10







 小さな公園は、今日もやはり閑散としていた。いや、閑散よりも、無人と言った方が的を射ている。でも、今はそれが心底有難い。
 二人で、昨晩と同じようにベンチに座った。アブラゼミの鳴き声が茹だる頭にじんわりと響いてくる。

「・・・・・・あ、暑いね」
「・・・・・・うん」

 十四松くんがいなくなった途端、会話を続けられなくなってしまった。先程の空気は十四松くんによって保たれていたらしい。今まで二人でいるときにどうやって会話をしてきたのか思い出せなくなっている。
 私は、一松くんとどんな会話をしてきたんだっけ。確か、映画とか猫とか、あと、えっと、色々話していた気がするのに。話しながら笑ったりちょっと怒ったり、なんて余裕もあった筈なのに。芋づる式に昨晩の出来事も蘇って、気まずさと同時に後悔の気持ちもムクムクと胸の中を圧迫してきた。息が苦しい。
 これなら、適当な理由をつけて断るべきだった。一松くんは私と何を話すつもりなのだろう。昨日のことであるのは確かだと思うのだけれど、どのことについて、どんな話をするのか全く予想が出来ない。想像ができないという怖さが、身構える為の想像の余地を塗りつぶしていく。間に流れる沈黙が私の喉元を締め付けていく。

「・・・・・・あ、あのさ、昨日は何か、ごめん、ほんと」

 沈黙に耐えかね、私は口を開いた。

「あの、私、久々にお酒飲んだってのもあったから、たぶん、変なこといっぱい言っちゃってたと思う。一松くんにも色々言ったかも知れないけれど、忘れちゃってたらごめん、本当にごめん」

 ついさっきの一松くんのように、馬鹿の一つ覚えみたいに、私は謝罪の言葉を繰り返した。

「い、いや、別に、気にしてないっていうか、その、あれ、そんなに変なこと、言ってなかった、と、思うけど」

 数分前の私が同じことをされて困った気持ちになったばかりだというのに、全く同じことをして一松くんを困らせているのが、我ながら本当に馬鹿だ。そのことを詫びようとして、結局また謝っていることに気がついて、益々自分のことが嫌になった。

「あ、謝らなくても、あれだから、大丈夫、だから。俺なんかにそんな価値無いし」
「・・・・・・またそうやって卑屈なこと言う」
「まあ、クズですし」

 一松くんは、にいっと細い笑みを浮かべた。自嘲的ではあるけれど、一松くんが笑ってくれたお陰で、私はちょっとだけ安心した。十四松くんがいなくなってから、お互いに気まずく感じていたらしい空気が、ようやくちょっとだけ緩んだように感じた。重々しくて上手く話せなかった口が、先程よりも軽く動いてくれる。

「・・・・・・それじゃ、話って、なに?」
「・・・・・・・・・・・・」

 私の問いに、視線を逸らした一松くんはなかなか答えない。何度か口を開閉させて答えようとしているらしかったので、彼の声が出てくるまで待つことにした。私も彼らと一緒で無職の身だから、時間はいくらでもあるし。
 アブラゼミの他に、ツクツクボウシの鳴き声が増えた。つくつくほぉーし、という独特のリズムを数えて、沈黙の時間をやり過ごした。

「・・・・・・べ、別に、話があって、とかじゃなくて、本当は、その」

 ぽつりぽつり、と一松くんの口から言葉が出てきた。さっきまでの元気は蝉に奪われてしまったのではと疑ってしまうくらい小さな声だったから、蝉の鳴き声にかき消されてしまわないように、私は一松くんに近付いた。こぶし二つ分くらい空いていた隙間がほとんど無くなって、今の二人の間には指が一本通るくらいしかない。一松くんが少し驚いてたけど、でも、こうしないと声、聞き逃しちゃうし。

「あ・・・・・・さ、財布届けたかったのと、その」

 話をしたいと言ったのは財布の後じゃなかったっけ、と思ったけれど、一生懸命言葉を探している一松くんの邪魔をしたくなかったので、動きそうになった口を真一文字にきゅっと結んだ。
 言葉を迷っていた一松くんは、二回深く呼吸をしてから、ゆっくりと私を見た。

