03







 仕事をしていても、していなくても、平等に時間は過ぎる。時は金なりなんて言葉もあるが、時間は時間だし、金は金だ。金は使わければ消えないけれど、時間はこちらの意思など関係無く消えていく。二つは決して等号で繋がらない。
 目を覚ますと、太陽は真上に昇っていた。時計を見る前に、リビングの方向から主婦向けのお昼のテレビ番組のオープニングが聞こえてきて、現在の時刻を教えてくれた。
 レンタル期間はあっという間だった。映画を見る時間なんてたくさんあった癖に、何だか気分が向かなくて、結局一度も見ることは無かった。テレビ画面を眺めるだけの受動的な作業に、多大な体力が必要だなんて知らなかった。
 お金が勿体無い、と母が小言を言う。私が私のお金を使っているのだから、母に迷惑かけてるわけではないのに。仕事を辞めたことだって、借りた映画を見ないまま返すことだって、全部私が自分で決めたのだ。母が口を出すことではない筈だ。もう私は子供じゃない。
 今日も暑い日だ。先日程の暑さではないような気はするけれど、暑いものは暑い。点けっ放しのテレビが今日も真夏日だと教えてくれたので、申し訳程度に日焼け止めを塗って外へ出た。これって、本当に日焼けを抑えてくれているのだろうか。実感をしたことが無いから、いつも気休めをしているだけの気分だ。
 Tシャツ、サルエルパンツ、サンダル、すっぴん。近所にレンタルの返却に行くだけだから何も問題無いだろうと思って家を出たけれど、せめて軽い化粧くらいはしておくべきだったかも知れない。だんだんと後の祭りのような気分になってきた。たかが近所のレンタル店に行くだけなのに。
 理由は、私の脳裏に先日会った男の人が過ぎったからだ。でも、同じところで再び会うなんて少女漫画じゃあるまいし、そもそも私はそういうのは柄ではない。たぶん、男の人と会話をしたのは久しぶりだったから、少し意識しやすくなってるだけだ。何か、これ、男に飢えてるみたいですごく嫌だ。それに、この間の初対面でもすっぴんだったじゃないか。何を今更、だ。
 レンタル店の前はこの間よりも少しだけ人が多い。自動ドアをくぐる前に、建物の脇へと近づいた。猫の鳴き声は聞こえてこない。日陰を覗いても、人はおろか生き物の姿は無く、捨てられた空き缶が寂しそうに転がっているだけだった。
 そりゃそうだよな。何を期待していたんだか。
 深呼吸を一息して、踵を返した。心臓の奥を何か靄のようなものが覆っているような気がしたが、たぶん気温の所為だ。だって、ほら、店の中に入れば、冷房がついているから、もやもやしたものなんて何処かに消えた。茹だるような暑さだ、少し気が滅入ることもあるだろう。
 店内はこの間と同じ曲ばかりが流れている気がする。レンタル店の癖に、レパートリーが無いのだろうか。
 レジでDVDを返却すると、死んでいるような顔の店員がそれを受け取った。呂律が回っていないような、母音しか聞き取れない口調で店員としての決まり文句を言う。今日は日曜日だから、彼の口も休みたがってるのだろう。
 真っ直ぐ帰ろうかと思ったけれど、糸で引かれるように私はレンタルの棚が並んでいる方向へ歩いていた。折角来たのだし、前回のリベンジをしよう。今回は旧作で、一週間の猶予を作れば大丈夫。
 旧作が並ぶ棚を眺めながら足を進めた。ジャンルを問わず、店内に並べられた背表紙に順々に目を通していく。時々惹かれるタイトルのパッケージを手に取っては戻して、何か面白そうなものは無いかと期待を込めながら、ゆっくりと棚をなぞって歩いた。でも、裏面のあらすじを眺めては棚に戻してばかりでなかなか借りる物を決められない。普段映画を見ない癖に、少しでも質の良い映画を借りようと意地になっている自分に呆れた。何が良くて悪いのかも分からない癖に。
 レジに近い棚に、店員が組んだらしい特集のコーナーがあった。暑い夏を涼しく過ごそう、なんていう小学生のスローガンのようなポップと共に、和洋問わずホラー映画が並べられている。物騒なタイトルの背表紙が並ぶ中、いくつかのパッケージは店員のおすすめと言わんばかりに不気味な表紙を主張するように立てかけられている。その内の一枚を手に取り、差し込まれているレンタル用のケースを取り出した。ホラーはほとんど見たことが無いのだけれど、まあ、夏だし、たまにはこういうのを見てみるのも良いだろう。
 他にも何かを借りようか迷ったが、そのままレジへと向かった。これ以上数を増やしたら、何もしない一週間にしてしまいそうな気がしたからだ。今の私にはそれだけの体力すら残ってない。情けない話だけれども。
 旧作一週間の料金を支払って、母音だけの間延びしたような挨拶を聞き流して、出入り口の自動ドアをくぐった。一枚だけ入ったレンタル袋は見た目から感じる印象よりもずっと軽くて、歩く振動に合わせて持て余すように跳ねた。
 家路に着く前にもう一度だけ、店の横を見る。
 猫の鳴き声が聞こえた。あの店の脇の影からだ。さっきはいなかったから、私が店にいる間に来たのだろうか。糸で引かれるように数歩進んで、浮き上がる足を地に着けた。もしかして、あの人も来ているのだろうか。期待と後ろめたさが、ずるずると私を前後に引っ張っている。
 ふと気付いて、フラフラと迷う両足を止めた。期待? どうして期待しているのだろう。後ろめたさだってそうだ。私はあの男の人に対して何か負い目を感じるようなことをしただろうか? ただ猫の鳴き声に引き寄せられただけのことじゃないか。そうだ、それだけだ。とても単純な話だ。
 もう一度耳をすませると、鳴き声はやっぱり店の脇から聞こえる。私は幼い子供に言い聞かせるように、どっち付かずにいた重心を前へと動かした。心音が早まっていることなんて、私は全く気付いていない。気付いてないってば。
 視界から店の壁が途切れて、薄暗い空間が開けた。陽の下に比べて涼しい空気と、お店が使っているらしい業務用の大きなゴミ箱、一匹の猫、そして男の人。あ、と声をあげたのは、私と男の人、どちらだったのだろう。

