09







 目を覚ましたら頭が痛い。飲みすぎたという意識は無いのだが、酒を飲んだこと自体が久しぶりだった所為かも知れない。額を押さえながら布団から這い出ると、母が二日酔いに効くという薬をくれた。珍しく早起きだと言われ、時計を見ればまだ朝の八時だった。
 顔を洗おうと洗面所に立って、自分の不細工な面に驚いた。瞼がこの上無いくらいに浮腫んでいて、最早人相が変わっている。母親はよくこの顔で私だと分かったものだと感心した。たぶんこの顔、私なら私だと気付けない。というか鏡を見たとき本気で誰かと顔が入れ替わったのではと疑った。新手のスタンド使いの仕業だったらどうしようかと思った。
 顔を洗って、歯を磨いて、いつ振りなのか思い出せない朝食を食べた。そういえば今日は何曜日だったっけと思い出そうとしたとき、私の心を読んでいたかのようにテレビでニュースキャスターの爽やかなお兄さんが日曜日だと教えてくれた。どうりで娯楽の特集ばかりしているわけだ。
 母に予定を聞かれ、何も無いと答えた。一緒に買い物でも、と誘われたが、頭痛を理由に断った。本当は、薬のお陰で痛みは和らぎ始めていたけれど。
 昨晩は記憶が無くなっていれば良いのにと願いながら床に就いたが、残念なことに私の脳はしっかりと記憶を残していた。思い出すだけで恥ずかしさと居た堪れなさで頭を抱えたくなる。とんだメンヘラだ。きっと一松くんも愛想を尽かしたことだろう。私だったらとっくに見限っている。
 淀んだ気分でも、母の作った味噌汁は変わらず美味しい。落ち込むとご飯を美味しく感じなくなるなんて話、私は一度として信じたことは無い。どんなときだって美味しいご飯は美味しいし、不味いご飯は不味いのだ。まあ、今日は、完食は出来なかったのだけれど。



 時計の針が二本とも頂点を通過した頃、玄関チャイムの音が鳴った。台所に立っている母が、リビングのソファーに寝転がっている私に出るように促す声が聞こえる。父の方が玄関に近いのに、とテレビに視線を釘付けにされている父を睨んでから重たい腰を上げた。
 はーい、と返事をしながら玄関の戸を開ける。黄色の繋ぎ(長袖で暑そうだ)を着た一松くんが立っていた。

「こんにちはー!」
「え、あ、こ、こんにちは」

 顔はどう見ても一松くんなのに、その口から飛び出した元気な声量は明らかに一松くんじゃなかった。一松くんと同じ顔の男の人には、たぶんこちらが本物の一松くんなのだろうと思しき陰気なボサボサ頭がいる。全く同じ顔だけれど、見比べてみると雰囲気が全く違うから、きっと手前の人は一松くんじゃない、と思う。確信を持て無いまま固まっていると、手前の偽一松くんが再び元気に声をあげた。

「俺、松野十四松! こっちは一松兄さん!」

 鳥と同じ名前を名乗った一松くんと同じ顔の男の人は、年相応ではない笑顔と話し方で一松くんを紹介した。

「・・・・・・あ、う、うん。一松くんは、知ってる、けど、い、一松くん、の、双子?」
「双子じゃなくて六つ子っす!」
「む、え?」

 ポンポンと投げ出されてくる情報に頭がついていけない。一松くんに兄弟がいるという話は知っていたけれど、でもまさか同い年の同じ誕生日が他に五人いるなんて想定の範囲外すぎる。双子や三つ子は聞いたことあっても、六つ子、六つ子って。一松くんのお母さんの妊婦時代のお腹が気になった。
 鳥と同じ名前の一松くんの同い年の弟さんは、貼り付けたように同じ笑顔のまま怒涛の勢いで話しかけてくる。六つ子という情報を認識することに必死なあまり、彼の言葉は全部耳を通り抜けた。

