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「どうして苗字で呼ぶんだい」

 中学三年生の秋。花京院の家で受験勉強をしているときだった。
 唐突に投げかけられた質問だった。私は参考書をめくる手を止めて、机を挟んで向かいに座っている花京院の顔を見た。

「どうしてって」
「前は名前で呼んでたじゃあないか」
「なんだって良いじゃん」
「理由もなしに変えるものなのかい」
「そうだよ。そういう気分ってだけ」

 私の返答に、花京院は納得が出来ないという表情をしながらも、渋々と閉口した。
 本当は、理由はある。
 典明くん、と呼ぶことに、無性に気恥ずかしさを感じるようになった。他の男子のことは苗字で呼んでいるのに、花京院だけ名前で呼んでいるのが、まるで特別扱いをしているようで、周りに変に勘ぐられてしまうような気がした。
 思えば、私が花京院へ抱いていた気持ちが自覚症状となって表れ始めていたのだろう。そうだと気付かなかった当時の私は、気恥ずかしさを花京院に知られることがまた気恥ずかしくて、咄嗟の嘘で誤魔化した。

「ところでさ、ここ分かんないんだけど」
「どれ」
「ここの三番。対角線を引いて角度が同じなのを証明すればいいのは分かったんだけど、そこから先が分かんない」

 問題がわからないのは本当だったが、話題を逸らすために私は参考書を花京院の前に差し出した。思惑通りに花京院は参考書の内容に目を向けて、どう解説しようか考え始めたので、この話題は有耶無耶になった。問題を解き終わった後に再び話題をほじくり返されたらどうしようかと心配していたが、結局それ以降に同じ話題が上がることはなかった。

「それで、ここが直角だっていう証明は出来ているだろ。だから残りの二角の合計は必ず九十度になるから、さっき証明したことと合わせれば答えが出る」
「はぁ〜本当だ。こりゃすっきり。ありがと」
「こんなのに今頃悩んでたら入試当日は答案を埋められないだろうな」
「証明はあまり得意じゃないんですう」

 八つ当たりのように小母さんが淹れてくれたココアを呷った。泥のような甘ったるい味が怠くなった頭にじんわり染み込んでいく。

「……何も無理矢理志望校のレベルを上げる必要は無いんじゃあないかい。小母さんだって下げても良いって言ってたじゃあないか」
「一応私立で併願は受けるし、良いの。私が行きたいって言ってるんだから、良いでしょ別に」
「頑固だなあ」
「花京院ほどじゃあない」

 志望校はここらの近辺ではレベルが高いと言われている進学校だった。そして、花京院が志望しているところでもある。私の成績では到底無理……という程ではないのだが、少しだけ内申点がボーダーラインに足りていなかった。確実に受かる為には、当日の試験で他の人たちよりもずっと高い点を取る必要があった。

「高校入ったらさ、なんか部活するの?」
「今からそんなこと考えるくらいなら入れるように勉強しろよ」
「いいじゃん。疲れたからちょっと休憩しようよ」

 私の軽口に花京院はため息を吐きつつも付き合ってくれた。たぶん私が質問ばかりしていたから、一人で自習するよりもずっと疲れてると思う。残念ながら、申し訳ないという気持ちよりも幼馴染が頭良くて助かったという気持ちが勝ったから、謝るつもりはあんまり無いけれど。

「花京院は美術部入るの? 絵上手いじゃん」
「絵が上手く描けるかどうかと描くことが好きかどうかは話が違うさ」
「じゃあ何部にするの? 私はどうしようかなあ。野球部のマネージャーとか良いかも。そんで、良い雰囲気になった部員の誰かに、タッチの南ちゃんみたいに私を甲子園に連れてって、なんて」
「……僕に世話されてばかりなのに他人の世話なんて出来るのかい。それに浅倉南は野球部のマネージャーにはなってない」
「いつ私が花京院の世話になったのさ」
「……やっぱり、………………いや、何でもない。この二、三時間ずっと質問ばかりしてくる癖によく言うよ」
「なにその変な間」

 私が追及しても花京院は答えてくれなかった。答えたくないなら何でそんな妙な間を作ったのさ。意味分かんない。
 思えば、私が彼を花京院と呼ぶようになった頃から、花京院のことが分からなくなっていたのかも知れない。私の中で膨らみつつあった気持ちが今まで知ったつもりになっていた花京院の姿を曇らせてしまっていたのだ。そうでなくとも、今までも単に分かっていると思い込んでいただけなのかも知れないけれど。
 その気持ちは曇らせると同時に、私が誰よりも花京院を知っていたいという意地の為の強がりもより強固にした。私は幼馴染で、ずっと一緒で、隣同士だから。私は花京院のことをよく知っている。その辺にいる奴らなんかよりもずっと。
 ずっと。