「・・・・・・あ、えっと・・・・・・こ、こんにちは」
「・・・・・・・・・・・・こ、こんちは」

 気恥ずかしさから、相手の顔を見ることが出来ない。その代わりにそば立てていた耳が、私の俯きながらの控えめな挨拶よりも更に小さな声で挨拶が返ってきたことを拾い上げた。
 やっぱり、少しでも良いから化粧して、もうちょっとちゃんとした格好をするべきだった。後悔が私の頭を重くする。でも、挨拶をした手前、すぐにこの場を離れてしまったら変に思われそうだ。
 誤魔化すように、男の人の足元で餌を食べている猫へと近付いた。既にほとんど食べ終わっていたらしい猫は、ゴロゴロと喉を鳴らしながら差し出していた私の手へ擦り寄った。この間見かけた猫とは別の猫らしいが、同様に随分と人慣れしている。擦り寄られる度に胸の奥がきゅうっと心地良く締まった。
 一頻り猫の毛並みを楽しみ、意を決した私は顔を上げた。しゃがんで丸めていた背中を少しだけ伸ばして、緊張で固まっている唇を無理矢理こじ開けた。

「あ、あの」

 私を見ている丸い目が、更に大きく見開かれたように見えた。その様子に驚いてしまった私は、話す為の手札を何も用意していなかったことを思い出した。第一声から数秒の沈黙を置いてようやく動いた口は、私が最もされたくない質問を投げかけていた。

「お、お仕事、何されてるんですか?」

 下手なナンパでも猫の話題から入りそうな癖に、と自分の唇を呪った。我ながら酷い質問だ。男の人は、少し戸惑った様子で、数秒の間を置いてから口を開いた。

「・・・・・・は、働いてる、ように見える?」
「え、まあ、はあ」
「・・・・・・・・・・・・あ、そう・・・・・・」

 はぐらかされてしまった、のだろうか。人に言えない仕事なのか、警戒心が強いだけなのか、はたまた、実は私と一緒で働いてないのか。曖昧な返答は、私に都合の良いように想像を掻き立てた。
 まあ、もし同じ質問をされてしまったら、私も口を噤んでしまうから、彼の言葉に深入りする権利なんて無いのだけれど。

