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 テレビの電源を入れると、昼のニュースが今年の最高気温を更新と紹介していた。下手糞な人が撮影したのではないかと思ってしまう程、中継映像はコンクリートが跳ね返す熱でゆらゆらと歪んでいる。美人なニュースキャスターが、紫外線対策がどうこうとか、熱中症対策がどうこうとか、私の手前に置いてある新聞のトップを飾っている小学生誘拐殺人事件と同じ空の下とは思えないような呑気さをタレントと共に披露したのを見送り、私はリモコンでチャンネルを変えた。手の中にある数字のボタンを順番に押していく。その度にテレビの中の声が暗号のようにブツブツと言葉を途切らせた。面白そうな番組が見付からないので、一定のリズムを刻んでいた私の親指は最後に赤い電源ボタンを押して動きを止めた。
 扇風機が緩やかに首を振っている。スマホでツイッターを開いて、ぼうっとタイムラインを眺めた。広告にもうすぐ公開するらしい映画の予告編のツイートが流れている。窓の外からはいくらかの喧騒が聞こえてくるが、それでも雑音に囲まれて生活している身としては無性に物足りなさを感じる。けれど、スマホに入っている音楽を流す気にもなれなかった。
 暇を持て余した私は、近所のレンタル店に、最近レンタルが始まったらしいというハリウッド映画を借りに行くことにした。映画に興味は無いけれど、家で暇を潰す方法は限られているし、テレビのコマーシャルがしつこかったから一度くらい見てみても良いかな、なんて思ったのだ。ハリウッド映画ならきっと難しくないだろうし、頭を使う必要も無く見れるだろう。
 ちょっとあそこのレンタル屋に行ってくる。固定電話で主婦仲間との通話を楽しむ母に言い残し、玄関を出た。引き戸を開けたとき、白色だと錯覚してしまう程の日差しに目が眩んだ。続いて焼かれるような気温。網の上で焼かれるサザエの気持ちが理解出来る気がした。
 今は平日の真昼間。おおよそ一般的な職に就いている二十代半ばの人間が、暇を持て余して外をふらつく時間帯ではない。
 では、何故私はそれが出来てしまっているのか。
 理由は簡単だ。
 失業中だからだ。



 先週、仕事をクビになった。
 実際は、自主的に退職届を出した。だから、不当な解雇ではない。・・・・・・なんて、綺麗な言い方をしているが、本当のところは、会社側から遠回しに追い出されたようなものだ。不当な解雇が出来ない世の中で、厄介な社員を穏便に追い出す為には、自主的に仕事を辞めるような状況に追い込めば良い。
 ここは君に向いてないんじゃないか、他にもっと合う仕事があるんじゃないか、環境を変えるのも悪くないと思うよ。
 それまで溜め込んでいたかのように、ひとつの失敗に対する言葉ではないように、矢継ぎ早に言われるようになって間もなく、会社の思惑通りに、私は退職届に押印した。
 退職前後は会社の上司達を本当に恨んだし、然るべき機関へと訴えることだって考えた。でも、就労中の待遇が悪かったわけでも、私がヘマをしてしまうまでの労働環境が悪かったわけでも、働いてる人達が悪人だったわけでもない。
 私が、愚図で、使えない人間だった。それだけの話だ。
 それだけだ。



 平日昼間のレンタル店は、案の定閑散としていた。元々繁盛しているような店ではないけれど、だだっ広い店内には数人の店員と客を合わせても片手で収まる人数しかいない。自動ドアをくぐって少し歩くと、最近リリースされたという人気歌手の新曲が聞こえてきた。作ったような声音で呑気に人生を喜ぶ歌詞だ。初恋がどうとか、友情がどうとか、そんな内容。幸せな空想に陶酔しているようで胸焼けがした。
 新作映画が陳列されている棚に、目当ての映画は置いてあった。有名なハリウッド俳優が主演を務めていたり、コマーシャルや情報番組でしつこく宣伝されていたりしたこともあり、そこそこの人気らしい。判を押したように並べられた同じタイトルのパッケージはそのほとんどに『貸し出し中』の付箋が付けられている。私はまだ中身が残っているケースをひとつ取り、中身を引き抜いてレジへと向かった。
 二泊三日のレンタル料金を払って外に出た。用が済んだからとっとと店を出たが、容赦の無い熱線を浴びてすぐに、もう少し店内に居座れば良かったかも知れないと後悔した。
 目が眩むような明るさの中、横断歩道の向こうでスーツ姿の人が歩いているのが見える。見た目の若さとスーツに着せられている雰囲気から、就活生らしかった。こんなに暑いのにクールビズも出来ないなんて気の毒に。まあ、私には関係が無いのだけれど。
 蒸し暑さに辟易しながら、それでも億劫な足を一歩踏み出させたとき、店の横の細い脇道から小さく猫の鳴き声が聞こえてきた。気の所為かと思い、けれど、本当にいるかも知れないという期待も込めて、今度は耳を澄ませると、もう一度、可愛らしい鳴き声がか細く聞こえてきた。
 店の端まで歩き、影でうっすらと暗いその道を覗くと、鳴き声の主はいた。小柄な黒猫だ。暑そうに地面に寝転がっている。首輪をしていないので恐らく野良猫だろう。人に慣れているのか、甘ったるい鳴き声でこちらを見る。誘惑に誘われるまま脇道へと吸い込まれた。私は、犬よりは猫が好きなのだ。
 猫は怖気付くこともなく、近付いた私の足に擦り寄ってきた。よく見ると、野良猫の割には毛並みも整っているし、随分と太っている。野良猫じゃなくて、誰かの飼い猫なのかも知れない。それなら人に慣れているのも合点が行く。私を見上げるその顔は、どうすれば人間に可愛がってもらえるのかをよく知っているように見えた。