「・・・・・・き、昨日、泣いてたから、心配で」

 じわ、と胸の中心が熱を帯びた。あまりの熱さに戸惑ってしまって、私は絞り出すようにごめん、と返すだけで精一杯だった。

「だ、だから、あれ、謝らなくて良いって。ていうか、これは謝ることじゃ無い、で、しょ・・・・・・えっ」

 一松くんが固まった。それは当然で、私は声を絞り出したと同時に、折角化粧をしたのに、両目からボロボロと涙を溢し出してしまっていた。昨晩は酒の所為だったとしても、今日はこんな真っ昼間から素面で醜態を晒してしまうなんて。こんな失態、誰が予想出来たものか。

「え、ちょっと、え」

 薄々思ってたけれど、一松くんって童貞臭いなあ。同性相手は分からないけれど、女子相手だと本当にコミュニケーション取るのが苦手なんだろうなって思う。本人には絶対言わないけれど。
 幸いなことに、ハンカチを持ってきていたので涙と鼻水が垂れ流しっ放しになるという危機は回避出来た。動揺している一松くんが、何度も不慣れな様子で心配の言葉をかけてくれる。声で返答しようとすると再び呼吸が乱れてしまうので、私はその度に分かるよう大きく頷いた。
 一松くんがソワソワと周囲を見回している。幸い、人の多い通りではないこともあって、日曜日の昼間でも大人はおろか子供すらいない。
 人目が気になるのは当然だ。本当ごめん。頑張って早く落ち着くように頑張るわ。私の肺活量を舐めんなよ。
 少しずつ呼吸が落ち着いてきて、目元を押さえていたハンカチを下ろした。肌に当てていた部分を確認すると、ファンデーションやアイシャドウで汚れていた。これはもう仕方がない。

「・・・・・・ごめん、まさか自分でも、な、泣き出すとは思わなかった」
「あ、だから、あれ、謝らなくていい、って」
「あ、そうだった、ごめ・・・・・・うん。分かった。ありがとう。もう落ち着いた」
「・・・・・・ん」

 まだ名残で鼻をすんすんと鳴らしていると、一松くんの身体がこちらを向いたのが視界の端に映った。あのさ、と声が降ってくる。私も身体を一松くんの方に向けようと足を動かしたら、一松くんとお互いの膝をぶつけてしまった。そういえばさっき、ほとんどすぐ隣まで近付いたんだった。今更恥ずかしくなって、心臓が大きく脈打ち出しているのがよく分かった。でも突然距離を離れるのも一松くんの隣が嫌だと誤解をされるかも知れないし、失礼になってしまう気がする。ごめん、とぶつけたことを謝って、今度はぶつからないように、軽く身体を捻って一松くんの顔を見た。

「・・・・・・何ていうか・・・・・・俺は、・・・・・・その、極論だけど、か、神でも仏でもない。だから、その、何ていうか、その、何かを抱えてるような感じ、というか、その・・・・・・つらいものを、こう・・・・・・、消化、しきれないでいる、感じ、なのは分かる。たぶん、昨日言ってたこと、が、大きく関係してる、っていうのも。・・・・・・俺なんか、じゃあ、猫の手にもならないかも、知れないけど、・・・・・・た、たす、助けたい、とも、お、思う。・・・・・・・・・・・・でも、俺は、その、あんたを、救えない。じ、自分のことで精一杯だし、正直、こう、自己犠牲、が出来る程人好しじゃない。そんな余裕、持ってない。・・・・・・酷いことを言ってるかも、知れない、けど」
「べ、別に、助けて欲しいわけじゃない」
「・・・・・・俺にはそう見える、けど」

 返せる言葉が見つからなくて、私は閉口してしまった。助けて欲しい、なんて、そんなつもり無いのに。無いと思う。たぶん。何だか自信が無くなってきてしまった。

「だって、助けて欲しいから、口に出したんじゃないの。助けを求めてないなら、俺なら、わざわざ言わない、たぶん」
「・・・・・・助けて欲しい、とは、違う。たぶん。だって、私の問題は私のものだし、一松くんには何一つとして関係無い。だから他人がどうにか出来るってもんじゃない。・・・・・・自分のことだから、何というか、もし、他人にどうにかしてもらったとしても、意味が無いことだと、思う。だって、例えば、学校の宿題が分からないからって他人にやってもらったとしても、それって結局自分はその宿題が分からないままだし。つまり、何ていうか、そういうこと」