「あ・・・・・・じゃあ、歳、おいくつですか?」

 私の質問に男の人はモゴモゴと答えた。にじゅう、までしか聞き取れず、もう一度、と聞き返した。先ほどよりもほんの気持ちだけ大きくはっきりとした滑舌で、聞き取れる声の返答がきた。

「へえ」

 その内容に思わず、少し驚いたような声が出た。
 男の人が答えた数字は私のひとつ下だ。たぶんそこまで年齢に差は無いだろうとは思っていたけれど、歳下とは思わなかった。
 なんだ、敬語を使う必要も無かったな。

「・・・・・・あの、・・・・・・な、何借りたの」
「え?」

 男の人が口を開いた。唐突だったから、私は彼が何を言ったのかまで聞き取ることが出来なかった。目をぱちくりさせながら見ると、私と視線が交わった男の人はその陰気な目を更に陰気に見えるように伏せ、モゴモゴと言葉を続けた。

「DVD」

 男の人の骨張った手が、私の右手にぶら下がっているレンタル袋を指差した。その仕草で私はようやく、先程聞き逃してしまった彼の質問の内容を察することが出来た。

「ええっと」

 言い間違えないように、レンタル袋の透明なポケットに差し込まれたレシートを見ながら、ゆっくりとタイトルを読み上げた。

「悪魔のいけにえ、ってやつ」
「・・・・・・ほ、ホラー、好きなの?」

 どうしてホラーって分かったのだろうかと疑問が浮かんで、タイトルが露骨にホラーっぽいことを思い出して、そりゃそうだ、とすぐに納得した。
 男の人は先程よりも若干目を見開いている。驚いているのか、引いているのか、分からないけれどたぶんそのどちらかだろう。女がホラー好きって、あんまり可愛くない感じするし。

「んー・・・・・・いや、あんまり・・・・・・」
「・・・・・・え、じゃあ、あれ、な、何で借りたの」
「え、・・・・・・あー・・・・・・な、なんとなく」
「・・・・・・何それ」
「そういう気分だっただけ。店員のオススメって書かれてたし」

 段々と口が緩やかに動き出している自分に気が付いた。もしかして、_結構話をすることが出来ているのではないか。

「・・・・・・こ、この間、借りたやつ、どうだったの?」
「え?」
「この間、ここ来たとき、あれ、あの何か、ほら、借りてたじゃん。どうだったの」
「え、あー、アレね・・・・・・」

 言葉に詰まる。突然歯切れが悪くなった私を、隣の彼が訝しむように見ているような気がする。観ないで返した、なんて言ったら変だと思われるだろうか。

「・・・・・・まあ、普通、だったかな」

 そんな気持ちがあったからか、咄嗟に動いた唇は、辿々しく嘘を吐いていた。先程まで男の人の顔を見ながら話していた癖に、露骨に目を逸らして、詰まっているような声になって、我ながら分かり易すぎる態度だ。こんな見栄、何の意味も無い。

「・・・・・・何ていう映画だったの」
「へ?」
「この、この間、借りてたやつ、あれ、タイトル」
「・・・・・・何だっけ、忘れちゃった」
「何それ」

 呆れた声に聞こえた。チクリ、と嫌な気持ちが私の心臓を突いてくる。

「私、あんまり記憶力良くないから、すぐ忘れちゃうんだよね、ヘヘ」

 元々あまり上手に嘘を吐けた経験が無いから、今の嘘も見抜かれているような気がして、それが嫌な気持ちを更に鋭利にしていった。心臓が悲鳴を上げている。

「・・・・・・・・・・・・そ、それ、あんまり怖くない」
「え?」
「・・・・・・それ。悪魔のいけにえ。あんまり怖くない、と思う」
「・・・・・・そうなの?」

 嘘を指摘されるのではと緊張していると、男の人が話題を切り替えた。気付いていなかったのか、それとも敢えて触れなかっただけなのか、私には分からないけれど、心臓を突いていたものは攻撃を止めた。

「あ、ま、まあ、少し、グロい、けど。で、でも古いし、あれ、特殊メイク、け、結構チープだから、あれでも、怖いの苦手、でも、平気、だと、思う」

 ボソボソと話す男の人は、暑いからか頬が赤いように見えた。ここは建物の影だし、俯いてるせいで前髪がカーテンになってて分かりにくいから、私の見間違いかも知れないけれど。
 心なしか私も、顔が熱い。真夏日だからだろう。



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