「ちょっと待っててね」

 人の言葉を理解しているのだろうか。たぶん理解なんてしていない。猫は人間ではないから。それでも、私はその猫に言葉をかけてから踵を返した。猫は、私が体の向きを変える動作に合わせるように、にゃあと鳴いた。
 急ぎ足で信号を渡り、歩道を歩き、レンタル店から一番近いスーパーへ入った。ペットの餌が陳列された棚へ向かい、隅に控えめに置かれているそれを手に取って、これまた急ぎ足でレジへと向かった。奪うように店員からレシートと釣り銭を貰い、我慢が出来ず小走りで猫の元へと急いだ。復路での歩行者用の信号は赤だったが、待ちきれずに車が通らないタイミングを見計らって道路を横切った。



 一度引かれた線をなぞるように元の場所へ戻ると、猫はまだいた。ここで逃げられて折角買った猫用のおやつが無駄にならずに良かった。若干の警戒心すら見せない子猫は私が持っている袋に餌を期待しているのか、急かすようにねっとりと鳴いた。

「ほら、にゃーん」

 マタタビ入りの団子をチラつかせるが、思ったよりも猫は無関心だ。何度か鼻をひくひくと震わせて物欲しげに鳴くが、私が期待している反応ではない。
 確か、猫って、マタタビの香りを嗅ぐと酔うんじゃなかったっけ。だから、もっと無防備になって、酒に酔った人間が人恋しくなるように、猫もプライドを投げ捨てて甘えてくるのかと思ったのだけれど。
 予想に反した猫の態度の理由を考えていると、マタタビを見ていた猫の目線が突然私の後ろへと移った。かと思えば、私がその視線の先へ振り向くよりも早く、猫は私の背後へと走ってしまった。とんだ気まぐれに寂しさを感じながら、せめてその後ろ姿だけでも見送ろうかと振り返った。
 ところが、猫は思ったよりもずっと私の近くにいた。飼い猫のように喉を鳴らしながら、サンダルを履いた足に擦り寄っている。
 視線を上げてサンダルの主を確認すると、マスクをつけた若い男の人だった。気配に敏感な方ではないが、それでも、気配も無く現れたように感じた。少しボサボサとした黒髪で、その前髪の隙間から覗いているじっとりとした目線。松のような絵が入った紫色のパーカーで、猫背気味。陰気な雰囲気だと思った。あまり関わり合いになりたくないなあ、とも。
 でも、この猫の飼い主かも知れない。勝手にちょっかいを掛けてしまったのだし、何より、目を合わせてしまった。無言で立ち去るのは少し憚れる。

「・・・・・・こいつ、あの、あれ、マタタビ興味ない」

 私がどうしようか逡巡していると、先に向こうが口を開いた。ボソボソとした声で、よく聞き取ることが出来たものだと自分自身に感心した。陰気な雰囲気に似合う、陰気な喋り方だった。

「・・・・・・あ、あの・・・・・・飼い主さん、ですか?」

 私は恐る恐る口を開いた。湿り気のある視線が私の顔を捕らえ、先ほどよりは幾らか張りのある声が返ってきた。

「・・・・・・そう見える?」
「え、いや、まあ」
「・・・・・・たまに、構ってるだけ。あ、か、飼い主、じゃない」
「・・・・・・そ、そう、ですか」
「・・・・・・」

 男の人は、手に提げていたスーパーの袋から缶詰とタッパーを取り出した。タッパーの中にはキャットフードが入っているらしい。男の人は缶詰を開けると、タッパーの中に入っていたスプーンを手に取り、キャットフードに被せるように缶詰の中身を掻き出して、グシャグシャと混ぜだした。目の前でそわそわと落ち着かない様子の猫は、餌を用意してくれていると理解出来ているのだろうか、私が聞いた中では一番の大きな鳴き声で何度も男の人の足に身体を擦り付けている。その音と鳴き声を聞きつけたのか、どこからか他の猫も何匹か現れた。庇護欲を掻き立てられるような、こう鳴けば人間は食料をくれるのだと理解しているような、そんな大合唱。羨ましい、と思ったのは男の人に対してなのか、猫達に対してなのか。
 黒い前髪の隙間が何を思案しているかは分からないが、男の人は黙ったまましゃがむと、足に擦り寄る猫の一匹を軽く撫でてから、猫の塊の中央へとタッパーを置いた。目当てのものが目の前に現れた猫達は、世界の全てがそこにあるように無我夢中に食らいつき始める。余計な考えなんてそこには無いような猫たちの様子に、私は無意識にため息を溢していた。
 ぼうっと眺めていると、ふと視界の端の視線に気が付いた。釣られるように目線を上方へ移すと、湿り気を帯びた彼の双眸が、私と交わった。

「・・・・・・あ、そ、それじゃ」

 逃げるようにその場から離れた。小走りで家路をなぞる中、もう少し話をする努力はするべきだろうと、照りつく太陽に責められている気がした。
 たぶん、悪い人ではないのだとは思う。そうだと良いのにという私の願望だけれど。



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