 我ながら下手糞な説明で、会話のキャッチボールが失敗しているような気がする。でも、一松くんは話を聞いてくれて、自分なりに咀嚼の努力をしてくれたみたいで、数秒の間を置いた後に、そう、と返事をくれた。また更にその数秒後、一松くんの口がゆっくり開いた。

「・・・・・・とにかく、俺は、何も出来ること、無いけど、で、でも、だから、その、何もしないし、何も言わないし、・・・・・・ほら、その、宿題だって、代わりに全部ってのは駄目でも、一緒に考えたり、教えたりっていうのは、出来るから、つまり、何が言いたいかって、その・・・・・・」

 視線を合わせたり逸らしたりしながら、一松くんは赤い顔で辿々しく言葉を紡いでいる。彼は自分の気持ちや考えをアウトプットすることが上手じゃないみたいだけれど、私も下手だからお互い様だし、苦手なのに一生懸命やろうとしてくれている。優しい人だと思う。
 一松くんは、何度か呼吸を整えると、右往左往していた顔を私へ向けた。それは暑さだけとは思えないくらいに、耳や首まで真っ赤になっている。茹でた蛸みたいだ。でもその目は、何かを決心したようにはっきりしていた。

「・・・・・・・・・・・・な、泣きたかったら、良いよ、泣いても。その、嫌なら、顔、見ないし」

 眼前の顔色に釣られるように、私の顔も熱くなった。たぶん、一松くんと同じくらいの茹で蛸になってると思う。

「な、なに、それ、ニートのくせに、ず、ずるい・・・・・・ずるいよ・・・・・・」

 じわっと視界が曇った。折角泣き止んだばかりだというのに。もう化粧のことは構わずに、泣いてる顔を出来る限り一松くんに見られないようにしようと、ハンカチで思い切り両目を押さえた。少女漫画のヒロインみたいな綺麗な涙の流れ方というのは総じてフィクションでファンタジーだ。しゃくりあげると豚みたいな音を喉や鼻の奥から発したり鼻水が容赦なく垂れてきたりする。地獄だ。そんな地獄のような容貌はさすがに一松くんに見せられない。
 引き攣る呼吸に肩を震わせていると、右肩に何かが乗ってきた。一松くんの手だ、とすぐに分かった。恐々と腫れ物に触れるように、臆病な力加減で、宥めるようにゆっくりと撫でられる感覚が伝わってきた。彼の手が布の上を滑るたびに、そのリズムに合わせて涙袋が中身を溢した。一松くんは、何も言わない。
 ハンカチを少し浮かせて、横目に一松くんを覗くと、彼は本当に私から顔を逸らしてくれていた。真っ黒の髪に真っ赤な耳がよく映えて見える。肩に置かれた手は、目を逸らす代わりに差し出された心配の形なのだろう。
 じんわりと熱に溶かされるような気分だ。一松くんの助けを求めていたつもりなんて無かった筈なのに、もしかしたら、本当は、誰かに救って欲しかったのかも知れない。そんな考えが、違和感も無く私の胸に滲んできた。
 自分の問題は自分だけのもので、一松くんがそれを肩代わりすることは不可能だ。それは、確かにそうだ。でも、本当は、私は、生き辛くて不幸だという悲しさを抱えて殻に閉じ籠っていた私を、私自身を否定し続けていた私のことを、肯定してくれる人を求めていたのだ。一松くんは、私が無意識の泥の底に隠していた本音を、優しく掬い上げたのだ。
 右手だけハンカチから放して、一松くんのTシャツの裾を掴んだ。一松くんの驚いたような声が聞こえてきたが、浮腫んだ目を見られたくなくて、顔は上げないまま、泣き疲れた喉から声を絞り出した。

「・・・・・・ごめん」

 小さな声だったけれど、一松くんには届いたようだ。

「・・・・・・だから、謝らなくて良いって」

 一松くんの笑う声が聞こえた。

「そう、だね、うん、ありがと、一松くん」




 嗚咽が落ち着いた頃、アイシャドウはすっかり剥がれ落ちていた。手鏡を持ってこなかった数十分前の自分を憎んでいると、落ち着いても尚ハンカチで隠し続けている私を変に思った一松くんが尋ねた。

「・・・・・・顔大丈夫?」
「大丈夫じゃない」

 即答したら笑われた。

「別に、何も思わないから、外していいよ」
「それはそれで悲しい」
「何それ。意味分かんないんだけど」

 大丈夫だから。大丈夫だって。何度も言われるものだから、私は恐る恐るハンカチを膝の上に下ろした。一松くんは、驚くわけでも笑うわけでもなく、極々当然であるように表情を変えなかった。