「もう良いから十四松、良いから、ちょっと、あっち行ってて」
「了解っす! 一松兄さんファイトー!」
「いいから、うるさい十四松」

 同じ顔の弟を後ろに下がらせて、一松くんは私の前に立った。一瞬互いに目線を交じらせて、すぐに二人とも逸らした。どんな顔をして一松くんを見れば良いのかが分からない。気まずい。いっそのこと、このまま扉を閉めてしまった方が傷付かずに済むようにすら思えた。
 そんな気の迷いが私の中に生まれ始めたとき、台所の方から聞こえてきた、誰が来ているの、という母の声で私は我に返った。

「と、友達! 私の! ちょ、ちょっと話してくる!」

 声が慌てているので怪しまれるかと思ったが、存外呑気な両親は私の言葉を疑うどころか玄関を確認にすら来なかった。この両親で本当に良かった。家で男の話題を出したことなんてほとんど無いに等しいのに、今この場に同年代の男が二人いるなんて知られたら面倒以外の何物でも無い。
 サンダルに履き替えて、玄関の戸を閉めた。リビングの窓から見えないように石畳を渡って、二人と一緒に家の前の道路まで出た。コンクリートの地面が太陽の熱を照り返して、サウナの中にいるような気分だ。たしかお昼は過ぎていたから、今は一日の中で一番暑い時間帯だろう。

「・・・・・・ご、ごめん、押しかけたりして」
 一松くんがおずおずと謝ってきた。いつもの自虐はしないのか、と聞きたくなるくらい、極々普通の申し訳なさそうな顔だ。

「え、あ、だ、大丈夫、だけど、あの、何で家知ってたの?」

 私の問いに、一松くんはパーカーのポケットから何かを取り出した。その手にあったのは、私の財布だ。そういえば昨日、惰性から買い物の後にレジ袋に入れたままだった気がする。とても危ないことをしてしまっていた。
 一松くんから財布を受け取ると、彼はまるで法を犯してしまったように青い顔で慌てふためいた。瞳がぐるぐると私以外の方向に飛び回っている。

「・・・・・・・・・・・・こ、これ、ごめん、か、返さなきゃと思って、あの、か、勝手に中見ちゃって、保険証に住所書いてあったから、あれ、ごめん」
「あ、保険証、なるほど、それで」
「何かこれそのあの、あれ、ストーカーみたいな感じで、その、ごめん、本当、あの」
「え、全然そんな、大丈夫、ていうかこっちこそ、その、わざわざごめん、本当ありがとう、すごく助かった」

 あまりにも一松くんが腰を低くして謝り続けるものだから、言われるこちらが申し訳なくなってくる。私も普段よく謝るから、もしかしたらこういうふうに見えていたのかも知れない。一松くんの姿が自分に重なって、色々な悲しみが込み上げてきた。

「それに、別にストーカーじゃないでしょ。後をつけたわけじゃあるまいし」

 そう言うと、一松くんは一瞬だけ眉根をピクリと動かした。え? 別に後つけたりしてないよね。されてないよね私。

「一松くん?」
「え、あ、いや、別に、・・・・・・・・・・・・あ、あのさ、い、今から、あれ、その、話、とか、出来る?」

 一瞬動揺していたように見えたけれど、よく考えれば今日は会ってからずっと挙動不審に見えるから、さっきのは私の見間違いというか、挙動の怪しさの延長線上みたいなものだろう。私も色々と考えて変に身構えてしまっているようだ。

「あ、えっと・・・・・・良いけど、両親ともいるから家はちょっとアレ、かも、あの、昨日の公園は駄目?」
「・・・・・・それでも大丈夫」

 話がある。
 一松くんのその言葉に、私の心臓がぎゅっと固まるのを感じた。たぶん、悪い話はしないと思う、けれど。昨晩の一件の後だから、正直なところ怖い。
 一度、両親に出かける旨を伝える為にリビングへ戻った。友達とこれから少しお茶をしてくる、という私の言葉に、まさかその相手が男だなんて微塵も思っていないのであろう両親は疑う様子もなく頷いた。
 再び玄関から出ようとして、ふと自分の姿に意識が向いた。朝起きてから着替えもせずにいたから寝巻きのままだ。Tシャツにサルエルパンツだから、一応外に出ても不自然ではないけれど、でもあまり相応しい格好ではない。顔もすっぴんのままだ。さっき散々見られていた癖に、今になって恥ずかしくなってきた。サンダルに履き替え、今更両手で顔を隠しながら、急ぎ足で二人の元へと駆け寄った。

