグロテスクな描写があまり得意ではないようだ。その癖に悪魔のいけにえなんて借りているのだから、彼女の真意がいまいち分からないと思った。

「・・・・・・ちょ、ちょっとグロいだけ、だから、悪魔のいけにえよりはよっぽど怖くないし、は、話も結構面白い、・・・・・・と、思う」

 彼女は間延びしたような声を漏らした。俺の好きな映画だけれど、彼女の琴線に触れることは出来なかったらしい。いや、たぶん、俺の説明が上手じゃなかったことが大きそうだ。そう思うと、やっぱり惨めな気分だ。まるで自分の好きなものを否定されたような気分になる。我ながら被害妄想も甚だしくて、彼女から顔を逸らした。

「じゃあ、怖くないやつでお勧めは?」
「・・・・・・え?」
「だから、お勧め。映画詳しいっぽいし、教えてよ」

 彼女は俺の顔をじっと見つめてくる。こんなに他人から(しかも女の人から)しっかりと見つめられるなんて体験、俺には刺激が強すぎる。堪えきれなくて、誤魔化すように正面の地面へと顔を逸らした。顔が熱い。

「あ、えっと、あれ、ど、どういうのが好き、なのか、分かんないと。……ほ、ほら、あれ、ジャンルとか」
「え〜・・・・・・ていうか、店が目の前にあるんだから直接教えてよ」
「は?」

 そう言うと、彼女は立ち上がった。呆気に取られている俺に、ほら、と立ち上がることを促すと、白いワンピースをひらりと揺らしながら、彼女は陽の下へと歩き出した。



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