「全然なんともないじゃん。確かに目の周りが・・・・・・ちょっとだけ汚れてるけど、でもまあ、そんなもんでしょ」

 じゃあその間は何なんだ。そう思ったけれど、一松くんがあまりにもあっけらかんとしているので、私は揚げ足を取る気力も作る気になれなかった。気を使っているのか、本当にそう思っているのかは分からないけれど、でも、一松くんがそう言っているのだから、これで良いんだと思う。
 そういえば、と一松くんに声をかけた。

「言ってなかった気がするんだけど、私もね、働いてないんだよね」
「・・・・・・え、は? 無職だったの? マジ? んなこと言ってなかったじゃん」
「働いてるとも言ってなかったと思うけど」
「え、あ、あぁー・・・・・・じゃあ、保険証、国民保険だったのは、あれ、やっぱり」

 見抜かれてそうだと思っていたけれど、案外分からないものなのだろうか。
 一ヶ月と少し前まで仕事をしていたことと、色々あって辞めたということを説明すると、一松くんはヒヒッと陰気な笑い声を漏らした。

「ほら、仕事なんてするもんじゃないでしょ」
「うーん、まあ、確かに辞めた直後はそう思ったかなあ。・・・・・・今もちょっとだけ思ってる、かも」
「お姉さんニートの素質ありますなあ」

 そうかもね、と私が笑うと、一松くんも笑った。散々泣いて醜態を晒したからか、心の内を話したからか、気を許せるようになった気がする。お互いに。
 そろそろ十四松がパチンコで負けて戻ってくる頃だ。一松くんのその言葉で、私達は帰ることにした。一松くんは私を家までわざわざ送ってくれるのだという。金が尽きたら私の家に集合するように言ってしまった、なんて言っていたけれど、十四松くんにお金を渡しているとき、そんなことは一言も言ってなかったのを私は知っている。嘘を吐くことも下手だなんて、つくづく不器用な人だと思った。

「ねえ、一松くん、今度映画館に何か観に行こうよ。一松くんが選んでくれれば外れなさそう」
「え、べ、別に、良いけど、今はちょっと金無いから、あれ」
「十四松くんにあげてたしね。お金あるときで大丈夫だよ。無職はほら、時間がいっぱいあるし」

 私がそう笑うと、一松くんは少し顔を赤らめていた。そういえば、一松くんはラインをしていないんだったっけ。連絡を取る方法が無いと口約束も意味が無い。家に着いたら、携帯の番号でも教えよう。
 家まで大した距離も無いのに、私達はゆっくり歩いていた。家に着くまでの時間を惜しんでいるようで少し気恥ずかしい。でも、一松くんの隣は心地良くて、離れ難いと思ってしまうのも、正直な感想だ。

「一松くんが彼氏になってくれたら、すごく安心出来そう」

 なんとなしに、ほろりと溢していた。自分の言葉に驚いて一松くんを見ると、今までで一番の茹で蛸になっていて、間抜けな魚のように口をパクパクと開閉させていた。

「かっ、え、は」

 単語のひとつも言えなくなった一松くんを見て、自分の口から出した言葉が信じられなくて、全身の熱が首から上へと集まっていくのを感じた。

「・・・・・・で、でで、でも、さ! わ、私、安定志向だから、一緒になるなら、ちゃ、ちゃんと働いてる人が良い! い、一松くん、まだしばらくは働くつもり無いんでしょ?」

 慌てて捲し立てると一松くんは眉尻を下げた。悪いことをしてしまったような後ろめたい気分と、一松くんが残念そうにしてくれる理由への期待が、より一層私を混乱させた。
 わざと鈍くしていた足を、誤魔化すように素早く動かした。反応に少し遅れた一松くんが追いかけてくる。追及されたくなくて、私は走り出した。一松くんが私の名前を呼んでいる。
 あの交差点を右へ曲がれば、私の家は目前だ。すぐに玄関に飛び込もう。あと数秒の距離を逃げ切ろうと右足へ重心を傾けたとき、左手を一松くんに捕まえられて、私は交差点の直前で強制的に一時停止した。一松くんが、再び私の名前を呼ぶ。
 深呼吸をして、私は振り返った。



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