「あ、あの、申し訳ないんだけど、ちょっとだけ準備の時間を頂いても良いですかね」
「・・・・・・別に良いけど」
「あはは! 時間はいくらでもあるから大丈夫だよ〜! 俺達全員ニートだし!」
「えっ、六つ子全員?」
「ばっ! ばっか十四松おまっ!」

 まさか良い年した成人男性を六人も養い続けている親がこの世に存在しているというのか。私が驚いている横で、一松くんが絶句の表情で十四松くんの口を止めようと手を伸ばすが、それよりも早く十四松くんの口が動いた。

「うん。俺達六つ子で全員ニート。やばいよね〜」
「十四松ゥーッ!」

 一松くんって大きな声出せたんだ、という場違いな感動を喉の奥に押し戻しながら、準備をさせてもらいに再び家の中へ戻った。さっきの一松くんの声が聞かれていたらどう誤魔化そうかと必死に思考を巡らせていたが、当の両親は有料チャンネルで生中継しているテニスの試合に夢中のようで、私を見もしなかった。
 髪を整えて、軽く化粧をして、よそ行き用とまではいかないけれど、少しだけ綺麗な格好を選んだ。姿見で最後のチェックを終えてから時計を確認すると、急いで準備したつもりだったが二十分経ってしまっていた。あんな炎天下の中での二十分は長い。お詫びの気持ちとして、冷凍庫に入れていたアイスキャンディーを三本取り出した。

「お待たせしましたごめん! これお詫びです」
「やったー! ありが特大ホームラン!」
「え? なんて? まあいいや、どうぞ」

 アイスを受け取った二人の首元には汗が滲んでいた。タオルも持ってくるべきだったという後悔が罪悪感を強くした。長い時間待たせてしまったことをもう一度詫びると、ニートだから、と再びの返事だった。
 私も自分の分のアイスを頬張っていると、隣に近づいてきた十四松くんが、アイスを持っていないもう片方の手で耳を貸すように促してきた。それに釣られるままに首を傾げると、内緒話にしては大きな声で話してきた。

「一松兄さんね、一人でここに来る勇気ないからって、俺を引きずってきたんだよ」
「え?」
「俺とトド松はね、住所分かるなら郵送すれば良いじゃんって言ったんだけど、一松兄さん、お姉さんと直接話したいって言ってたんだ。その癖に一人で行くのは無理だからって、俺に一緒に来るように言ってきたんだよ」
「じゅ、十四松!」

 他の兄弟の新しい名前も出しながら、十四松くんはペラペラと一松くんに関して話してくる。私だけにこっそり話してくれているつもりらしいが、声が大きくて一松くんにだだ漏れだ。そもそも、一松くんの目の前で私に顔を近付けてコソコソと話そうとしている段階から既に疑いの目線を送られていたのだ。十四松くんも、一松くんとは違うベクトルに不器用らしい。

「お、俺は、別に、そういう訳じゃなくて、方向音痴だから地理に強い十四松がいれば助かるってだけで」
「一松兄さん俺より地図見るの得意じゃん」
「じゅーうしまァーつッ!」

 一度も聞いたことがなかった一松くんの腹からひねり出す大声を一日に二度も聞けるとは。普段声を張り上げないのだから無理をして声帯が死んでしまわないだろうか。

「お前、ちょ、あの、も、もう良いから、ほら、金やるからパチンコでも行ってろ。ていうか行ってて下さいお願いします。マジで」
「野口さん一人じゃたかが知れてまっせ〜」
「良いから! なんならもう一枚やるし! 今度キャッチボールにも付き合うから!」
「りょ〜かいっす!」

 財布から取り出した二千円を押し付けられた十四松くんは、一松くんの必死の説得の意図を汲み取ってくれたのかは分からないが、両手で大事そうに野口英世の描かれた二枚のお札を持ちながら、私達がこれから向かう方向とは逆方向へと走って行った。
 ところで、私はパチンコに行ったことないから分からないけれど、二千円でパチンコって遊べるのだろうか。



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